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雑文(47)「名義貸し」

 僕の名前がひとり歩きをしている。
 僕の知らないところで、名前が僕に代わって、好き勝手悪事を働いているのだ。
 名前を貸しただけだった。それだけだったのだ。それだけだったのに、名前が僕の了解を得ずに、僕の名前を使って、世間で事件を起こし、世間を騒がせている。
 連日、僕の名前がニュースで流れ、犯行の詳細が、ニュースキャスターの男の口から伝えられる。
 婦女暴行からはじまり、それは聞きたくもない陰惨な事件の数々で、僕は途中でテレビの電源を切った。
 名前を貸しただけなのに、僕の許可を得ずに、僕の名前は僕を騙って、いいや、僕の名前であるから僕なんだけど、とにかく、僕の名前は僕に無断で、世間を混乱させ、その行方をくらましている。
 こんなことだったら、名前を貸さなかったらよかったとは、後の祭りである。そのときは、そんなことが起きるだなんて思ってもいなかったし、古くからの友人からのどうしてもという頼みだったから断れず、渋々というか、そんな深く考えずに、貸した。それからまさか友人が姿をくらませるとは想像もできず、奪われた名前だけが自由気ままに、連日ニュースを騒がせ、僕に責任を負わせる。
 僕には名前がない。名前を貸して、名義を奪われた。返してくれないと、僕は一生名前がない。けれども、悪に染まった名前を引き受けようとは、いまさら思わない。だから返してほしくもない。できればいっそ、僕とは無関係になって、その奪われた名前を、僕の名前だったことを忘れてしまいたい。それで少しでも罪の意識が薄れるのなら、それはそのほうがいい。
 どこでも、僕の名前が話題にあがっている。聞きたくもない、僕の名前が、僕の耳に入ってくる。どんなことを起こしたのか、聞きたくもないのに、聞き知ってしまう。僕とはもう関係がないんだ。だからもう許してくれ。そんなふうに叫びたくなる。耳を塞ぎながら街中を通り抜け、路地に入って、落ち着く。
 そこは寂れた路地だった。人通りもない、ひと昔前の路地だった。猫すらいない。猫すら寄りつかない。そんな寂しい路地を僕は歩いている。
 がさこそと、ごみ捨て場から物音がし、ついそっちを見てしまう。そこには、袋を破いて、無数のごみを漁る僕の名前がいた。僕の名前が僕に気づいた。少しの沈黙のあと、僕の名前はなにも言わずに去ろうとしたが、僕は言ってしまう。
「どうして、世の中に迷惑ばかりかけるんだ。僕の名前のくせに」と。
 その挑発に、逃げ腰だった僕の名前が言う。「君の名前だからだよ。君の名前だから、僕は悪事を働いてしまう。わかるだろう? 僕は君の名前なんだ」
 その答えに僕は反論ができない。心当たりがあった。世間に対して不満があった。それを、僕の名前は、なんの枷もなく、おこなっているだけなんだ。つまり僕の名前は、僕自身を反映している。だから僕にはなにも言えない。
「だから君だけには、僕を否定されたくない。僕は君なんだから、君だけには、否定される義理はない」
 そう言い残すと僕の名前は、僕の前から姿を消した。
 僕は呆然と立っていたが、陽が暮れてきたので、ふたたび歩きだした。
 街の大型モニターには、僕の名前の活躍が堂々と報じられていた。行き交う人々が足を止め、その残忍な事件に見入っている。誰もが言葉をなくし、僕の名前をその脳裏に刻みつけ、憎しみを持って、ニュースの詳細に聞き入っている。
 僕はどうすることもできずに、そこから去る。家に着き、部屋に閉じこもって、灯りすら点けずに、上からふとんを被って、ベッドに横になる。
 僕の、隠れた、いいや隠していた願望を、あいつは次々に叶えている。であれば、と僕は思ってしまう。もしかすると、そう考えたところで玄関のドアが開き、廊下を歩く足音が近づいてくる。そして、僕の寝室の前でそれは止まった。
 ノックはない。
 ドアがゆっくり開いた。
 僕は今日、死んでしまうのだろうと、そう直感し、観念した。

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