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山手線第二象限クロニクル

2024年6月29日土曜日。
この日の朝は、空を覆う雲の間からわずかな青空が見えた。
梅雨の合間に訪れる、短い晴れの日だった。

俺は12年間も足しげく通っている池尻大橋の歯医者を出ると、千葉県の家にまっすぐ帰りはせず、青葉台の交差点を越えて渋谷駅まで歩いた。
神泉町の交差点から道玄坂を下ると、円山町からわき出るカップルたちの群れに紛れて道玄坂を下った。

俺は一人である。

渋谷駅に近づいて高架橋を右から左へと流れる山手線の車両が目に入ると、あれに乗らなければという衝動に駆られた。
俺が住んでいるアパートへ帰るには、山手線ではなく地下鉄半蔵門線に乗ればよい。俺にとって今日の山手線は無用なはずだった。
目に入っても気にもならない、いつものようにただあるだけという山手線だが、これが池袋方面へと客を運んでいるのだと気付くと、のっぺりとした銀色に覆われた新しい山手線の車両は、確かに俺を誘っているようだった。

俺の青春時代、詳しく言えば10代と20代の半分近い月日を、山手線の池袋駅を中心とした巣鴨駅から新大久保駅までの北西側の地域、理系用語でいうところの第二象限の周辺で過ごした。
青春時代を振り返るなんて、俺のような50も近い歳になると只々こっぱずかしく、おまけに老いまで感じてしまい虚しいだけなのだが、それでも時々は振り返りたくもなる。

俺はJR渋谷駅の改札を抜け、工事中のつぎはぎだらけのホームに降り立つと、ためらいもなく外回りの山手線に乗り込んだ。

1988年:巣鴨駅

11時0分、俺を乗せた山手線は巣鴨駅に到着した。
俺は巣鴨駅のホームに降り立った。

階段を登ると、俺の記憶にある巣鴨駅の駅舎内の形と大きさはそのままだったが、見た印象は大きく変わっていた。
俺が知っている巣鴨駅はコンクリートむき出しの無機質な駅舎であったが、今の巣鴨駅には中二階にカフェがあり、壁の一部には木目調のパネルが貼られていた。

巣鴨駅の北口を出ると、街の建造物は俺が見慣れた形のままだったが、中身はやはり入れ替えられていた。
ビルの形は同じでも、看板が違う、入っている店が違う、そして行き交う人たちの姿も違った。
俺が知っている巣鴨駅前には、焼きそばの露店が毎日営業していたが、それも無くなっていた。

街の変化を受け入れ切れないまま、北口を出て右方向に目を向けると、見慣れた本屋が俺の記憶通りの姿のままにあった。
この本屋は少なくとも36年以上は姿を変えずに営業をしているのだ。

俺はその本屋の前を通り過ぎて、かつて通っていた巣鴨駅が最寄りの私立中学校の方向へと歩いた。

俺が通っていたのは、中学から高校への進学がエスカレーター式の中高一貫校だった。

親に言われるがまま小学校3年生から塾に通いつめ、勉強のやり方なんて俺も両親も知らなかったから、ただ塾に通って授業だけ受けて、毎週末に四谷大塚の試験を受けてはダメな成績を出しての繰り返しを4年間も続けた。
そして、受験した私立中学校は全て落ちた。
いよいよ、進学先は地元の公立中学になると諦めていたところに、塾に紹介されたこの中学校の二次募集を受けて合格したのが、この巣鴨駅の近くにある私立中学校だった。

入学したのは1988年の春だった。

新設の中高一貫校で、同級の生徒は男子80名だけ。新設だから先輩もいなかった。
今思えば、全部手探りで中学校運営を始めていたような中学校だった。

俺はパチンコ屋と改装中のスーパーに挟まれた道を進み、突き当りにある仏具店と風俗店が隣合う、生死混濁のT字路を左に曲がり、学校の方向へと歩みを進めた。

俺は夏休み明けの不安な登校を思い出した。

学校へ向かう道沿いに当時と同じ幅の狭いサンドイッチ屋があり、向かいには俺がの知らないコンビニがあった。
コンビニの十字路を右に曲がれば我が母校であるが、俺は閉じられている母校の校門をしばらく眺めただけで、母校とは反対方向のとげぬき地蔵方向へ歩き出した。

とげぬき地蔵に続くこの通りは、繁華街といえば聞こえが良いが、当時はピンサロが何件も並ぶ風俗街だった。
高校生や中学生が立ち入る通りではなかったのだが、その通りに一件だけ当時でも古めかしい駄菓子屋があって、学校帰りによくその店で買い食いをした。

その駄菓子屋は今もそのままの姿で残っていた。

俺は、繁華街の通りを抜けると中山道を越えて、とげぬき地蔵がある巣鴨地蔵通りに入った。

中学と高校の6年間、毎日巣鴨駅に通っていたにもかかわらず、地蔵通りは一度訪れたことがあったかどうか、肝心のとげぬき地蔵は見たことすら無かった。

制服を着ていたあの時の俺は、とげぬき地蔵を訪れるような神や仏にすがる人たちを見下していた。
とげぬき地蔵に訪れる人たちとは、これまでの自分の不運と不摂生を棚に上げて、健康を取り戻そうとすがる哀れな人たちと、俺はそのように見ていた。

運命や成功とは神頼みではなく、努力と実力で成しえるものと思っていた。
俺は神や仏に頼らなくても何者かになれるものだと、何の努力もしてなければ実力だって無かったのに、そう思い込んでいた。

すなわち、俺は傲慢なガキだった。

今の俺は、とげぬき地蔵を洗うために年寄りの行列に並び、柄杓でとげぬき地蔵に水をかけ、布巾でとげぬき地蔵を洗っている。
周りの参拝客は、俺と同じくらいの年齢か、若干俺より年上だろうか。
1988年の当時、この人たちだって俺と同じだっただろう。
とげぬき地蔵なんて目もくれずに、若さを享受して、そして傲慢だったのではないか。

そんな後悔も、全ては今さら
神頼みをしたところで

そう思いながら、俺は巣鴨駅に戻ると山手線の内回り列車に乗り込んだ。

1993年:池袋駅

次に俺が訪れたのは池袋駅だった。
山手線第二象限の中で池袋駅は、最も人が集まり混雑して、賑わう街である。

俺は昔と同じように地下道の人の波に流されて目的地へ行こうとするが、思うように人を避けられずに何度か人を遮った。
俺は老いたのだと、受け入れたくない現実を突きつけられた。

池袋駅の地下通路のどこを出れば、あの出口にたどり着けるのか、すっかり記憶が無くなっていた俺は、混み合う地下街をしばらく彷徨い歩いた。
それでも池袋西武の地下を越えて、無駄に広い地下道を歩き、どうにか池袋駅39番出口にたどり着いた。

当時の39番出口にある建物はゲーセンのはずだった。
しかし、そのゲーセンも今は残っておらず、一階はコンビニになっていた。

39番出口から出た池袋は、中心街からは外れた若干寂れた場所のはずだった。
しかし、改めて今の39番出口の周りを見回すと、人通りが多く、健全な看板を掲げた飲食店が多くあった。
一部の店は行列ができるほど繁盛してる様だった。
南池袋公園方面に少し歩くと、強烈なニンニクと醤油の臭いが鼻を刺した。
臭いの方向を振り向くと、二郎ラーメンの行列が見えた。
全て、俺が高校生の時代には無かったものだった。

俺は高校生になって、この池袋駅39番出口を出た先にある予備校に毎日のように通った。
予備校通いは両親の意向に従ったものだった。
相変わらず、俺は勉強なんてできなかった。
ただ、漫然と授業を聞いて、黒板の文字を無思慮に書き写すだけの日々。
こんなことをしても、差し迫る大学受験には何も有効ではないだろうとは、当時の俺でもすでに解っていた。
親には逆らえずに、素直に従って学校と予備校に通っていた。
やりたいこともなければ、どうなりたいかも見えやしない。
それでもただ漫然と、俺は何者かになれるとだけ思っていた。

南池袋公園の入口まで歩くと、当時通っていた予備校の校舎が見えた。
俺は何の迷いもなく、予備校の方向へ歩いた。

道端にはすでに枯れてしまったアジサイが並んでいたが、まだ花を残しているアジサイが一株だけあるのを見つけた。

俺はそのアジサイにスマホを向けて写真を撮っていると、
「まだ、咲いているアジサイがあるんですね」
と、俺と同じくらいの年齢の女性に声をかけられた。
「周りのアジサイは全部枯れちゃったのにね」
と、俺は他のアジサイを指さして愛想笑いを返した。

俺は当時の予備校の校舎の前に立っていた。
何の感慨もない。
今も昔も変わらず、無機質な建物だ。

予備校の横には、小さな堂宇と巨大な鉄筋コンクリートの建物を併設した寺がある。
予備校で授業を聞いていると、夜には木魚とお経の声が教室の中まで聞こえたものだった。
俺にとっては退屈で意味も解らない授業を聞くより、そのお経の声を聞いていた方が心地良かったのを思い出した。

全くの無駄だった塾と私立中学と高校、おまけに予備校と、俺の親は一体いくらの金をつぎ込んだのだろう。
俺はただ言われるがままに、塾やら予備校やら学校やらに通い、毎度ダメな成績を持って帰る度に親に怒られて、それでもどうすれば成績が良くなるのかなんて俺も親もわからず、無為に時間と金を浪費した。

親だって、無駄だとはわかっていても、他に息子に何をしてやれば良いかもわからなかったから、そうせざるを得なかったのだろう。
「俺たち、バカだったな」
と、まもなくあの世に旅立つであろう両親と、腹を割って話したいとも思うが、両親はそんな俺の声を聞いてはくれないだろう。
父親は歳を取って癇癪に磨きがかかり、母親は耳が遠くなってますます人の話をきかなくなった。
俺たち親子はお互いに何も分かり合えないまま、別れていくのだろう。

予備校の建物を眺めるのも飽きると、俺はさらに池袋駅から外れた南側の路地へと入った。
そこも、建物は当時の古いままだったが、明るい飲食店が並ぶ、賑やかな路地に代わっていた。

当時のこの場所はこんなに人で賑わってはおらず、雑居ビルとマンション。そして、寂れたコンビニと、ブルセラショップだけがあったはずだった。
俺は無機質で奇妙で少し危険だったあの時の街に、また高校生の時のような無力なまま迷い込むように訪れたいと、不意に思われた。

二度とあの時の何でもない街の光景は見れない、二度とあの街には戻れない、そんな思いが積み重なるのが歳を取ることなのだと俺には思えた。

これで、俺が池袋で過去を巡る徘徊は終わった。

その後の俺は、補欠合格で私立の工業大学に入学し、しばらく山手線の第二象限から遠ざかった。
大学生になった俺は、どうやら勉強の仕方は覚えたようで、大学に入ってからの成績は良かった。
しかし、勉強ができるようになっても、それだけでは生きてはいけないことも学んだ。

むしろ、その学びの方が重要で貴重だった。

俺は大学生になっても大学内ではボッチで、バイトをしてもバイト先を転々とした。そして、大学院まで進んだが、修論を書けずに中退した。
俺は人並みの人付き合いができなかった。
思えば、俺は生まれついての才能は何もなく、親は好き勝手言いたいことを言ってばかりで、時代に生かされていただけ。世渡りのスキルなんて無かった。
金銭面ではしっかりしていたし、良い親であろうとした両親には、感謝もあるが恨みが無いと言えばウソになる。
そんな親に育てられた俺は、人との付き合い方、今でいうコミュニケーションスキルなど学ぶ機会はなく、俺は何も持たされないまま世間に放り出されたようなものだった。

そして、俺は敗れて転んでを繰り返した。

そんな俺が、山手線の第二象限に戻ってくるのは2003年だった。
高校を卒業してから9年が経っていて、俺は27歳になっていた。

2003年:高田馬場駅

高田馬場の駅舎と駅前は、俺が知っている姿と何も変わってはいなかった。

27歳までフリーターをしていた俺は、どうにか小さいシステム開発会社に正社員として就職した。
その会社は、高田馬場駅を出て早稲田通りを中野方面を登った先の住宅街の中にあったが、今は移転してしまい高田馬場にはない。

当時の会社の跡地を訪れたくて、俺は早稲田通りの坂を上った。
早稲田通りは中途半端な高さの雑居ビルが、左右を挟んで塀のように道を囲んでいた。
この光景は変わっていないが、よく見ればスーパーは当時から改装されているし、個人商店のほとんどは入れ替わっていた。

早稲田通りから裏側の路地を入る。
俺が会社に勤めていた時には、この路地に歯医者があったはずだが、建物はそのままで今は普通の住宅になっていた。
この歯医者は80過ぎのばあさん一人で営んでいて、俺が初診で入ると治療の前に30分間、ばあさんの身の上話を聞かされた。

ばあさんは20歳で結婚をしたが、新婚早々に旦那を第二次大戦で亡くし、その後に歯科医の資格を取って、この高田馬場で歯医者をずっと続けていた。
そんな話を30分近くかけて聞かされた。
俺には見せてもらえなかったが、会社の同期がこの歯医者に行ったら、同じような身の上話を聞かされた上に、さらに二階にある巨大な仏壇を見せられたらしい。

その歯医者の跡地の前を横切り、俺はかつて勤めていた会社の建物までやってきた。
当時の会社は無く、俺の知らない会社が入っていた。
土曜日なので、建物に人の気配はない。

俺は会社があった建物近くにある、塀で囲われている小さい公園に入った。
この公園は、子供が遊ぶような公園ではなく、小さな川と庭園があり、東屋が設置されている。
大人がくつろぐための小さな公園である。

「私たち、つらいことにも進んで飛び込んでいっているよね」
この公園の東屋のベンチで、近所のスーパーで買ったお弁当を同期と二人で食べている時に、同期は泣きそうな声で俺に言った。
真夏の日差しが強くて、湿気の少ない日だった。
公園の小川で反射した太陽のかけらが、とりわけ綺麗に見える日でもあった。

「大丈夫だよ、きっと」
と俺は力なく返した。

この時の俺と同期は、新人研修の三か月目に入っていた。
毎日、課題を提出してはダメ出しをされて突き返され、打ちのめされる日々だった。
本当にこの仕事でやっていけるのか、俺も同期も不安しかなかった。
同期にとっては、せめてつらいことから逃げてはいないという点だけが、同期自身の危うくなっているプライドを支えていた。

俺と同期は、力なく弁当を食べた。

同期は俺の二歳下の女性で、俺と同期は既に男女の付き合いを始めていた。

俺にとっては初めての正社員、同期にとっては初めての東京、とりあえずチャンスは掴んだけど、その先の未来などわからなかった。
こんなに社員教育に時間を取ってもらえるなんて、当時でもありがたいとしか言えなかったのだが、それでも、こうも毎日作っては否定されてばかりの日々が続くと、入社当初の期待も薄れ、心は萎えてしまった。

課題のレビューアとは別に、心理的なサポートのためのメンターの先輩が俺と同期にそれぞれ付けてくれた。
しかし、相手は既に仕事をバリバリこなしている先輩だったから、俺にとっても同期にとっても、メンターの先輩と心理的な障壁は大きかった。

俺と同期は寄り添うように繋がり、互いに依存するようになっていった。

あの時の二人を繋げていたのが、愛だったのか不安と依存だけだったのか、今でも俺にはわからない。

2003年:新大久保駅

高田馬場駅で山手線の内回りに乗ると、次の駅は新大久保である。

今回の俺が巡る場所の中では、新大久保が最も景色が変わった街だろう。

2003年当時の新大久保駅周辺は、現在の韓流の華やかさとは縁遠く、当時の石原都知事によって大久保通りに毎夜大量に並ぶストリートガールは排されたが、それでも日本の法治が十分に支配しているとは言い難い場所であった。

大学院を中退した俺は、それからずっと友人との連絡を全て絶っていたが、高田馬場の会社に正社員として入社し、生活を回復する意気込みも芽生え、過去の友人との連絡も取り直すようになっていた。

その中の大学時代の悪友の一人が、新大久保の裏路地にあるアパートを借りて住んでいた。
彼が新大久保に住んでいることを知ると、まもなく俺は彼の部屋を訪ねることになった。
同期の彼女も一緒だった。

悪友は久しぶりに会うと近況を伝え合うのもそこそこに、自分部屋の郵便受けには他所の土地では見られないような政党同士の罵り合いのビラが入っていたり、つい最近に近所で〇人事件が起きたことを嬉しそうに話した。
彼は危険な場所、普通の人が避ける場所に入り込むのが好きなのだ。
俺は一人であれば、そのような話にも忌憚なく付き合えたが、その時は横にいる彼女が引いていないかばかりを気にしていた。

改めて俺が訪れた新大久保は、韓流ファンでごった返す観光の町に様変わりしていた。

建物自体は変わっていないように見えるが、主だった建物はピンク色を主体とした看板で覆われていた。
明らかに街全体が、韓流ファン層の女性に向けて媚びていた。
俺は大久保通りを東に進み、少し進んだ先の新宿方面に進む狭い路地に入った。

大通りからの見通しを悪くするために狭く切られた路地が、この街が普通ではないことを物語ってはいるが、今はさしあたり、観光客の多さがその危うさを覆い隠していた。
狭い路地には明らかに昔はストリートガールの勤務地であっただろう、小さいホテルが並んでいた。

しかし、今はそのような目的ではなく、旅行者やビジネス向けのホテルとして営業しているようである。
「このホテルはビジネスホテルです」
と入口に挙げているホテルすらあった。

ホテル街をしばらく進むと、今度は韓国料理店が軒を連ねていた。
どの店も、きれいな看板を掲げていて、店内も普通の飲食店であった。

俺と彼女は悪友に連れられて、この近辺の食堂で夕食を食べた。
その店は、昼は雑貨屋、夜は食堂という店で、店内には値札を付けた木製のタンスが壁一面に並んでいて、それを背にして食事をとった。
入口には、普通であればアイスクリームが入っている冷凍庫に、得体の知れない巨大な肉塊がぎっしりと詰められていた。

彼女はその店で食べたタットリタンという鍋が気に入り、また連れて行ってくれと、俺にせがんできた。

彼女の気まぐれのせがみに、いちいち悪友と時間を合わせるわけもいかない。彼も仕事があり、毎晩遅くまで働いているようだった。
結局、俺は彼女を連れて、二人だけでこの街の裏路地にある雑貨屋兼食堂まで行った。

この辺りの裏路地は、夜は山手線内とは思えないほど真っ暗になった。
周囲に俺たちを狙っている人間はいないか、俺は周囲を注意して見渡しながら歩いたものだった。
彼女にもヤバそうだったら、手を引っ張って走って逃げるからと、事前に伝えてはいた。

そんな用心が無用のものだったのか、たまたま運よく無事に済んだだけなのかは解りようもないが、俺たちはどうやら無事に食事を終え、新大久保を脱出することができた。

あの時の俺たちは、雑貨屋兼を出ると新大久保駅には戻らず、新宿方面へ進んだ。
今の俺も同じように、新宿方面を目指して狭い路地を進んだ。
間も無く都道302号線の北側、いわゆる職安通りに出た。

車通りが多く広い路地まで出ると、安全地帯に戻ったような安堵感があるのは、昔も今も変わらなかった。

2004年:小平駅・萩山駅

職安通りまで出ると、俺はさらに新宿方面へと歩く。
山手線沿いの道を歩くと、まだまだここは新宿ではなくて新大久保界隈といえるエリアに、西武新宿線の西武新宿駅の入口がある。

俺が彼女を新大久保に連れてきた際も、帰りはこうして西武新宿駅まで逃げるように歩いて、拝島行きの急行に飛び乗った。

俺は西武新宿駅の改札を通ると、本川越行きの急行を待ち、本川越行きの急行がやってくると、すぐさまそれに乗り込んだ。
急行列車は鷺ノ宮、上石神井、田無と当たり前のように山手線から大きく離れて、西へと順調に進んだ。

小平駅で俺は急行列車を降りた。
正面には拝島行きの普通列車があり、これに乗れば今回の最終目的地である萩山駅に行けるのだが、これには乗らずに俺は小平駅で改札を出た。

小平駅から萩山駅までまっすぐ伸びた遊歩道がある。
この遊歩道は、多摩湖畔の狭山公園まで長く続いている。
俺はこの遊歩道を歩いて、萩山駅まで行く。

俺と彼女は、会社の新人研修が終わると、それぞれ別のプロジェクトに配属された。
新人研修が終わったとはいえ、相変わらず仕事で設計書やプログラムを書いては、ダメ出しをされてばかりだった。仕事は全く順調とは言えないまま、冬になり、年を越した。

当時の俺は埼玉の実家住まいで、彼女はこの西武新宿線から外れた西武拝島線沿いの萩山駅近くにあるアパートに住んでいた。
会社のある高田馬場までは萩山駅から通うのが近かったからという理由もあるが、彼女は俺が居ないとすぐに精神的に不安定になった。
俺はほとんど毎日、仕事が終わると彼女のアパートに転がり込む生活になった。

西武拝島線は西武新宿線より20分以上終電が早い。
俺たちは少なくとも週に三日は終電で帰るような生活で、終電で帰るとなると萩山駅まで行く拝島線の終電はあきらめて、新宿線の終電に乗って小平駅を降り、この萩山駅に続く遊歩道を歩いて萩山のアパートへ帰った。

真っ暗な遊歩道を二人で歩いた。
終電を降りた他の乗客も同じように遊歩道を歩くが、大抵はすぐにどこかへ散って行ってしまい、街灯も少ない遊歩道は俺と彼女の二人だけになった。

季節は冬になっていた。

冬が寒くって本当によかった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットにお招きするための
この上ない程の理由になるから

彼女はBUMP OF CHICKENの「スノースマイル」をおどけたように歌いながら、俺のコートのポケットに左手を突っ込んだ。
俺はポケットの中で、彼女と指を絡めて手を握った。
ただ俺が居るだけでこんなに喜ぶ人がいるのを、俺はまだ信じられなくて、言葉も出せずに照れ笑いだけを返した。

BUMP OF CHICKENの「スノースマイル」は、最後に「僕」は一人になって、冷えた手をポケットに招く「君」はいなくなる歌だと、あの時の俺も彼女も知らなかった。
仮に知っていても、あの時の俺たちは自分たちが別れる未来など想像もできなかった。

俺は真っ暗な夜道の姿しか、この遊歩道については知らない。
今日はまだ14時前の明るい時間で、6月末の強い日差しが俺を照り付けていた。

萩山駅が近づくと西武拝島線を越える踏切があり、その踏切の先には小さい公園があった。

「俺、小学生のころは肥満児で、逆上がりができなかったんだ」
「今ならできるんじゃない。ほら、あの公園に鉄棒があるよ」
「こんな深夜に逆上がりなんて嫌だよ。カバンだって持ってるし」
「カバンくらい持ってあげるから、やってみてよ」

彼女は俺にいたずらな笑顔を向けた。
俺は彼女にカバンを預けて鉄棒で逆上がりを試みた。

「あれ、できちゃった」
小学生の頃は、いくら地面を蹴ってもおよそ足が鉄棒を越えるとは思えなかったが、大人になってやってみると簡単なものだった。

彼女は嬉しそうに笑っていた。

でも俺は、逆上がりができたことよりも、真っ暗な公園の周りに建っているマンションが、どれも今住んでいるアパートよりも広く快適な部屋だろうと思われて、あんな部屋に彼女と二人で早く住めるようになりたいと、そんなことを思っていた。

さらに遊歩道を進み萩山駅前まで来ると、彼女が住んでいたアパートはすぐ近くのはずで、俺はそのアパートを探してみた。
何度か道を誤ったが、そのアパートは今も同じように建っていた。

4畳半とロフトのアパート
当時の家賃は月4万5千円

きっと将来はもっと良いところに住めるだろうと、修行中の仮住まいのつもりで青森から東京に出てきた彼女が借りたアパート。
でも、あの時が、俺の生涯で最も幸福だった。

苦しい修行のような日々を乗り越えれば、成功と幸福と安寧の生活が待っていると、俺も彼女も信じていた。
しかし、そうはならなかった。

アパートの前を出ると、俺は萩山駅にいた。
萩山駅の駅舎は何も変わっていなかった。

あれから俺は、彼女と別れて、転職もして、自分一人が生きるために仕事だけは続けた。
厳しくしごかれて鍛えられた仕事、それだけが俺の手元には残った。

俺は確かに幸福ではないかもしれないが、厳しくしごかれた仕事を発揮し切れた機会だけはあった。

仕事をやり尽くせた。

それに報いる報酬を俺は得られなかった、とも思う。
それでも、仕事をやり尽くしたと思えるまでやり切れただけでも十分だったと、萩山駅の駅舎前に立った時に気が付いたのだった。

14時30分。
俺の過去を巡る彷徨は終わった。
わずか3時間半の、初老のおっさんの徘徊である。

帰りの西武新宿線の急行列車。
俺が座る座席の隣に座った若いカップルが、LINE IDを交換をした後に、知り合った経緯をどうやって知人に話そうかを相談し合っていた。
このカップルはマッチングアプリで知り合って、昨晩初めて結ばれたばかりのようだった。

このカップルの将来が幸せであるようにと、俺は素直な気持ちで祈っていた。

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