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足利直冬紀行②~紀伊南朝軍征伐編~

無茶振りに成果を出しても報われない


京都(還俗して鎌倉から上洛)

2024年3月23日6時6分、のぞみ101号は東京駅を定刻通りに出発した。
土曜朝の新幹線は相変わらず乗車率が高い。
しかし、私が座った3列シートの横二席は空席のまま新横浜駅を出発した。

のぞみ101号
プラットフォームに登る階段にある案内電光板

今回の旅は二泊三日だが、天気予報は三日とも雨だった。しかし、花粉の季節は雨がうれしい。
東京駅を出た際は青空も見えていたが、静岡駅近辺から路面がぬれているのが見えるようになり、豊橋駅を過ぎたころには強い雨が降っているのを新幹線の窓からでも見えた。
名古屋駅を過ぎて岐阜羽島駅を通過した頃には、窓から見える山の上が雪で白くなっているのが確認できて、新幹線は速度を落とした。
3月も下旬だが、雨が降ればこの地域は雪になるのだ。

雪山の車窓を撮ろうとして失敗

音羽山トンネルを越えても、山の上は雪で覆われているのが見えた。米原駅を通過してすぐにあるヤンマーの向上の電光掲示板には、気温2℃と表示しているのが見えた。

8時15分、京都駅に定刻通りに到着した。
京都駅は相変わらずの大混雑であった。
私はホームをエスカレーターで降りると、在来線乗換の改札口を通った。


今回は、1348年の5月から9月までの期間に、足利直冬が北朝の大将として紀伊の南朝征伐に向かった軌跡を追いたい。

足利直冬については、瀬野精一郎著の「足利直冬」という書籍が詳しく、この足利直冬紀行においても、この「足利直冬」の記述に沿って旅を進めていくつもりだ。

前回は足利直冬についての記述がいい加減になってしまったので、改めて直冬の南朝征伐までの経歴と歴史的背景を書こうと思う。

足利直冬は足利尊氏の庶子、尊氏から認知されないから落胤(らくいん)とした方が良いかもしれない。
母親は越前の局という側室とされているが、側室というより、尊氏との一晩のみの関係で生まれた子であるらしい。越前の局がどのような人物かもわからず、おそらく低い身分の女性とされている。越前の局は遊女の類という説もあるが、それであれば尊氏以外の客も取っていただろうし、たまたま天下人を客にとって子供が生まれたからといって、その息子にお前の父親は尊氏だと吹き込むだろうか?という疑問はある。
そのような直冬は捨て子となってしまったのであろう。幼少期から成人期の頃まで鎌倉の東勝寺で過ごした。
1345年(興国6年/貞和元年)頃に還俗、つまり僧を辞めて一般人となり円林という僧に連れられて父の足利尊氏に会うために上洛した。
直冬は生誕年も死没年も不詳であるため、具体的な上洛時の年齢は不詳だが、18歳頃といわれている。

しかし、尊氏が面会を拒否したために上洛後の直冬と尊氏との面会は叶わず、しばらくは玄慧法印のもとで勉強をして過ごした。玄慧は建武式目の執筆にたずさわっていたり、太平記の著者の一人とされる学問僧であるから、当時の一流の学者といってよいだろう。
この時期の直冬は、玄慧の下で当時一流の学問を学んだはずである。
そして、1348年(貞和4年/正平3年)頃に足利直義の養子となり、嫌がる尊氏を直義が説得したと思われるが、同年の5月に北朝の大将として紀伊の南朝征伐に初陣として出陣をした。

この頃の南北朝は、楠木正成、新田義貞、北畠顕家といった南朝の主だった武将はすでに戦で亡くなっているのに加え、南朝分裂の張本人である後醍醐天皇も6年前の1339年に崩御している。南北朝の争いは北朝の足利方が大きく優勢であった。
加えて、同年の1月に発生した四條畷の戦いで、楠木正成の息子である楠木正時と正行北朝の高師直によって討ち取られている。
これで南北朝の戦局においては北朝が圧倒的に有利になったであろうが、組織で大きい敵がいなくなると、次に内部で争いがおこるのは世の常である。
この頃の足利政権は、政務を直義、軍事を高師直と分担して、尊氏は政務も軍事も積極的には携わらなかった。
軍事面で成果を上げた高師直が直義を差し置いて幕府内での影響力は直義より大きくなり、両者の政権内でのパワーバランスが崩れたようだ。弱い立場となった直義としては、養子にした直冬を南朝征伐の大将としたのは高師直への政治的な対抗の意味もあっただろう。

このような背景はあるのだが、当時の直冬にとってただの若僧であったのが、尊氏の息子であり直義の養子として北朝に征伐軍大将と抜擢されたのだから、異例の大出世だったはずである。
当時の価値観は理解できないが、血縁が持つ価値の強さを感じる。

ところで、本来であれば今回の旅で直冬が上洛から初陣前まで京で過ごした場所も訪れたいのだが、この時期の直冬が具体的に京のどこで過ごしたのかがわからない。
直義の養子になったのだから直義邸に居た可能性もなくはないが、直義邸の正面には尊氏邸があるので、尊氏が嫌っている直冬を直義邸には住まわせなかったのではないか。
すると、上洛後の京での直冬の滞在場所は全くわからない。
したがって、今回の京都で訪れるべき場所がないのだ。

直冬は出陣をした5月28日から6月18日までの約3週間を東寺に宿泊した。出陣をしたのに3週間も京の東寺にとどまったのは異常とも思えるが、それだけ直冬にとって紀伊征伐の任務は無茶振りであったのだろう。
そもそも、紀伊の南朝軍の征伐せよといわれても、南朝軍は拠点の吉野を捨てて別の山に潜んでいただろうから、具体的にどこへ行けばよいのかもわからなかったはずだ。
しかも、当時の直冬は大将どころか戦の経験すら無いのだから、軍隊を編成して遠征の準備を整えるのだって一筋縄ではいかなかったはずである。
むしろ、3週間でどうにか体裁を整えて、軍を率いて戦場に向かうことができただけでも直冬は相当優秀であったと思える。

そんな東寺であるが、また別の機会に訪れるつもりなので今回はパスする。
それよりも、京都で訪れておきたい場所がある。

直冬の上洛が1345年であれば、尊氏が後醍醐天皇を弔うために建立した天龍寺の工事があらかた終わり、後醍醐天皇の落慶供養がとりおこなわれたはずの年だ。
そこには尊氏が公の場に顔を出しただろうから、その際に上洛したばかりの直冬は尊氏に接触しようとしたのではないか。

天龍寺を訪れても直冬に関する情報は無いと思われるが、それでも今回は天龍寺を訪ねてみたい。

京都の訪問場所

天龍寺

京都駅が33番線まであるのは京都人が見栄っ張りだかららしい(YouTube情報)
嵯峨野線各駅停車

8時27分、私が乗りこんだ嵯峨野線亀山行きの8両編成の各駅停車は時刻通りに出発した。
この列車は地元民らしき乗客も多いが、それよりも外国人観光客の多いこと。
京都駅を出ると梅小路京都西駅、丹波口駅と止まり、さらに観光客が乗ってくる。

今や京都は世界一の観光地であるようだし、観光客が多いのは結構なことなのだろうが、こうも混雑してはうんざりする。そもそも、京都は観光地として設計された都市ではないから、観光客が押し寄せれば、あらゆるところが混雑する。

上にも書いたが、この「足利直冬紀行」では今後も再度京都を訪問する予定だが、こうも混雑をしていると、宿泊先や訪問先について慎重に考慮をせねばと、うんざりさせられる。

とくに嵐山近辺の混雑はひどいから、これから訪問する天竜寺も混んでいるかもしれない。

嵯峨野嵐山駅

太秦の映画村を窓から眺めて、8時46分嵯峨野嵐山駅着。
やはりというか当たり前だが、この駅で降りる客は多かった。おそらく、みんな観光客なのだろう。
天気を心配したが、小雨が降る程度だった。
宮脇俊三は著者のなかで、京都は雨が似合うと書いていたが、実際に雨の京都を歩いてみてもいまいち納得しかねる。私が旅人として宮脇俊三の境地に達していないだけだと思うが。
折りたたみ傘をさして嵯峨野嵐山駅から10分ほど歩くと天竜寺に着いた。

天竜寺の山門
本堂 参拝の入口になっている
書院から眺めた大方丈と曹源池
書院から多宝殿に続く廊下

天竜寺を訪れたいとは書いたが、実際に来てみるとあまり面白いものではなかった。
建物は武士の時代の寺院の特徴なのだろう、朱色のような派手な装飾は無く、前回訪れた鎌倉の浄妙寺に近い雰囲気に思われた。
大方丈の裏から眺めた曹源池は見事なのだろうけど、観光客が多くて風情も何もあったものではない。

多宝殿の奥にある後醍醐天皇像

多宝殿の奥にある後醍醐天皇像を眺める。後醍醐天皇は多宝殿があった場所を学問所としていたらい。

花の名前はよくわからない
これもなんかの花 花の名前がわからない

奥の竹林もいってみる。京都といえば天龍寺の竹林は代表的な景色の一つだ。
映像でみるとこの竹林の道は静謐な印象を受けるが、実際に訪れると観光客が多くてそんな雰囲気は味わえなかった。

竹林も観光客でいっぱい
団体客も多かった

観光客でごった返している場所に長居をしても仕方ないので嵯峨野嵐山駅に戻る。
9時46分、嵯峨野嵐山駅を出て京都駅に戻った。

和歌山(紀伊国へ南朝軍征伐)

京都駅から新快速で大阪駅まで行き、これまた大混雑の大阪駅で地下鉄御堂筋に乗り換えて南海なんば駅にやってきた。これから直冬の紀伊南朝軍征伐の軌跡を追うため和歌山へ向かう。
和歌山へはJR阪和線と南海鉄道の並行する二線があり、私のようにJRで移動をしている人間にはJR阪和線の方が便利なのだろうけど、南海なんば駅の巨大な頭端式ホームも見てみたいし、まだ乗車経験のない南海電鉄に乗っておきたいと思い、今回は南海電鉄で和歌山まで行くことにした。

南海なんば駅の電光掲示板

時刻は11時。昼食には少し早いが妙に腹が減った。
窓口で乗車券と特急の指定席券を買い、改札に入る前に周囲を見回すと、ワッフル屋があったので2個ほど買い込み、改札を通り今回乗車する特急サザンの指定席車両に乗り込んだ。

特急サザンの先頭車両
これは旧型の車両らしい
特急こうや
特急サザンの普通車側
どう見ても古い

11時20分、特急サザン17号は南海なんば駅を出発した。
南海鉄道の特急というと、高野山の極楽橋へ向かう特急こうや、関西空港に向かう特急ラピートが思い浮かぶが、南海電鉄の主要路線である南海本線を走り通すのは特急サザンだ。
しかし、特急サザンは8両編成の4両半分はロングシートの一般車で、顔もラピートのような特徴的なものではなく一般車のような変哲のないもので、正直、地味だ。
特急と名付けられているが、なんば駅から和歌山市駅まで南海本線の主要な駅に止まっていくので、駅を走り出しても10分としないうちに次の駅に止まる。特急というより総武線快速のグリーン車に乗っているようだ。
女性のパーサーが駅を出発するたびに不正乗車がないか、タブレットを見ながら見回りに来る。この駅間では、こうでもしないと一駅くらいなら良いだろうと不正乗車をする乗客が絶えないのだろうか。

特急サザンの車内
和歌山市駅

12時18分、特急サザンは定刻通りに和歌山市駅に到着した。
降りた乗客は、何故か旅行にしては派手すぎる格好をしたキャリーバッグを引いた女性客が多かったのが気になった。

和歌山の訪問した場所

平岩城跡

特急サザンとは言ったもので、和歌山市駅を出ると、明らかに京都や大阪よりも気温が高くなっていると感じた。
和歌山市駅は駅舎は立派だが、駅前通りは寂れていた。歩道には崩れかけの木造の屋根が架けられていた。

和歌山市駅から数分歩いた店舗でレンタカーを借りて、和歌山市街地を脱出した。
和歌山の市街地は信号が多くて繋がりも悪く、市街地を脱出するのには思ったより時間がかかった。

これから、まずは平岩城跡を目指す。

6月18日に京都の東寺を出た直冬軍は、8月初旬に南朝の紀伊国岩城を制圧したとある。

その岩城を訪ねるために場所を探そうとしたが、事前にGoogleMapを検索しても「岩城」なる城や城跡はみつからなかった。
しかし、平岩城跡という地名を見つけた。
古い書籍では比叡山を叡山と略して記述したりするので、これも同じようなものと思われる。
位置的にも南朝の本来の拠点である吉野から遠く離れてはいないし、次の戦場となった阿瀬川城の北に位置しているのも、南朝軍は直冬の軍に敗れて南へと敗走したであろうから納得がいく。
ここが岩城に違いないと決めて向かうことにした。

平岩城跡の林道入口

14時ちょうどくらいに、平岩城跡のふもとまでたどり着いた。

雨は強くなっていて、車の中でレインウェアを着込む。
平岩城跡までは車が通れる林道があるとWebの情報で得ていたが、一般車では登れないほど急な坂道であるらしい。特に今日の様に雨が強ければ絶対に無理だろう。

林道は倒木によって遮られている

車を出ると強い雨が降る林道を登り始めた。

林道はセメントと砂利を混ぜた舗装がされているが、針葉樹の枯葉や枝でおおわれていて、さらに苔まで生えている。およそ、管理されているとは思えない。
さらに登ると倒木で遮られているわ、小川を渡している箇所が崩れているわで、およそ車で登れる状態ではなかった。

舗装が途切れるとつづら折りになっているカーブをこえて、斜面のトラバースになっている林道を歩き続けた。

この辺りで林道を引き返した

平岩城跡は手前まで林道が続いているとのことで、林道沿いに歩けば平岩城跡にたどり着くと勝手に思っていたが、いくら歩いても山頂にあると思われる平岩城跡にたどり着く様子はない。
右手が谷になっているので北方向に歩いているのは間違いないが、位置的に登山口からこんなに北に進むはずはない。
登り始めてから30分、いい加減、道を誤っただろうと思い、これまで歩いた林道を引き返すことにする。

平岩城跡に続く分岐
写真でみると道筋がはっきりしているが現地だと見落としやすい

これで平岩城跡の訪問はあきらめればならないかと少し気を落としていたところ、舗装が途切れるつづら折りのカーブまで戻ったら、山頂方向に続くと思われる細い道を見つけた。この道が平岩城跡に続いているか確証はないが、登れるところまで登ってみる。
すると、平岩城跡はこの道を登り切った場所にあった。あったと言っても標識らしきものは何もないのだが。

平岩城跡は山頂の少し平たい場所としか言いようがない場所だが、人の手で作られたと思われる土塁跡が少しだけ確認できる。

平岩城跡 何もない
やっぱり何もない
石塁跡と思われる

この時代の城は、城というより砦のようなものなのだろうが、この平岩城は砦としてもそう立派なものであったようには思われない。
広さ的には、どんなに詰め込んでも200人程度を滞在させるのが限界だろう。

いくら弱っているとはいえ、南朝軍の本体にしては規模が小さすぎるように思えるから、分隊か南朝を支持する地方勢力なのだろうけれども、この規模で北朝に反抗するとは、それほど当時の南朝は弱っていたのだろうか。
これを制圧したとは言っても南朝軍を逃がしてしまった直冬北朝軍も、せいぜい数百騎程度の規模だったのではないか。それ以上の規模があれば、この山から逃がさずに全滅させられただろうと思う。

阿瀬川氏天子城跡

平岩城跡からレンタカーに戻り、びしょぬれのレインウェアを軽く拭き取って、次の目的地へ向かう。

次はこの平岩城跡の少し南にある阿瀬川氏天子城跡を訪れる。

岩城制圧のほぼ一カ月後の9月4日、直冬は紀伊国阿瀬川城を陥落したとある。はっきりと両軍の戦闘があったと記録されるのは、阿瀬川城のみである。
その阿瀬川城跡を訪ねる。

ところで、直冬は紀伊遠征において当時の北朝紀伊国守護の畠山国清を伴っていたと思われる。
後に観音の擾乱で尊氏と直義が対立した際に畠山国清は直義側についた。その理由として、武将として優秀な直冬が冷遇されていることに国清が同情したからではという説があるからだ。
そのような説が出るのであれば、直冬の優秀さを知るのに、直冬はこの紀伊国征伐で国清と一緒に戦を戦ったのではないか。
直冬は紀伊の地理に詳しいわけではなかっただろうから、軍事にも詳しい地元をよく知る人間の協力が必要で、紀伊国守護の国清は適任だったと思われる。

レンタカーを国道370号を東へ少し進ませ、県道115号を南下して国道480号を西へ進んだ。

国道480号は国道370号と違い、国道と付いてはいるが対向車と離合もできない箇所も多い、酷道と呼ばれても仕方ないような道であった。
国道370号は和歌山市から高野山へ至る道であるから整備が進んでいるのだろうが、国道480号も高野山へ至る道ではあるが、国道370号を差し置いて整備をする必要も無いのだろう。
開発整備は後回しにされているようだ。

どうにか駐車場所を見つけた

阿瀬川城跡のある杉野原地区に到着したが、車を駐車できるような場所がみつからず、どうにか少しだけ道が広がっている場所に駐車して阿瀬川城跡へ向かう。
住民も少なく車通りもあまりないが、ゼロではない。
駐車禁止の道路ではないが、あまり長く駐車をしているとトラブルが起きそうであるから、そうなる前に引き上げたい。

杉野原地区

阿瀬川城跡は平岩城跡ほど険しい道ではなく、登山口から5分ほどで神社や小屋のある山頂の城跡にたどり着いた。
ドラえもんにでてくるような、学校の裏山のような誰でも気軽に訪れられる場所である。
ふもとに子供が多ければ、きっと子供たちが良く遊ぶ場所になっていただろう。

しかし、この場所を戦場の砦として見直すと、平岩城跡に比べてはるかに守りにくい場所であっただろう。
高い場所から弓矢を射出できるのは有利だろうが、数で押されたらあっという間に陥落してしまうだろう。
直冬はここで南朝軍に勝利した。平岩城よりはるかに低い山なので、当時の戦闘は激しかっただろうと思われた。

阿瀬川城跡
山頂は神社になっている
神社の祠
お地蔵さまもあった
戦闘で亡くなられた方を葬っているのだろうか

和歌山市内

阿瀬川城の戦いで敗れた南朝軍を、直冬率いる北朝軍は紀伊国日高郡まで追撃したとある。
9月4日に阿瀬川城を制圧した後、直冬は9月27日に帰京をしているので、この日高郡追撃は数日程度の期間でそこまで大規模であったとは思えないし、大きな戦闘も発生しなかったと思われる。

果たして日高郡と呼ばれる地域を調べてみると、西の海岸沿いは現在の御坊市を中心に由良町、日高町、美浜町が入り、東の山中は印南町、みなべ町、日高川町に加えて、田辺市の一部まで入るようだ。田辺市は熊野古道の中辺路を含む市である。
直冬が日高郡のどこまで追撃したのか、全くわからないのだが、それらしい城跡を見ていくと、手取城跡というものを計画時に見つけていた。

時間があればこの手取城跡も訪問してみたかったが、阿瀬川城跡出て阪和道の有田ICに着いた時には17時15分になっていた。
18時には和歌山市駅前のレンタカー屋にレンタカーを返却する予定だし、これから手取城跡を目指しても暗くなる可能性もある。
手取城跡はあきらめて、阪和道に乗り和歌山市内に引き返した。

18時ちょうどにレンタカー屋に到着して、無事にレンタカーを返却した。

明日はまた南海電鉄の和歌山市駅に戻ってくるので、和歌山市駅近辺のホテルに泊まればよかったのだが計画時に見つけることができず、和歌山市駅から2kmほど離れた和歌山駅近くのホテルを予約した。
和歌山市駅と和歌山駅はJR紀勢本線で移動できるが、和歌山市内の様子を歩いて見てみたかったので、今晩泊まる和歌山駅近くのホテルに向かって小雨の和歌山市街を歩いた。

ぶらくり丁というアーケード
中はシャッター通りだった

しばらく歩くと「ぶらくり丁」という屋根付のアーケードに入った。

こうしてコロナ禍後の日本の地方を旅して慣れっこになってしまったが、土曜の18時過ぎという出歩く人が最も多い時間帯と思われるのに、この和歌山のアーケードも人通りは少なくシャッターを閉めている店が多い。
看板をみると、明らかに時代遅れの個人商店が目立つ。果てにはスマートボールなんて、いつの時代だよと突っ込みたくなる店まであった。

和歌川の橋を越えて再度アーケードに入るが、相変わらずのシャッター街である。
しかし、ふと横道を見ると微妙に賑やかに看板が立ち並ぶ通りが見えた。

どうやら風俗街のようだ。

昼に特急サザンを降りたキャリーバッグを引いた派手な格好の女性たちは、今ごろこの店のどれかで客のお相手をしているのだろうか。
一人旅でこういう店に入る気は毛頭ないのだが、旅に出ると普段以上に人肌が恋しくなる。偶然にこういう店を見つけると、入りはしないが興味は出てしまう。
しかし、彼女たちの顔を思い返すと店に入ろうという気持ちは萎えて、再び和歌山駅近くの予約したビジネスホテルへと歩みを進めることにした。

アーケードから眺めたソープ街
灯がともっているのでまだ生きている

さらにアーケードを進むと、屋根も途切れ、今度はスナック街に入り込んだ。
こちらも営業している店は多いようで、現在の地方都市にありがちな死んだ街にはまだまだなっていないらしい。
こういう男性向けの店が集まる場所は、賑やか過ぎるのも困りものだが、廃れてしまうのは寂しいものがある。

それにしても、こういった風俗店について、和歌山市内だけでこれだけの需要があるとは思えない。
大阪近郊から大阪の中心地ではなく和歌山へこういった店を求めてやってくる客もいるのだろうか。
関東では最近は宇都宮の風俗街か活況だと、以前の職場の同僚と久しぶりに飲んだ時に聞いたから、首都の近郊都市で風俗街が盛り上がる現象があるのかもしれない。

こちらはスナック街
ここも灯はともっているので客はいるのだろう

ホテルにチェックインをする前に、事前に調べておいた、スナック街の中にある丸高中国そばという店に入った。
和歌山ラーメンなるものを食べておきたいと思ったのだ。

店内は先客が2名いただけで空いていた。
メニューを見ると、この店はラーメンだけではなくおでん等も供しているようだ。
店内にはひとり客用のカウンターが2席ほどあるようだが、手狭な厨房スペースを補うためか、カウンター席には巨大なステンレスのパンが置かれていて、スライスする前のチャーシューの塊が置かれていた。

私は店内中央の二人席に座ると、チャーシューメンを注文した。
ほどなくチャーシューメンはやってきた。店内の様子からあまり味は期待していなかったのだが、思いの外、このラーメンは美味かった。

丸高中華そば
チャーシューメン 1,000円

ラーメンを食べ終わると店を出て、スナックやらラブホテルが立ち並び猥雑な街を抜けて、予約したビジネスホテルにチェックインした。
シャワーを浴びてレインウェアを乾かしたりしていたらひどく疲れてしまった。
元々その気もなかったが、雨が降る夜の街に繰り出す気になれず、近くのスーパーで寿司とビールを買って、ホテルの部屋で一人晩酌をした。ラーメンを食べた後にさらに寿司を食べるとは、健康を思うと背徳的だが、旅先ではそれがたまらない快感にも思える。

中トロの寿司を食べたのは久しぶりだった。

ホテルの部屋で一人晩酌

旅は明日以降も続くが、今回の足利直冬紀行はこれでおしまいとなる。
翌日以降の旅行記は、以下のリンク先にあるので、こちらも参照いただけると幸い。

さいごに

直冬はこの紀伊遠征にて、瀬野精一郎著の「足利直冬」でいうところの「南朝の軍勢を破り、大きな戦功を立てた」とあるが、具体的にどのような成果があったのかがわからない。
有名な武将の首を取ったわけではなさそうだし、もちろんだが、南朝を降伏させたわけでもない。
ただ、時間が進むごとに戦場が南へと移っているから、戦況は直冬率いる北朝側が優勢で、南朝軍を確実に追い詰めて戦力を減らしただろうとは想像できる。

とはいえ、直冬が立てたこの戦功の曖昧さは、南北朝の対立が対称的ではないことを表している。

具体的には、北朝が南朝に勝利するには、いくら戦に勝利して、大将首をとっても、仮に南朝の天皇を討ち取ったとしても、それで北朝の勝利とはならない。
南朝はすでに崩御している後醍醐天皇の流れで天皇親政、公家中心の政策をとっているから、当時最も力を持っていた武家の支持は得にくい。しかし、南朝の政策が武家にとってどんなに都合の悪いものだとしても、武家同士の領地争いがあれば、片方が北朝側についていれば、もう片方は対抗するために南朝側に付く可能性が高い。
であれば、もちろん限度はあるだろうが、南朝はいくら北朝との戦に敗れて戦力がすり減って武将が討ち取られても、いくらでも南朝を支持する代わりの武家があらわれるので、そう簡単に南朝の完全な敗北とはならない。
南朝は南朝自身が屈服しないかぎり、いくらでも争いを継続できる立場にある。言い換えれば、北朝は南朝を降伏させるか和睦を成立させない限り、勝利とはならないのだ。
この紀伊遠征で南朝を降伏させられなかった直冬は勝利とはいえないかもしれないが、この時の南朝の有力武将といえば楠木正成の息子の楠木正義と北畠顕家の父親の北畠親房くらいしかいないのだから、彼らを討ち取るのも大局的にはあまり重要とは思えない。
さらに、敵対しているとはいえ南朝の天皇をうっかり殺してしまえば、逆に北朝は支持を失う可能性すらある。逃げる南朝軍を追い詰め過ぎて(当時の南朝の三種の神器は偽物の可能性が高いが)三種の神器を紛失すれば、さらに厄介な事態になる。
大過なくさしあたりの南朝の勢力を弱めたという点で、直冬は決定打ではないにせよある程度の成果は出せたといえる。

一方で、南朝としてみれば、北朝に勝つには足利尊氏一人の首を討ち取れば南朝の勝利となる可能性が高い。
なぜなら、当時の北朝の足利政権はまだまだ足利尊氏個人のカリスマ性で成り立っていたからだ。
足利尊氏が戦で討ち取らて首が晒される事態になれば、北朝を支持していた武家たちが一気に離反する可能性が高い。北朝はいくら戦局を有利に進めても、尊氏一人の首がとられるだけで全てがひっくり返る危うい状態であるともいえる。
おまけに、当時は北朝である足利政権の中核を担っている高師直と足利直義が爆発寸前の反目状態にあり、足利尊氏を支える屋台骨もぐらついている。

つまり、北朝は南朝の心が折れるまでずっと戦い続けなければならないのに対して、南朝は北朝トップの足利尊氏さえ討ち取れば勝利となる。
この違いは、北朝が足利尊氏個人のカリスマ性を支持基盤にしているのに対し、南朝は天皇という長年築き上げたブランドを支持基盤にしている違いである。
もちろん、時間が経つごとに北朝側は政権運営を安定化させて武家の支持は固くなっていくから、足利尊氏一人を討ち取れば南朝が勝利というわけにはいかなくなる時期もいずれはやってくるのだが、この1348年の段階では、まだそこまで北朝の支持基盤固めが進んでいたとは思えない。

このように考えると、当時の戦局的には北朝が大きく優勢であったとはいえ、政治的には南朝の方が有利であったという見方もできるだろう。

これは、今後の直冬の行動を追うのに留意しておきたい。


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