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雑文(07)「回し車」

 回し車を回して支払われた給料は全額月末に妻の銀行口座に入金される。
 回し車の中で必死に走る俺は、発生した電力を会社に搾取され、その労働の対価はビールの安いツマミに代わる。
「精が出るね」と、中堅社員の半分頭が禿げかけた男が隣接するケージ越しに俺に声をかける。
「走らなきゃ給料出ませんので」
「息抜きも大事だよ。こん詰めすぎたら身体に毒だ。働きすぎるのが美徳だと誰が言ったんだろう」
「世代でしょうね。去年退職した上の先輩たちはモーレツ社員って呼ばれていたみたいです」
「モーレツを合言葉に会社にこき使われる」
「早朝から深夜までずっと走りっぱなし。猛者は昼食休憩も勿体ないと、回しながら事務の女の子に食べさせてもらってたようで」
「だから身体を壊す」
「いえ、その人去年元気な笑顔を振り撒きながら無事定年退職を迎えました」
「化け物だな」
「はい。化け物です」
 くすくす笑う俺らを注意しに現場管理の若手社員が拡声器を片手に、「お前ら、喋ってないで足を動かせ、動かせ」と、手を動かせ手を動かせという一昔前の常套句みたいな言い方で、俺らに指図する。
「へえへえ」と、回し車の中に戻った中堅社員の男が深呼吸を置き、徐々に走りだす。腕を組んで立つ若手社員の男に見えないように舌を出して笑いながら、同じように走る俺も先輩に見習って舌を出して、若手社員の男が部屋を出ていくまで中堅社員の男と抗議しながら走り続けた。

 自宅に帰ると、ソファに座ったままの妻が俺に目を合わせずに、「臭いから風呂入って。それと出る時栓抜いてね。昨日忘れてたでしょ? だからあなたは、」
「ごめん」と言って、逃げるように風呂場に向かう。少しでも反論すれば倍返しを喰らう。口論は避けたかった。俺は一日のノルマをこなして疲れ切っていた。早く湯船に浸かって晩酌をすませベッドで寝たかった。明日も俺は回し車の中で給料を貰うために走らなくてはならない。それが俺の役目だ。

 先に眠った妻を起こさずに布団の中に潜り込むと背を向ける妻に背を向けて俺は目を閉じた。

 回し車の中で必死に走る俺の姿が俯瞰で見えた。横のケージにはあの中堅社員も居て、同じように回し車の中で必死に走っている。走らなきゃ給料は頂けない。だから俺は走っている。妻のため会社のために俺は身体を酷使し、若い大卒に命令されながら、なんの文句も言わずに「へえへえ」と一切逆らわずに指示に従って回し車を回すしかない。それが俺らに課せられた役目だ。妻は家事をこなす役目を負い、若手社員は年のいった社員たちに指示を出す役目を負い、あの中堅社員は隣の回し車で走る俺を励ます役目を負っている。みんな役目を負って生きている。そんなことを回し車みたいに延々考えていたら知らない間に意識を失っていた。

 回し車の中で今日も変わらず俺は走っている。けれど隣のケージにあの中堅社員の男がいない。風邪かと思った。しばらくして来た若手社員に、「あのう、お隣さんは風邪かなんかで休みですか?」とたずねると男は無感情に、「あの人は倒れたよ」と答えた。
「倒れた?」
「脳卒中らしい。奥さんが救急車を呼んで命に別状はないらしいけど、麻痺が残るらしいね。だから現場復帰は難しいかな」と、他人事のように、たしかに他人事だが。
「じゃあ」
「うん。募集かけてるよ。一機空けとくと損失だからね。それにもっと若くて持久力のある人が入ってきたら、」
 汗だくで必死に走る中堅社員の顔がぼんやり浮かんだ。家族のために走って、俺を気遣って、ずっと隣のケージで役目を演じてきた。なのに、この言われようは、正直腹が立った。だったらお前が走れと、損失なんだろと。
「ええ、そうですね。若い子が入ってきたら効率も上がりますから、よい機会です」
 言えるはずがない。媚びへつらうことしか俺にはできない。
「指導は任せたからな」
 そう言って、若手社員は出ていった。

 間もなくして若い男が隣のケージに入ってきた。体格のいい体力のありそうな男だ。まず、なにをすればよいでしょうと、たずねてきたから走るだけ、手を振って走るだけと、ジェスチャ混えてケージ越しに説明しようとしたが、中堅社員の姿が一瞬、その男に重なった。
「まずは」俺は思いきり舌を出した。「走る時はこんなふうに舌を出してな、笑いながら走るんだ。そうすれば疲れにくい」
「なるほど」体育大卒業の若い男が理屈に適ってると何度も肯く。
「それと、」
 若い男がじっと俺の目を見つめる。
「適度な休憩。働き詰めは毒だぞ。走ってばっかいると脳卒中で倒れるからな」と、中堅社員に似せて言ったが、むろん若い男はぴんとこない。
「脳卒中ですか」水分補給をと、真面目にぶつくさ言って若い男が小さなメモ帳に書き足す。
「俺らは長く走らなきゃならない。だから無理は禁物だって意味だよ」
 回し車の扉を閉めて、俺は走り出した。回転によって電力が発生し、赤いパトランプが明滅をくり返す。お手本の走りを、若い男はメモも取らずにずっとケージ越しに眺めていた。

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