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家族の儀式-川端康成「ざくろ」考

母がよく父の残したものを食べていたのを、きみ子は思い出した。きみ子はせつない気持ちがこみあげて来た。泣きそうな幸福であった。母はただ勿体ないと思って、今もただそれだけのことで、きみ子にざくろをくれたのだろう。

川端康成 掌の小説「ざくろ」



はじめに-出会い-


 二十歳の誕生日、祖母は押入から木箱を取り出し、やおら立ち上がって私に手渡した。曰くそれは、かの川端康成も使っていた万年筆だそうだ。何十年か前のある日、祖母が丸善を訪ねたときに「文豪も愛用した」という売り文句に押し負けて購入したという。私は俗物なので、家に帰るなり万年筆のメーカーと型番を必死にググり値段を探した。もう取り扱いのないものらしく、中古価格で30万円近い値段がついていた。
「こんなの、どう使うんだよ。」私の頭の中は、とても貴重な骨董品を手に入れた興奮と困惑が混在していた。

 私は自称本の虫で、実際いまの若者の中なら読書をする方だと思う。でも私の読書歴には偏りがあった。小説が好き、ミステリーはあんまり好きじゃない。けれど米澤穂信は好き。石田衣良が好き。村上龍が好き。辻村深月が好き。森絵都が好き。原田マハが好き・・私はかなり入れ込む方で、大体「全部読んだ!」か「一冊も読んでない!」である。しかし正直、明治・大正・昭和前期の文豪で、しっかり読んだことがあるのは太宰と安部公房くらいである。川端は知ってはいたけれど、テストのための知識として理解をしていただけで、その文章に触れたことはほとんどなかった。

 だから万年筆をもらったのは、ある意味ちょうどいい機会だった。名作小説「伊豆の踊り子」「雪国」「古都」。どれもなんだか手を伸ばしずらかっただが、法外な金額の万年筆を使おうものならばこのくらいは履修するべきである。ようやく川端に触れる口実を得た私は、とうとうページをめくったのであった。

 有名順で色々読んだが、結局私のハートを射抜いたのは「掌の小説」であった。たなごころの小説、短編小説集。私の中では川端の"良さ"とはストーリーよりも精緻で美しい情景描写にあると結論が出ていたので、むしろ短編にこそ川端らしさがあると信じていた。そして冒頭の「ざくろ」である。実は私は以前これを読んだことがあった。どこかの入試の過去問か、もしくは教科書かテキストで。ただその時は「答え」を求めて血眼になりながら文章の"解読"を試みていただけなので、今回とはモチベーションが全く異なる。どんなに素晴らしい文章でもテスト化で、その良さを失ってしまう。


「ざくろ」と私


ざくろ

 5歳の頃、私は人生で初めて柘榴を食べた。校庭に生えている柘榴の木から熟したものを、うさぎ組の先生がもいで、適当に割って実を一粒渡してくれた。味はよく覚えていないけれど、私はあの瞬間を回顧するたび、素朴な喜びを感じる。きっと美味しかったんだろうな。だから私は読み始める前からこの話が好きだった。ざくろが好きだった。

 「ざくろ」を簡単に説明すると、出征前に挨拶をしに来た啓吉ときみ子の別れの話である。きみ子は最近父親を亡くしており、縁先のざくろがよく生っていることにも気がつかないで日々を送っている。そんな中、啓吉が挨拶にやってくる。出征だから、帰ってこれるかわからない。きみ子が啓吉を好いているように、また啓吉もきみ子を好いているのだろうか。今生の別れかもしれないのに、啓吉は照れ隠しのようにあっさり去ってしまう。すると母が啓吉のかじったざくろをきみ子に渡してきて、きみ子は恥ずかしがりながらも食べかけのざくろを一口かじるのである。

 中学生くらいの、初めてこれを読んだ時の私は「何を間接キスでこんなに慌ててるんだろうか」というような、的外れここに極まれりな感想を持った。いや、実際には純愛を前にただ照れ隠しをしていただけかもしれない。ただ、それ以上何かを踏み込んで考えることはしなかった。きみ子の齧ったざくろは甘かったのだろうか、酸っぱかったのだろうか。そんなことばかり考えていたのである。


結婚する意義?


 さて、長い茶番にお付き合いいただきありがとうございました。ここから回顧録はやめて、「ざくろ」をテーマに社会学的な方向に切り込んでいきます。

 結論から言えば、私は「ざくろ」にこそ未婚問題・少子化社会(の構造の一部)を打破する鍵があるのではないかと考察しています。このことを話すには、まず昨今の「選択的未婚」というトレンドから追う必要があります。

「一生結婚するつもりはない」と答える未婚者の微増傾向は続いており、男性では12.0%、女性では8.0%となった。

https://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou15/gaiyou15html/NFS15G_html02.html

「正直なところ、結婚する意義が理解できないんですよね」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8a58c59307d20df2cfb326d620a282697246d25a


 今は2024年(信じ難い)なので2015年はもう10年くらい前の調査結果ですが、おそらく足下の推移もこの傾向をなぞっているでしょう。「独身貴族」という言葉が流行したように、今や独身というステータスを頭ごなしに否定する人も、嫌う人も減りました。社会的には未婚率も、未婚選択率も一定水位で上昇・維持しているのです。

 私が気になったのはyahoo newsの記事にあった「結婚する意義が理解できない」という言葉です。ここに、未婚率上昇の鍵があるのではないでしょうか。「意義」と調べると次のように出てきます。

行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するにふさわしい積極的な(すぐれた)価値。

 積極的な価値のことを、本稿では「メリット」と言い換えます。往々にして「メリット」こそが「積極的な価値」を人々にもたらすと考えるためです。

 私は女性の言い放った「意義が理解できない」という言葉が腑に落ちませんでした。というのも私は結婚をして「家族」になるということがメリットに依存して成立してきたわけではないんじゃないかと思っているからです。もちろん、人間も生物ですから、子孫を残すことが生物の至上命題だとすれば、マクロな視点で見れば番を求める行為自体は打算的であり、それをメリットと呼ぶのが正しいかはわかりませんが、その点を切り取って「結婚にはメリットがある」と断じることは容易いです。しかし本当にそうでしょうか?結婚に、家族になることに、メリットが存在する。それは幻想ではないのか。

 そもそも私たち人間は一人では生きていけません。共存する必要があります。しかし共存というのは施しと妥協を伴います。利己的に共存することはかなり難しいことです。「メリット」という言葉が、あくまで「私」という主体にとって利益をもたらすことと認識・解釈するのならば、そもそも人付き合いの中に純然たるメリットを見つけ出すこと自体が困難なことだと思います。

 特に結婚はその最たる例です。結婚する・家族になるということは、古い価値観かもしれませんが、生活空間を共有し(同棲)、家計を共有し、お互いの時間を共有することを意味します。そしてこれらの共有は常に互いにとって快適であることを意味しません。支え合いというのはよりかかることも、よりかかられることもあるのです。最近は事実婚という、上に挙げた「共有」をしないという方針をとるカタチもあるようですが、これもやはり「メリット志向」とでもいうべき価値観から生み出されているように感じます。

 つまり、今の若者(結婚適齢期の人といえばいいのか?)は「結婚・結婚生活・家族」に幻想を抱いているのではないかということです。そもそも存在しえない結婚と家族における純粋なメリットを、何かにあてられて錯覚している。だから「結婚に意義を感じない」という言葉が出てくるのではないでしょうか。私はこれが「家族の儀式」の消失に由来するのではないかと推測しています。



家族の儀式-「ざくろ」から-


家族

 そもそも「家族」ってなんなんでしょうか。お父さんがいてお母さんがいて、それが「家族」ですか?これではジェンダーのトレンドが汲み取り切れてませんね。父父のような同性の家族だっているだろうし、父子家庭や母子家庭、三世代など様々な形があります。ではそれらに共通項は存在するのでしょうか?
 すこし質問を変えましょう。「家族らしさ」ってどこから生まれるのでしょうか。

 私はこの答えとして「家族の儀式」があるのではないかと考えています。儀式なんて言葉を使うとどこか仰々しいですが、「家族のうちで、一定の作法・形式に則って行なわれる行事」という風に言い換えれば理解していただけるでしょうか。例を考えてみましょう。私が「家族の儀式」だと思う際たる例は「食卓」です。

 例えば、父・母・小学生の息子の3人の家族を想像してください。朝起きて三人で食卓を囲う。お父さんと息子は家を出る時間が違うけど、それでも三人で囲うのです。食事の時間をずらすのではなく、起きる時間をずらしてまで、三人は朝食を共にします。料理はもしかしたらお母さんの仕事かもしれません。パンを焼きます。配膳は息子の仕事かもしれません。箸やお皿を食卓へ並べます。洗い物はお父さんの仕事かもしれません。スポンジに洗剤を出しすぎとお母さんに怒られているかもしれません。(家事の性的役割のステレオタイプみたいになってますけどそういう意図は全くありません。必要ならば主語を置換してください。)この何気ない朝食という場面は、しかし家族にしかできない光景です。毎朝なんの疑問も持たずに同じメンバーが食卓を囲む。この「当たり前」とも言える行為が、家族という実態の裏付けを果たしているのではないでしょうか。

ここで大事なのは「家族の儀式」には役割分担があるということです。ある家では食器を洗うのは息子かもしれないし、パンを焼くのはお父さんの仕事かもしれない。そうして自然と出来上がる役割と秩序、ルールが本来的には他者であるはずのメンバーを「家族」として拘束し、形成される。役割を持つことが「家族らしさ」、もしくは「家族」を形作るものなのではないでしょうか。

ざくろでは「母」の役割の一つとして「残り物の処理」が描かれています。ですから「きみ子」の中で<母>の理解の中には無意識的に「残り物の処理」が受け継がれていくでしょう。しかし、これはあくまで家族の中での話です。「母」は別になにかれ構わず残り物にありついていたわけではないでしょう。魚屋で捨てられかけている雑魚をもらうようなことを積極的にしていたかと言われれば、そうではなかったのではないでしょうか。あくまで「母」の役割は「家族」内の秩序の一環だったと解釈することが自然でしょう。

 だとすれば、「きみ子」が「啓吉」の残したざくろを食べたという描写に生まれてくる意味は、「きみ子」にとって<母>の行為=家族の儀式を「啓吉」に対して一瞬でも行ったこと、つまり家族の秩序が「啓吉」と「きみ子」の中に構築されたことを表します。

 戸籍の上でとか、そういった契約的な意味ではなくて、精神的で本質的な「家族」という単位を二人が構築したというのに十分な象徴としての「家族の儀式」でふたりは(啓吉は知らないが)結ばれたということです。これが「きみ子」の喜びの正体であったならば「泣きそうな幸福」や「心いっぱいの別れ方」という、あまりに大きな喜びの表現も理解することができるでしょう。

「家族の儀式」の消失


 昨今の社会では「自分らしく」「私らしく」Be you.のような個人主義にスポットを当てた思想がトレンドになっています。そして、それが家族に落とし込まれた時、「家族の儀式」は消失するでしょう。なぜなら役割に縛られることは<母>や<父>としての自分を作るかもしれないけれど、決して<私>を作ることにはならないからです。

 私たちは結婚すれば、もしくは子供が生まれれば、未経験でいきなり父・夫・母・嫁になりますよね。でもそれまで20数年かけて作り上げてきたアイデンティティと父・夫・母・嫁は通常異なるでしょう。じゃあ「私らしく」とはどの点の「私」を指すのか?それが「私らしく」にさんざん晒されてきた若者世代にとって、婚前の自分であることは言うまでもないでしょう。そうすると「家族の儀式」なんてものは邪魔なだけでしかない。一緒にご飯を食べることを当たり前のようにしない。役割分担で揉める。だって「私らしく」ないのだから。

 そうして「家族の儀式」が蔑ろにされていく。ともだちみたいな親が生まれる。「ダメ」が言えなくなる。なぜなら役割を果たさない<私>の「ダメ」はそのまま自分に跳ね返ってくるから。友達親子って、それを家族のニュースタンダードだという人もいるけれど、友達と家族の間には過去明確な線引きがあったわけで、そこを曖昧にしてしまう行為、つまり本来的には置換不可能だった「親」と「友人」を、可換にしてしまうことは、これはもはや従来の「家族」の中に位置づけられる状態ではなく、新たな言葉を与えるべきなのではないでしょうか。いや、友達でいいのかもしれませんが。最低でも「親」という言葉が血のつながり以上の意味を全く持たなくなってしまうことへの危機感が私にはあります。ソシュールに言わせればそれはあくまで言葉の恣意性の問題かもしれません。私自身が「家族」や「親」という単語に大きな期待を持っている、幻想を抱いている状態である可能性は否めません。しかし、「家族の儀式」を放り出した家族は本当に家族なのでしょうか...?

 <私らしさ>中心主義の世界で、「家族」は「友達」に姿を変えた。「親」は「友達親子」に姿を変えた。だとすれば確かにそんなところに意義はないでしょうね。


家族の意義


 これまで私が論じてきた「家族らしさ」を一言でまとめると、「まず初めに生活の中に二者以上の手続きと役割分担があって、そこから家族が意味づけされる」ということです。だから、家族というのは「それ自体を直接的に望む」ものではない。少なくとも「ざくろ」のような近代日本の「家族(家庭)」というものはそういったものだったのではないでしょうか。換言すれば、儀式の周縁でしかない家族という概念に意義を求めるという行為自体が、本来的には不可能な話だったはずが、<私>の個人主義がいとも容易く肯定されるようになった結果、現実に家族を構成していた儀式に照準が合わない「ズレた人間」が増え、虚無に向かってメリットを問いかけているような状態なのではないかということです。

 私は最初の方で「結婚や家族がメリットに依存していたわけではない」と言いました。これはつまり儀式=役割分担という、<私>が重視される社会において<私>にとって純然たるメリットとは言えないな行為が、家族を成り立たせているからです。このことに目を向けてやる必要があるのではないでしょうか。

家族の喜び


 なぜきみ子は役割の中に喜びを感じたのでしょうか。私は本稿でさんざん役割分担に純然たるメリットはないと言ってきました。しかし、当たり前ですが、メリットだけが人を突き動かすものではないです。(手のひらを返すようで申し訳ありません) つまりきみ子はざくろを噛んだ瞬間「無償の愛」に触れていたのではないでしょうか。見返り=利益/メリットを求めない姿勢、それどころか自身にとっては不利益さえ被るかもしれない対人関係の中で、それでも痺れるくらいに相手を想う気持ちが、家族の喜びであり、いい/悪い・得した/損したの二元論では語れない次元に家族の喜びはあるのではないでしょうか。

 個人主義、自分らしく、Be you. あなたにとって「最もあなたらしい状態」は、誰の目に見ても明らかな純粋戦略ナッシュ均衡かもしれませんが、メリットを追い求めず、無償の愛によって「家族」を形成することも、計算してみれば混合戦略ナッシュ均衡なのかもしれません。昨今のトレンドである「私らしく」に囚われてしまった『「私らしさ」の奴隷からの解放』こそが、社会と家族の構造的な変化につながるのではないかと信じています。


おわりに

 長らく私の詭弁に付き合っていただきありがとうございました。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

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