会社組織で働くこと、評価、生活や家族についての雑文

 仕事で実務をやっていってトシを取ったら管理になっていく。というのが典型的な日本企業のキャリアデザインの想定のように見えるんですが、実務と管理は別のスキルなんだから延長線上に並べるのがおかしいんだよ。から始まり、そもそも管理のほうが上で給料が多いのもおかしい。に至る典型的批判コンボのやつですが、

まあその批判もわかるし、自分も「そうだそうだ」サイドなんですが、

日本の商習慣がそうなってるんだからしょうがないじゃん。どうにもならなくないですか?という感じがする。「その評価基準は正しいのか」という、評価基準そのものへの批判やPDCAが行われず、自浄作用がなく、なんだか絶対的な位置づけで鎮座していて、神格化・聖域化してアンタッチャブルになっているような。


というのをアニメのNEW GAME見ていて感じた。

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たとえば義務教育の学習指導要領なんかもちょくちょく見直ししてるわけじゃないですが(なお内容はお察しですが)
情報処理関連の国家試験も内容を修正していって、COBOLは外されたりしている。
大学や会社の採用面接のやり方も一芸採用とか、工夫があったりはする。微々たるものであってメインストリームではなさそうですが。
なぜ見直しが入らないんですかね・・・?


 社会人の生活や仕事や家計などの最小単位が「一人」なのもどうかと思うんですよね。一人で一通りちゃんと全部できる人間ってあんまりいないんじゃないかと思うんですが。みんな働きたくないし、月曜日がつらいし、家事めんどくさいし、事務処理が大変。「個人事業主なんてやるの無理、そんなに全方位を器用にこなせる多才じゃない。サラリーマンがやっと」みたいな話と通じる。
仕事するうえでもメンターとかチューターとかいう制度もあるわけで。一人だとちょっと難しいんだけど、チームメンバーの適切なサポート作業にもきちんとした業務と認めて稼働工数を割いてやることで、チーム全体としての成果、生産性を出せる。というケースも全然あると思うんですが、「仕事と関係ないことを業務時間にやるな圧」が強くてそういうのできないみたいですよね。急がば回れとか、結果オーライとか、そういう観点が無いような。集中できんときは10分でも昼寝するとか、散歩や体操してくるとか、気分転換したほうがトータルで進捗出るんじゃない?とか。シエスタとか。


じゃあ家族か?と思われるかと思うんですが、そこにも疑問があって。
そんで、なぜそこまでして頑なに家族の在り方という明治政府の規範に忠実になろうとするのかも、よくわからないんですよね。いや、その在り方が大変すばらしくて多くの人間をそれなりに救うならいいんですが、いまって家族の在りかたのほうがQoLを下げてるのもよくあるじゃないですか。
どちらかというと、明治よりも古いもののほうが長い歴史で安定してきたわけで、江戸とそれ以前の民間で規範の形のほうが持続可能性が高いんじゃないのけ?って思えてならないんですが・・。

「明治政府の規範は、本当に現代の日本を幸せにするか?」という検証が無いように見えるんですよね。冒頭で話したことと相似する話なんですが。

べつに僕は明治アンチでも江戸幕府の末裔でもなんでもなくて、
ただ「幸せならOKです」。