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雑文(55)「なにをされているんですか?」

「なにをされているんですか?」
 自宅に帰ってきた私は、居間の絨毯の上に屈み、馬乗りの恰好で息子の、その首を両手で絞める弁護士の男に、そうたずねた。
 男は顔だけを向けて、答える。「首を絞めているのです」
 だから、と言いかけたら、首を絞められる小学生の息子が、声をしぼり出すように、聞き取りにくいかすれ声で、私に教える。
「お父さん、こうして遊んでいるのです。あくまでも、これは遊びなのです」
「そうか」
 こんな遊びを教えたことはない、と思いつつも私は、苦しそうに悶える息子を見下ろしながら、弁護士の男にたずねる。
「妻はどこでしょうか?」
 それに、やはり顔だけを向けて、のっぺりとした表情で男は答える。「浴室にいるはずです」
 
 戻ってきた私は、なおも息子の首を絞め続ける男にたずねる。
「血まみれで、それも浴そうの中でぐったりしているのは、どういうわけでしょうか?」
「自殺でしょう」
「あなたが殺したのではないのですか?」
「いいえ、ちがいます」
「そうですか」
 肩を落とした私は、とぼとぼ歩くと、ソファに座る。
 あのう、と申し訳なさそうに、弁護士の男に言う。
「テレビが見えませんので、横に寄ってくれませんか?」
「わかりました」
 そう言うと、男は少しだけ横に寄った。
「あと」私はテレビを点けて、バラエティー番組を観ながら、男に喋りかける。
「ここは私の自宅です。不法侵入ではないのでしょうか? それに息子の首を絞めている。それは、傷害罪ではないのですか? 弁護士であれば、おわかりだと思いますが」
「同意の上です」弁護士の男が言う。「罪には問われない。あなたが法廷で証言しなければ、犯行を目撃したと言わなければ、私を罰することはできない」
 テレビから、ひな壇に座る芸人たちの、愛想笑いだけがきこえてくる。
「私が法廷で証言しないと、なぜ言い切れるのですか?」
「あなたは証言しない。そうでしょう?」
「ええ、それはそうですが」
 テレビを消すと、それと同時に男も立ちあがった。
 傍らをふと見ると、息子が仰向けで、目をかっ開いていた。まばたきすらせずに、呼吸の音すらきこえない。静寂のなか、私と男だけが立っている。

「妻が風呂場から戻ってこない。やはり死んでしまったのでしょうか?」
「私は検視官ではありませんので、お答えは差し控えさせていただきます」
「そうですか、それでは仕方がありません」
 あのう、と思い出すと私は、男に言う。
「出て行ってください。なぜか今日は、私はひどく眠たいのです。早く寝てしまいたい」
「出て行けと?」
「はい、もう今日は遅い。いつまでも起きているわけにはいきません」
「出て行けと?」弁護士の男が、胸元の、ひまわりに囲まれた秤の金バッジが、天井の照明の下で、きらきらと輝く。「それならば、私の首を絞めてください。あなたにはそれ相応の動機があるはずです」
「首を絞めたら」
「そうです。私はあなたを訴えます。殺人致死罪で、私は勝訴するでしょう。だから絞めてください。あなたには私を殺す動機があるのです」
「でしたら」
 そう言うと私は、弁護士の男を押し倒し、その首元に両手を添え、徐々に力を加える。「どうでしょう? 痛くないでしょうか?」
「痛くはありません。ちょうどよい感じです。もう少し強くしていただけますか?」
「わかりました。痛かったら教えてください。緩めますから」
 少しだけ両手に力を入れた。男のこめかみに青い血管が浮き出る。
「よい感じです」
「そうですか、それはよかった」
「こちらこそ」
 冷たくなった息子の遺体を見ながら、私は弁護士の男の首を、無言で絞め続け、男も無言で絞められる。

 そこに、全身血まみれの妻がやってきて、「あら、帰っていたの?」と、声を出す。
「ああ、いま帰ったところだ。立て込んでいるから、後にしてくれないか?」
「そうね、後にします」
 そう言うと妻はソファに座り、テレビを点けた。「あなた」
「わかった」
 そう言って私は、少し横にずれた。
 テレビの中では、あいかわらずひな壇の芸人たちが、仲間うちで、くだらない冗談を言いあい、盛りあがっている。なにが面白いのか、まったくわからない。
 だが、血まみれの妻は、ツボったのか、けらけら笑って、ポテチの袋の口を開けていた。
 少しだけ両手に力が加わった。
「夕飯はどうした?」
「食べてきたんじゃないの?」
「いいや」
「そう。食べる?」とたずね、妻が私の口元にポテチを運んできたので、私はそれをパクッと一枚喰らった。「手が離せなくて、すまない。行儀がわるかったかな」
「いいんじゃない? 別に」
「それも、そうだな」

 絞め終えた弁護士の男の、真っ赤に腫れたその首元から両手を離すと私は立ちあがり、妻の横に座った。
「面白い?」
「うん面白い。笑える」
「そうかな、僕はちっとも」
「そう、私は笑えるんだけどな」
 私は妻と口づけをした。ポテトの塩味がほんのりした。唇から遠ざかると私は、妻に告げる。「息子が起きないのはどうしてだろう?」
 冷たくなった息子に目をやる。ぴくりとも動かない。
「また作ればいい、今夜にでも。私たち新婚二年目でしょ? まだまだ熱々じゃない?」
「それもそうだね。君の連れ子だったから、僕には似ていなかった」
「それがどうしたの? 私には半分似ていたわけだけど、そこ重要?」
「そうだね、重要じゃない。君のいうとおりだよ、まったく」
 私はそう言うと、全身血まみれの新妻の手を握って引き起こすと、肩を寄せあいながら、二階の寝室に向かう。

「なあ?」
「なに?」と、真っ赤に染められた髪を櫛で梳かす妻が、こっちを見ずに、化粧台の鏡の中から、ベッドの縁に座る私に問い返す。
「今日仕事首になった。どうしよう?」
「どうもならないでしょう? 仕事を首になったんだから」
「そうだな」
 私は妻の背中に喋りかけた。「なあ、僕の首を絞めてくれないか?」
「首を?」
「うん、首を絞めてほしい」
「あなたが絞めてほしいのなら、あなたの妻である私には断れない」
「お願いするよ」
 ベッドに押し倒され、私は妻に首を絞められている。「もっときつく絞めてくれ」
「わかった」
 それで、かなりの強さになった。
 そこに、警察官の男がやってきて、妻の首を後ろから絞める。私はとっさに、警察官の彼にたずねる。
「なにをされているんですか?」
 男は無表情に答える。「首を絞める女性がいたので、私がその女の首を絞めているのです」
「なぜあなたが、裁くのでしょうか?」
「たしかに裁判官ではないが、目撃してしまった。正当防衛だ」
「あなたが首を絞められているわけではないでしょう?」
「ではないが、これは公務だ。あなたがなにも言わなければ、なにも問題ではない。けちをつけるのであれば、君を公務執行妨害で逮捕もできるのだが、どうだろう?」
「わかりました。なにも見ていませんし、語りもしません」
「よろしい」
 私の首はあいかわらず妻に絞められていたが、その妻の首も後ろから警官の男に絞められている。ぜえぜえと、警官の男が荒い。彼は誰からも首を絞められているわけではないのに、ぜえぜえと、呼吸が荒い。
 あのう、と言いかけたところで、私の意識が薄らいだ。薄ら笑う妻と、その背後にいる警官の男のしたり顔を眺めながら、私はそこで力尽きた。それからどうなったのか、私の知るところではない。

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