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雑文(10)「綱引き」

 考えてみればたしかにそうだって、おたがいわかる事実に、おたがいどうして気づかずに、あらっ、あらっあらっ、と、おたがいテンパって、まともな挨拶を交わさずに、立ち去ったのは、社会モラルの欠如だ、おたがい社会人失格だ、こころなき誹謗中傷の意見が、マスメディアを越えて、わたしたちの小さな耳に、はっきりとどくようです。
 学年はちがえど、学区はおなじ◯●区中◯●ですから、すこし考えればわかったのに、なぜだかきょうまでわたし、ちっとも考えがおよばなかったのです。
 アルコール、それにガーゼの匂い、わたしたちむかい合って、ぺたんずわり、黙っておたがいがおたがいをじっと見つめ、おたがいのこころうち探っています。
 ドアの鍵が、たぶん施錠し忘れの、白を基調にした保健室の硬いパイプベッドの清潔なシーツのうえに、わたしたち、いったい、なにがしたいんだろう。
 窓の外に、小さな吾子らを囲むように、父兄たちのスマートフォン光って、カシャカシャずっと、鳴らしています。
 ゆきこちゃん、おもむろにバッグのファスナーを引き、なかから、それは、携帯ストラップに見えました。
 ちょうど土舞うグラウンドに、父兄おのおの、白と赤に分かれ、おのおの吾子らとしっかり太い綱をにぎって、女性教員の発砲を契機に、おたがいひっぱって、ひっぱられ、中央赤の目印、左へ右へ、ゆさゆさゆれています。
 みえこちゃん、呼ばれて、ゆきこちゃんのたくらみ顔です。わたしにふたつ装着してから、ゆきこちゃんもふたつ装着します。ストラップの、たるんだスプリング、ベッド縁まで座ったまま後退したゆきこちゃんのせいで、ながくのびて伸縮性能をうしなって、いまやそれはビニル紐、しかもかなりほそくて、それでいて強度の担保された凶器です。
 わたしも倣って、座ったまますこしずつ後退しようと試みますが、ぴんと張って、後退は、激しい痛みをともない、わたしのそれいじょうの後退を許しません。
 降参? ゆきこちゃん、目でわたしを挑発し、余裕のある表情です。窓の外、あいかわらずの攻防ですが、こちらは防戦一方、ゆきこちゃんのすこしの引きで、それも、ぴくぴく引いて愉しむように、激しい痛みにわたし、からだの痙攣に、どうかなってしまいそう。
 平気な顔してるゆきこちゃん、顔をしかめるわたし、まっすぐな棒状に成り変わったビニル紐の強靭性、このまま続けていたら、わたし、ほんとうにどうかなってしまう。
 ギブ、って、言いかけた、まさに、そのときでした。唐突に、ドアがひらき、廊下のひんやり冷えた空気が、もったり暖かい室内に侵入して来、機敏さでゆきこちゃん、ベッド端に行儀よく座りなおったのだけれど、とんまなわたし、遅れてしまって、シャッター閉店よろしく、おろすので、すばやくおろしました。
 なにしてるんですか? 頭の後ろに髪を束ねた、すこしサイズの合わない大きめの白衣を、高級ガウンのように召した、ムスクの香水を漂わせた若い女性教諭、わたしたちを見て、ぎょっとつけ睫毛で強調した小さな瞳をまるく、おどろきました。
 休憩です、ゆきこちゃん平然と答えるのだけれど、女性教諭、いぶかしげに、それを発見したから、つながれたわたしにたずねます。
 それ、なんですか?
 わたしのセーターすそから、それはいまや、スプリングにもどったストラップ、形状は多少、だらしなくのびきって変形した、いつもゆきこちゃん携帯のストラップ、それがだらんとシーツのうえに、浅いみぞをつくっていました。
 あの、その。
 あっ。ゆきこちゃん、窓の外を眺めて、叫びました。
 赤組の勝ちですね、と、親しみをこめて女性教諭に言えば、女性教諭、白組負けちゃったかと、笑った。
 わたしはわたしで、ゆきこちゃんの短いウインクを見逃さず、痛っ、痛みに耐え、長いストラップをたぐりよせ、すばやく手元に巻きつければ、ジーンズポケットに手を突っこんで、手元に隠しました。
 いきましょ、とゆきこちゃんに促され、ポケットに突っこんでない方の手をにぎって、立たされると、女性教諭の、あっ、ちょっと、を無視して、わたしたち、廊下に出て、セーターちくちくすれる痛みを我慢しておたがい、校則やぶって廊下をひた走ったのは、なにもつぎの種目かけっこの、それに備えての、考えあっての、非行じゃありません。
 きょうはスポーツの日、おたがい汗をかきたかった、ただそれだけでした。

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