見出し画像

性の問題を「寛容さ」で断じてしまう危うさ

Edgeのトップページを見ていたら、気になる記事があった。

この記事のライターは、恋愛ガイドの肩書を持つ亀山早苗さんという方らしい。
AllAboutには2015年から記事を寄稿しているようだ。
Wikipediaを見ると、氏が著作の書籍も大変に多いようだ。

タイトルでこの記事のあらすじは概ね語ってしまっているが、実際の内容もそのままである。
記事の中ではセクシー女優がアパレルのコラボから排除されそうになっている問題を挙げているが、引き合いとしてキャバクラ勤務経験のある女性が同性から批判を受けた経験談も紹介されていた。

この記事が永久に公開されているかわからないので、特に気になった結論部分を引用しておく。

かつて飯島愛さんというタレントがいた。1992年にAVデビュー後、そのままテレビの深夜番組に登場、人気者となって2年後にセクシー女優を引退してタレント活動を続けた。2000年に波乱に満ちた人生をつづった自伝的小説を出版して話題になり、以降は作家としても活躍しながら、性感染症の予防活動に尽力した。

この当時、彼女を「排除」しようという空気はまったくなく、当初は男性ファンが多かった彼女には、カミングアウト以降、若い女性ファンが激増した。彼女の人柄がそうさせたのだろう。

20年前は、まだ人には「何でも受け入れる」寛容さが残っていた。寛容さというと飯島愛さんに失礼かもしれない。AV出身だからといって差別するという意識が、一般人には薄かったということだ。あれから何があって、人はこれほどギスギスするようになったのか。そこが不思議でならない。

当時の飯島愛を世間がどのように受け入れたかについて、疑問を呈するわけでもなければ検証をするつもりはない。
飯島愛についての記述は、概ね事実として受け取っても構わないように思う。
ただし、当時の飯島愛は一般のタレントとして活動していた際は、極力AV出身という属性を隠していたはずだし、当時の特に女性の視聴者がどういう心境で飯島愛の活躍を受け入れていたかは知る由もない。

それよりも私が気になったのは、セクシー女優のゾーニングについて「寛容さ」という言葉を引き合いに出してしまっている点だ。

ソース元のAllAboutに閲覧者が投稿できるコメント欄は無いが、Microsoftにはコメント欄がある。このコメント欄を見ると、大半の読者はこの記事に賛同的で、意を反するコメントには反対を示すリアクションが多数ついていた。

これをもって日本人の多数がセクシー女優というか、もっと直接的な表現をすればポルノやセックスワークを受容していると判断するのは早計だろう。

AV新法の施行や、クレジットカード会社がポルノを扱うサイトの取引を停止したり、駅に女性のアニメ絵が貼られれば、定期的に女性団体が女性差別だ排除せよと騒ぎ立てるし、ポルノを社会から排除しようという動きは確実に進んでいる。
風俗店の類がより厳しい流れにあるのは、この場で説明することでもないだろう。
性的なもの、突き詰めれば男性の性欲の需要に応えようとするシステムを、「寛容に」受け入れる社会的な潮流があるわけではない。むしろ、実際は逆であると見た方が良い。
むしろこの記事も、元セクシー女優とアパレルブランドのコラボについて、ゾーニングしてほしいという声が多数であったという結果を起因にした記事である。
おそらくこの記事に賛同している人の多くは、「寛容」という錦の御旗に引き寄せられているだけではないだろうか。あるいは、この著者のファンなのかもしれない。

俯瞰してみれば性に関する社会の潮流は、明確な基準を定めないまま許容と排除が入り乱れており、完全な矛盾を生じている。
あえて言えば、女性やLGBTQの存在や主張は受け入れる一方で、男性から女性への性欲に関連するものは排除する方向があり、ポルノの存在は未成年の目に入らないように公共の場からはゾーニングして許容するという点は、ほぼ一貫しているように見える。

とはいえ、ポルノやセックスワークの存在については、ゾーニングされていればそれで良いというわけではなく、上でも述べたように社会から排除する動きが着実に進んでいる。
その一方で、その業界に主に収入面で依存しているセクシー女優やセックスワーカーは許容しようという動きもある。

この点の整合性を取る一つのロジックとして、セクシー女優やセックスワーカーを被害者として扱う見方がある。
彼女たちを被害者とすれば、彼女たちを公でも平等に扱うべきとの論拠と、彼女たちに加害を与えたAV業界や風俗店は排除すべきとの論拠の両方を、矛盾なく成立させられる。
中にはこの論拠でセックスワーカーを取り上げて、政治批判につなげようとする記事も見かける。彼女たちが風俗店でやむを得ず辛い仕事をしているのは、彼女たちが十分な収入を得られない社会を作った政治が悪いからだという主張である。
この主張の因果関係の正否について素人の私では検証のしようがないが、少なくともセックスワーカーを救うために政権交代をしようという声はほとんど聞こえないから、一般ではあまり受け入れられていないのだろう。

人間社会における性に関する問題とは、そのほとんどは人間が本能的に感じる強い不寛容の感情に由来している。
もちろん一部には不寛容の感情によるものではなく、性病の問題や、子供の親は誰なのかという、もっと形而下の問題があるケースもあるだろう。
しかし、それらは性の問題の中ではごく一部のもので、以下に挙げるような、不寛容、言い換えれば排他的で否定的な性に関する様々な感情が先天的に人間には備わっていて、これらの感情の受容と肯定こそが重大な性の問題を引き起こしていると言ってよい。

  • 性的に受け入れられない相手とは性行為をしたくない

  • 自分の恋人や配偶者や好きな人が、他の人と性行為をする(していた)のは許せない

  • 自分と異なる性的趣向が許せない

  • 同性が性を売り物にするのを許せない

  • 子供を性的な情報に触れさせたくない

  • 性的に受け入れられない相手に好意を向けられたくない

  • 他人の性行為や性欲の存在を匂わす情報は気持ち悪い

  • 性的アピールをする同性を見たくない

  • 性に関する情報は気持ち悪い

  • 性の問題に過剰反応するのは気持ち悪い

これらは個人差や社会通念による感度の多寡はあれど、人間として当然持ち合わせている性に関する本能的に湧き上がる不寛容で拒絶的な感情であるはずだ。
一方で、これらの感情と共存して、性欲という性行為を望む欲求が人間にはある。根本的に人間の感情は性に関して矛盾を抱えている。
この矛盾した拒絶と欲求の対決とバランスが、優秀な子孫を残すシステムになっているのだろう。しかし、多くの不幸な人間を産んだのも事実だ。
これらの性に関する本能的な感情の矛盾を受け入れた上で、旧来の人間社会の道徳や倫理や法律、あるいは宗教上の教義も作られたはずだ。

古くは旧約聖書のアダムとイブの寓話についても、上記の性を拒む感情(性の拒絶は倫理的なものとして感情ではなく知恵としているが、根本は同じだろう)を知恵の実を食べて得たことにより、性欲と性を拒む倫理の葛藤が人間にはあることを、エデンからの追放という形で比喩的に表現している。

これらの感情をすべて否定し、寛容の名のもとに感情の抑制を強制すれば、性の問題は起きない。人間はエデンに帰れる。

要は、

やりたい時に、やりたい相手と、やりたいようにやれ
止めるな
拒否するな
何も隠すな

というだけだ。

しかし、それで何が起きるかは、説明しなくても解るはずだ。
性に関する感情をどのように扱うかは、人類史上で尽きることのない大きな課題である。

昨今ではLGBTQ問題に起因して「自分と異なる性的趣向が許せない」という感情は、社会においての悪であり個人でも悪感情として扱われている。
一方で「自分の恋人や配偶者や好きな人が、他の人と性行為をする(していた)のが許せない」は、不倫に対する慰謝料を法で定めている点で、現在でも日本の国家の法で認められている人間感情だ。
性的暴行を犯罪としている根拠は「性的に受け入れられない相手とは行為をしたくない」という感情の肯定にある。
私が子供のころに見たTVドラマでは、女性の婚前交渉が明るみに出て婚約破断になった話があったから「自分の恋人や配偶者や好きな人が、他の人と性行為をする(していた)のが許せない」という感情は、不倫や浮気の不許容を超えて、日本の昭和の時代では処女信仰というレベルでも許容されていたのだろう。

性の問題に関する感情は、特に21世紀になってから社会的に何を受け入れて何を受け入れないかは、非常に流動的になってしまっている。
かろうじて一貫性のある基準は、上でも述べた通り、男性の性欲の否定と女性とLGBTQの肯定と、あとは性的な情報のゾーニングくらいだろうか。
男性の性欲についての否定は、これまでの人間社会が長い間、男性の感情を優先して倫理や道徳を決めてきた故に生じた反動なのだろう。

時間が経てば多数派も少数派も納得し得る着地点は見つかるように思うが、性にまつわる社会的な問題の根本は、人間が本能的に抱く感情の矛盾と、感情の多寡を定量的に測れない問題に由来しているから、論理的な正解を見出すのは不可能なのではないか。
故に、いつまでも消えては再び燃え上がる問題であるはずだ。

いずれにせよ、この問題を「寛容さ」という切り口だけで正解を求めるのは、大きな誤りを犯す危険をはらんでいる。
例えば「性的に受け入れられない相手とは行為をしたくない」を、寛容さがないという建前上の理由によって社会的に許容されない感情としてしまったらどうなるか?
実際に一部の国ではルッキズムの問題で過剰に肥満体系の女性を持ち上げる動きがあるが、彼女たちがパートナーに恵まれないと声を上げ始めれば、彼女たちを受け入れない不寛容な男性が悪いという主張が簡単に通ってしまう下地ができている。
さすがに、この主張は多くの人間が受け入れられないだろうから、誰も声を上げずに留めているのかもしれないが、今後もこの主張が上がらないとも、この主張によって男性が異性の要求を拒むこと自体を悪とする社会が訪れないとも限らない。

話を戻すと、セクシー女優が公の場に出ることについて、私は反対をしているわけではない。元も含めてセクシー女優の人権だって当然守られるべきだし、社会から排除するべきではない。
この記事で挙げたセクシー女優の問題に限らず、様々なものや人や意見を批判して排除しようとする言論ばかりが受け入れらがちな、現代の風潮にだって違和感を感じている。しかし、声を上げないと世の中がおかしな方向へ向かってしまう予感、これをもう少し客観的に言い換えれば、絶対的な正義や秩序が失われ、声を上げない人間が損をする社会になっている危うさも現代にはある。

これらの点は、一部では冒頭の記事の著者に賛同できる部分である。

一方で、子供たちから「セクシー女優って何?」と聞かれる危険にさらされる親の心情も理解できる。精神的にも肉体的にも未成熟で、それでいて好奇心旺盛な子供を、性的な情報から遠ざけておきたいというのは、親として当然の心理だ。
もっと言えば、子供の影響は関係なしに、女性からすれば男性のセックスシンボルとなっているセクシー女優を自分の目からは遠ざけて欲しいという心情もあるだろう。

つまり、私は結論を出さない八方美人の卑怯な人間だ。
私の立ち位置は、せめて世間の潮流には逆らわず、不要な諍いを避けたいだけである。

それでも、性の問題の解答を求める根拠を「寛容さ」に求めるのは間違いだと言いたい。
「寛容さ」を根拠に倫理の基準を決めてしまうと、行き着く先は、人間のすべての性に関する否定的で排他的な不寛容の感情を抑え込んで生きなければならなくなる。
そこにあるのは、当然あるべき恋愛感情は踏みにじられ、子供を守るべき夫婦の絆は壊され、欲望のままに動くことだけが肯定される世界である。

そのような極論を出さなくても、「寛容さ」については問題がある。
多様な人間が共同で生活する社会では、否応なしにある程度の感情の抑制を、その社会の成員には要求する。
いわゆる、法や道徳や倫理を遵守することへの強制である。これは仕方がない。
むしろ、人は自らを感情的な被害から守ってもらうために、感情の抑制を強制する法を自ら求めているのではないか。
その感情の抑制を強制する表向きの錦の御旗に「寛容さ」という言葉を使うのは、少数派の利益に偏った無根拠な強制に他ならない。
本来的には、多数派と少数派で感情面を含めた利害の一致が見出せなければ、少数派の不幸を避けるために多数派が我慢しなければならないこともあれば、多数派の安寧や利益のために少数派が被らざるを得ない被害だってあるはずだ。
この点を正当かつ平等に評価して利害のバランスを取る思考を放棄すれば、偏った不平等な社会ができあがるだけだ。これを放置すれば、やがて大きな反目と争いが生まれ、より大きな被害が出る。

本来であれば、ごく一部の有名セクシー女優の人権と商業的な利益と、子を持つ親の感情的な不安と、未成熟な状態で性的知識を得てしまい害を受ける未成年を、正当に天秤にかけて検証をしなければならないところを、この記事ではその検証を避けて「寛容さ」という言葉だけで結論を出してしまっている。

また、この記事についてはもう一つの問題点がある。
インタビューイの言葉としているが、「ゾーニング」という言葉を差別と同義として「気分が悪い」「危険性がある」と評している点も明らかにおかしい。
新型コロナのゾーニングは感染を広げず未感染者を守るためのものであるし、ポルノコンテンツのゾーニングだって未成熟な未成年を守るためのものだ。
これらも「差をつけて別けている」から差別ではあるかもしれないが、それであれば、全ての差別を悪とするのもおかしな話である。
差別の排除のみを優先して守るべき人を守らないのは、寛容や平等の原則より優先されるべき自己保全の権利を侵している。
安全を放棄して正義に殉じよと、正にそのように言っているに等しい。

そもそも、記事のタイトルから「元セクシー女優だから『ゾーニングすべきでは?」の気持ち悪さ』という、反対意見を「気持ち悪さ」として著者自身の不寛容な感情は肯定しておきながら、自分の意見を通す根拠に反対者への寛容さを求めるという、重大な自己矛盾を起こしているのだから、この記事はやはり不完全な論理に基づいたものなのだろう。


さいごに、本記事はかなりの批判的な内容になってしまったが、本記事の内容を理解していだければ明らかであるが、亀山早苗氏やAllAbout関係者の名誉や人格を貶めたり否定する意図は全く無いことを明記しておきたい。
また、冒頭の記事が問題を提起したことにより、社会的には好影響があるだろうという点は肯定的に受け入れたい。

【2024年7月11日 追記】
この記事を勢いだけで執筆して一晩が経ち、少し考え直してみたところ、そもそもの不幸は、性欲や愛欲と性を拒絶する倫理的な感情という、二つの対立して相反する人間が本来持ち合わせている性の欲求と感情について、優劣や貴賤を付けてきた歴史が性に関する秩序や道徳についての議論が揺れ動いてしまう原因なのではないかと思われた。
かつて(今でもあるのかもしれないが)は、禁欲を倫理的に正しいものとして、性欲は淫らなものとして忌避され、性行為の具体的なやり方まで指示する宗教すらあった。
日本を含むアジア圏は比較的寛容であったが、近代までは同性愛を罰していた歴史もある。
つまり、人類史を紐解けば、性的快楽を下劣なものとし、性的なものへの拒絶感情こそが倫理的かつ道徳的で過剰に貴いものとされ重用された歴史を、人類は長い期間で経験している。

この反動として、現代では性に関して過剰にオープンにな方向へ進もうとしている言論や活動が活発になっているのではないかと思われる。

現代においては、性的快楽への欲求と性的忌避感情を、貴賤なく同列に人間が携えている欲求と感情として受け入れるべきであるように思える。
これが進歩であるかはわからないが、社会全体で共有できる最適な道徳を探る第一歩であるように思えた。

このような少数の目にしか触れない記事でこのような提案をしても、世間に影響するとは思えないが、幽かな希望として記しておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?