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「自分探しの旅」というクッソこっぱずかしい言葉について考えてみた

昨年の秋からしょっちゅう国内旅行をするようになり、noteに自分でもあまり上手いと思えない旅行記をアップするようになった。
若い頃はインドに一人で三カ月近く旅行をした。
それ以外にも、バイクであちこちを訪問しているし、登山で関東近郊から八ヶ岳や北アルプス周辺の山に登ったりもする。

これらは、ほとんど全て一人旅である。
これは、世間一般的に言っても、私は一人旅が好きなのだろうと思う。

こういった経験は良い話のネタになるので、飲み会などで話題につまると口走ることもあるのだけれど、そんな自分の姿を冷静に他人目線でみると、私は「いい歳して自分探しの旅をしているイタイおっさん」かもしれないと思うようになった。

もちろん、私自身は「自分探し」のために旅をしようと思ったことも無ければ、そもそも「自分を探さなきゃ」と思った経験もない。
旅先で新たな自分の趣向や感覚に気付かされる経験はあるけれども、これは「自分を探して見つかった」わけではなく、旅先という非日常的な環境で新たな気付きがあっただけのものだと思っている。
しかし、一人旅の経験が無い人や、一人旅の面白さが解らない人からすると、「自分探しの旅」なんて恥ずかしいことをしてカッコつけようとしているのではと、偏見の目で私を見ているのかもしれないし、「自分探しの旅」をしている人から見ても、私は彼らの同胞だと思われるかもしれない。

とはいえ、一人旅をしていると「自分探しの旅」という言葉が、へばりつくように気になっているのも、正直な心情ではある。
「一人旅をしている自分」や「自分を探そうとしている自分」に酔っていないか、カッコつけようとしていないかと心の中で自答が始まることも、稀によくある。

つまり、「自分探しの旅」という言葉は、大変に恥ずかしくもありながら、どこか気になる魅力的な言葉なのだが、この言葉の恥ずかしさも魅力も、その正体がわからないままにしているように思えた。

それであればこの際、きちんと「自分探しの旅」という言葉について、考えてようというのがこの記事の趣旨だ。


「自分探しの旅」の起源

そもそも、「自分探しの旅」なんて恥ずかしい表現は誰が言い出したのか。

冷静に考えれば「自分探しの旅」というのは何も表せてない、曖昧でいい加減な言葉だが、すでに長い間、日本では継続して広く知られているのだから、初めてこの言葉が世間に出た際は、衝撃をもって世間から迎え入れられただろうと思われたのだが、調べてみると起源がはっきりしない。

米国の「ルーツ」というドラマが起源だという説があった。
この「ルーツ」というドラマは、黒人奴隷であった自分の先祖であるクンタ・キンテから始まる三代の軌跡を追うドラマであり、「自分探しの旅」ではなく、厳密には「自分(の祖先の軌跡)探しの旅」である。

しかし、実際に「自分探しの旅」を公言して実践してしまっている人というのは、自分の祖先や先祖を調べる旅をもって、「自分探しの旅」としてはいないだろう。
それであれば、どうせならこのドラマの題名も拝借して「先祖のルーツを探る旅」とでも言えばよいからである。

あらためて「自分探しの旅 起源」でググってみたものの、やはり明確な起源の記録はないようだ。
もちろん誰かが言い出したのは間違いないのだろうが、パッと一気に広がったのではなく、じわじわと世間に浸透し、次第に誰もが知り、そして安易に使われる言葉になったのだろう。

「自分探しの旅」が指す言葉の意味

どうやら起源を見つけられそうにはないなので、まずは今ある「自分探しの旅」という言葉を、もう少しきちんと分析していきたい。

まず、前半の「自分探し」であるが、これは「自分」と「探す」という二つの言葉の組み合わせである。
では、「自分」と「探す」の言葉の意味を改めて確認してみる。

反射代名詞その人自身。おのれ。「—を省みる」「—の出る幕はない」「君は—でそう言った

一人称人代名詞。われ。わたくし。「—がうかがいます

[補説] 江戸時代、「御自分」の形で二人称人代名詞としても用いられた。現代では「自分、昼飯すませたか」のように、大阪方言会話で、自分と同等の者に対す親しみを表す二人称として用いられることがある

「自分」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

[動サ五(四)]見つけ出そうとして方々見たり、歩きまわったり、人に聞いたりする。尋ね求める。「職を—・す」「落とし主を—・す」「あらを—・す」

[可能] さがせる

[補説] ふつう、見えなくなったものをさがす場合には「捜」、欲しいものをさがす場合には「探」を用いる。

「探す」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

「自分」の意味は自明であるから、「その人自身」という説明で言い換えても新たな発見は無いように思える。
意味は自明だが「自分探しの旅」の中での「自分」は、「探す」や「旅」の行動主体を示しているだろう。

「探す」について「見つけ出そうとして歩き回る」の意味はよいが、「人に聞いたりする」「尋ね求める」も「探す」の意味に入るのは、改めて考える余地がある。
「探す」には「隠れていたり場所がわからないものを、目に見えるように見つけ出す」という意味の他に、「あらを探す」という用例もある通り、適切な意味なり特徴なり表現なりを見つける意味もある。
難しい表現をすれば、探す対象は形而下だけではなく形而上のモノであってもよいのだ。

これは、「自分探しの旅」が恥ずかしいとする理由の中で、以下のような誤解で恥ずかしい理由を解決する。
「自分探しの旅」を恥ずかしいものとしている理由の一つに、「自分は既にそこにあり、旅に出て見つけるものではない」というものがある。

この指摘は、探す対象の「自分」が、形而下の物理的に存在している自分を探すという意味に限定すればその通りだが、「自分の特徴を探す」「自分の性格を探す」「自分の将来の希望を探す」など、探す対象を形而上のものとするのであれば、「自分の何を?」が抜けているだけでおかしい表現ではない。
例えば、ある人が「自分探しの旅」と言ったとき、その人は「自分の好きなものを探す旅」を略しただけの表現として発言し、それで相手に意味が伝わればよいのだ。
改めて、「探す」という言葉は、探す対象をこのような形而上のモノとして構わないのは確認しておきたい。

それでは「旅」という言葉はどうだろう。

住んでいる所離れて、よその土地訪ねること。旅行。「かわいい子には—をさせよ」

日々—にして—を(すみか)とす」〈奥の細道

自宅離れて臨時他所にいること。

「あるやうありて、しばし、—なる所にあるに」〈かげろふ・上〉

[下接語] 御(お)旅・帰らぬ旅神の旅死出の旅長旅・俄(にわか)旅・一人旅船旅・股(また)旅・宿無し

「旅(びた)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

「住んでいる場所をはなれて、よその土地を訪ねること」は、まさに「旅」と聞いて想像する行動を具体的かつ簡潔に表現しているだろう。
一方で、「自宅を離れて臨時に他所にいること」は、どうにも「旅」の説明としてしっくりこない。
とはいえ、旅とは言っても、滞在型の旅というのもあるだろう。
一方で、「訪ねる」という言葉は移動が伴う表現であるから、移動した結果長期間そこに滞在する状態を含めて全てを「旅」とするのであれば、このように表現するしかないのだろう。

いずれにせよ「旅」には、自宅なり住んでいる場所からの移動が伴う行動なり状態であるだろう。

一方で、「旅」という言葉には、現代の仏教界隈で特に多いように思えるのだが、思考的な探求を「旅」と表現する事例がある。
普段とは異なる重要な思考的な活動を、そこに空間的な移動を伴わないとしても、比喩的に「旅」と表現するわけだ。
これはキザな表現で、使い方と使う場所を間違えると、確かに興ざめでカッコ悪い。

「自分探しの旅」という言葉の恥ずかしさを分類する

「自分探しの旅」を分解して、「自分」「探す」「旅」のそれぞれの言葉の意味について調べてみると、そのカッコ悪さや、恥ずかしいと思われている誤解が少しだけ見えてきた。

それでは、あらためて「自分探しの旅」はどうしてカッコ悪くて恥ずかしいのか、この言葉を発すると恥ずかしいのかを、考えていきたい。

まず、恥ずかしい言葉を発するとは、どういう場合に起こるだろうか。
一般的に、以下のようなケースが「恥ずかしい」あるいは「カッコ悪い」発言と思われる。

  1. 本来は我慢するべき自分の欲求に忠実過ぎる発言をする

  2. TPOをわきまえなかったりマナーから外れた発言をする

  3. 聞き手の心情や知識や背景を理解しない発言をする

  4. 自分の力量や立場をわきまえずに、自分をより高く大きく見せようとする発言をする

それでは「自分探しの旅」とは上記の4つのうち、どれに当てはまるだろうか。

1. 本来は我慢するべき自分の欲求に忠実過ぎる発言をする

たしかに、「自分探しの旅をしてきます」と誰かが言い出したら、「自分を探したい」「旅をしたい」という欲求を抑えられないが故に言い出したのに違いはない。
しかし、「自分を探したい」も「旅をしたい」も、いずれも「本来は我慢をするべき欲求」であるケースはほとんどないだろう。
刑務所の中で暮らす囚人でもなければ、余暇で自分の身銭を切って旅をする分には本人の自由であるし、「自分の何を」という点が抜けているが「自分を探したい」という欲求自体は、誰でも好きにすれば良いだろう。
例えば、貯金も全くなく収入も乏しい人間が、欲求に逆らえずに消費者金融に金を借りて長距離海外路線のファーストクラスで旅行をしたら、この分類にあてはまるかもしれないが、これは「自分探しの旅」という言葉そのものの恥ずかしさとは別の問題だろう。

2. TPOをわきまえなかったりマナーから外れた発言をする

これは、発言する場所や集団を限定している点で、一般的な恥ずかしい言葉には当てはまらないだろう。
「自分探しの旅」はある特定の場所や集団で発すると、恥ずかしくなるような言葉ではない。
逆に、静かにしなければならない上映中の映画館館内で「自分探しの旅をしてー!」と突然叫べば恥ずかしいだろうが、これは別の言葉を叫んだって恥ずかしい。

3. 聞き手の心情や知識や背景を理解しない発言をする

これも、発言に対する聞き手を限定しているから、やはり「自分探しの旅」の恥ずかしさとは異なる。
「自分探しの旅」という言葉の恥ずかしさは聞き手を選ばない、一般的な恥ずかしさであるからだ。
「俺、これから自分探しの旅に出るんだ」なんて言えば、大抵の場合は相当に恥ずかしい。
例えば、仏教の説法で「自分探しの旅」という表現を僧侶が信者に使ったとしても、これは恥ずかしくないのかもしれないが、これは説法の前後の文脈も読み取らないといけないだろうし、やはり特殊な例外と考えるべきだろう。

4. 自分の力量や立場をわきまえずに、自分をより高く大きく見せようとする発言

このように考えると「自分探しの旅」は、消去法的に「4. 自分の力量や立場をわきまえずに、自分をより高く大きく見せようとする発言をする」による恥ずかしさに分類されると思われる。

「自分探しの旅」には、世間で共有されているカッコ悪さはあるが、厨二病的なカッコ良さもある。
ただ単にカッコ悪いだけではない。
むしろ、カッコ良いからこそカッコ悪くもあるのだ。

カッコ良い言葉だからこそ「自分探しの旅」を安易に使った顛末が失敗してしまい、カッコ悪くなる。言葉を使うだけならば簡単だが、カッコ良く使うのは非常に難しい。
であれば、「自分探しの旅」がどこかで恥ずかしい言葉に変容してしまった、経緯があるはずだ。

「自分探しの旅」はカッコ良かった時代の後に、カッコ悪くて恥ずかしい時代が訪れたのかもしれない。
あるいはカッコ良さとカッコ悪さが、今でも共存しているのだろう。

中田英寿の「自分探しの旅」から考える

それでは、「自分探しの旅」のカッコ良さとカッコ悪さの正体とは、何なのだろうか。

「自分探しの旅」という言葉で思いつく人物に、元サッカー選手の中田英寿がいる。

彼は2006年でサッカー選手を引退した後、一人旅に出た。
その際に「自分探しの旅」とストレートに言ったわけではないが、似たような発言をしていたようなイメージを持っているのは、私だけではないはずだ。
こうして旅に出た中田英寿の発言を機に、世間で「自分探しの旅」という言葉が、本格的に恥ずかしい言葉になったようにも思えるが、では、当の中田英寿は恥ずかしかったのだろうか。カッコ悪かったのだろうか。

その後の中田英寿は、世界中を旅した後に国内も長い年月をかけて旅をした。
そして、その経験を生かしたビジネスを興したり、コンテンツ発信をしている。
これはおおむね成功しているようで、このように成果を出しているのであれば、あまりカッコ悪いとも言えないし、恥ずかしくもないように思える。

では、中田英寿のように「自分探しの旅」をした結果、何かしらの成果を形として出せば、カッコ良いとして良いのか。
これは一つの判断材料なのかもしれないが、正鵠を得た回答かと言われると少し違うようにも思える。
たしかに「自分探しの旅」をした結果や経験で、ビジネスを興したりコンテンツを発信したりしてそれが成功すれば、それはカッコ良くて素晴らしいものには違いないだろうけど、それでは成果を出せない「自分探しの旅」は全てカッコ悪いとなる。

中田英寿には有名サッカー選手という元々の知名度があったし、旅の経験を事業や発信に生かせる知性もあった。
そういう人しか「自分探しの旅」をしてはいけないのか、そうではない人がする「自分探しの旅」はカッコ悪いのかというと、それもまた違うように思える。
そもそも中田英寿だって、引退後の成功には運の要素が多分にあっただろうし、「自分探しの旅」から帰ってきた結果、大成せずに埋もれてしまった可能性も十分にあったはずだ。
同じように考えて同じように旅をしても、その後の結果次第でカッコ良さと悪さに違いが出るのであれば、「自分探しの旅」にこれから出ようとしている人には、そもそもカッコ悪さも良さも無いはずである。
旅に実際に行って帰ってきた後の結果が全てだとすれば、それに着手しようとしている時点でのカッコ悪さや恥ずかしさは決まらないはずだからだ。

すると、もっと違う理由で「自分探しの旅」には、カッコ良さとカッコ悪さがあるはずだ。

やはり「自分探しの旅」は旅をした後の成果ではなく、別の要素でカッコ良さも悪さも決まってしまうようだ。
思えば、中田英寿だって旅に出ると言い出した時には、私だけでなく世間の大方も冷ややかな反応だったと思える。
すでにサッカー選手としての実績が十分にある中田英寿であるから、面と向かって言う人はいなかったが、当時としては一般人が同じ発言をすれば、相当に恥ずかしい発言だったのに違いない。

とはいえ、すでに成功者の中田英寿は自分をカッコよく見せたくて「自分探しの旅」なんて言う必要は全くなかったはずだ。

だからこそ、誰も中田英寿に面と向かって恥ずかしい発言だとは言えなかっただろう。
とはいえ、中田英寿の発言は、「自分探しの旅」を自分でも言ってみたくなった人以外にとっては、どうにもしっくりこない言葉で、不満と不安が湧き上がる言葉であったように思える。
旅に出る中田英寿の言葉には、そんな力があった。

では、中田英寿という当時の日本のトップサッカー選手の影響力が故に、彼が発した「自分探しの旅」という言葉が、カッコ良くも悪くもなったのだろうか。
すでに中田英寿が旅に出てから18年が経っている。
もし有名人の発言によるものであれば、賛否のいずれであっても、それは一時的なブームにはなれど、それは長く続かなかっただろう。
しかし、今でも「自分探しの旅」なんて言い出す人はいるし、その言葉の恥ずかしさもある。

そもそも、今では「自分探しの旅」という言葉で中田英寿を連想する人自体が少ないだろうから、「自分探しの旅」のカッコ良さとカッコ悪さに、中田英寿自体の影響はほとんどないように思える。

では、別の原因を探る必要がある。

「自分探しの旅」のカッコ良さとカッコ悪さの境界

では「自分探しの旅」をカッコ良くするものと、カッコ悪くしてしまうものの正体は何であろうか。

結論を挙げてしまえば「具体的な事象から抽象的か比喩的な表現をできたらカッコ良い」で「抽象表現を具体的事象を結び付けられずに使ったらカッコ悪い」である。

具体的な事象から抽象的か比喩的な表現をできたらカッコ良い

そもそも、「自分探しの旅」はどのような人間がどのような心情である時に、どのようなことを思い付き実行したいと思うだろうか。

  • 無為に大学まで進学した学生が、このまま周囲に流されたまま就職して結婚するだけの人生で良いのか疑問に思ったので、行ったことのない国を訪れで見聞を広めたいし、見知らぬ土地での苦労を経験したい

  • 失恋をした人が、家にいても気分が落ち込むばかりだし、今後、新たな恋人を見つけるのも一人で生きるのも踏ん切りがつかないので、旅に出て気分を変えて今後どうするかも決めたい

  • 仕事で挫折をしたので、このまま惰性で今の会社で今の仕事を続けてよいものか、一念発起して転職なり業種を変えるなりをするか、どちらがよいか決断をするのに、旅をしながら考えたい

  • アーリーリタイアをして時間も財力も余裕があるけど、このまま無為の余生を過ごすつもりはないので、次に何をするかを考えるのに、新たな見聞や知見を得るために旅をしたい

私が思いつく限りで挙げてみた以上の四例は、どれも背景も事情も全く異なるものだが、これらはすべて「自分探しの旅」と表現して差し支えない。

例えば、一番上の例であれば、将来への漠然とした不安を抱えている仲間同士で、誰かが「俺、このままじゃ不安だから、行ったことのない国を訪れで見聞を広めたいんだ」と言っても良いが、これを「俺、自分探しの旅に出るよ」と言う状況はあまり不自然ではない。
二番目の失恋でも、「私、彼に振られちゃったし、これからどうすればわからないから、ちょっと旅に出て、これから先、別の恋人を見つけるか、しばらく一人で暮らすか考えてくるわ」と言うところを、「私、自分探しの旅に行ってくるわ」と言っても、前者の意図も伝わるだろう。

これらは、相手に伝わる内容や意図は同じであるが、後者の方がその表現を簡潔にまとめ上げている点が異なる。
そして、同じ内容を相手に伝えるのであれば、短く簡潔にまとめて意図を表現できる方が、知的で頭が良いように相手は捉える。

つまり、詳しい事情や背景や思いなどを、短く簡潔な言葉で言い表せたときに、それはカッコ良くなるし、その表現が様々な場面でも適用できる表現、すなわち抽象的であれば、さらにカッコ良さは増す。
ついでに、比喩表現も含めれば風流で文学的にもなるだろう。

短い言葉に深い意味を込めるには、語彙力と聞き手と共有している文脈の理解がいる。
そして、語彙力にも文脈も理解にも相当な知性が要求される。
IQテストが無かった時代の人物のIQを測るのは、残された文献や手紙などの単語の数から推測するそうだ。
自在に使える言葉が多いほど、ほぼ比例して頭が良いのだ。
現代では、身体の丈夫さや力の強さより、頭の良さが生存能力の高さや、社会での成功につながるスキルと認識されているから、頭の良さはカッコ良さに直結する。

複雑な事象を、簡潔かつ余すことなく表現できるのは、カッコ良いのだ。

そして簡潔かつ的確な表現というのは、自然と抽象的な表現になる。
つまり、抽象的な言葉はカッコ良い。

「自分探しの旅」で自分の「何を」探すのかは省かれているが、これは表現にその情報を含まなくても相手に伝わる土壌ができているからだ。
少ない情報量で相手に意図を伝えるには、その表現は、様々な具体的な事象に適用できる表現になっていく。
すなわち、抽象的な表現だ。

抽象的な表現でこぼれた情報は、話し手と聞き手の相互に共有している文脈が補完する。
話し手は、聞き手と具体的に何を共有しているかを知ったいるから、短くても的確な表現ができる。

抽象表現を具体的事象を結び付けられずに使ったらカッコ悪い

では、「自分探しの旅」という言葉を使うとカッコ悪くてクッソこっばずかしいのは、なぜだろう。

「自分探しの旅」のカッコ悪さは聞き手の心情や知識や背景を理解しない発言をするからではないと述べたが、「自分探しの旅」のカッコ良さが少ない情報量で相手に正確な意図を伝えられた点にあれば、相手に意図を伝えられなかった時にカッコ悪くなるように思えるが、再度繰り返すが「自分探しの旅」のカッコ悪さは特定の状況に限定したものではない。

では、本当の理由は何か。
それは、「自分探しの旅」という表現を使ったカッコ良さだけを、真似ようとしたからだ。

上記の四例はいずれも、「現在の自分の状況」を分析したうえで、「何のために旅に出るのか」という旅の目的を決めている。
その結果を「自分探しの旅」という、きわめて短く曖昧で抽象的な表現で説明している。
しかし「自分探しの旅」という表現自体には、旅に至る分析結果も旅の目的も、具体的な情報は全くない。それは、話し手と聞き手で共有されていたからで、いちいち言葉に含める必要が無かったからだ。
彼らは「自分探しの旅」をしたいのではなく、それぞれの自分が旅をする背景や目的を「自分探しの旅」と表現したに過ぎない。

「自分探しの旅」という言葉はカッコ良い、むしろカッコ良すぎるので、その言葉を聞いた人の中には「自分探しの旅」をしたくなる人が現れる。
いきおい、「自分探しの旅」を他人にもアピールしたがる。

しかし、「自分探しの旅」という言葉自体には何の意味も無い。せいぜい、旅であることは表現できているが、「自分探し」については、自分の何を探すのか、なぜ探すのか、どうやって探すのかという情報が抜け落ちている。
「自分探しの旅」を自らの言葉で表現した人にとっては、それらは当然言葉に出さないだけで決めているが、「自分探しの旅」をしたい人にはそれらを決められない。
そして、それらのいずれも決めないまま旅をしてしまうから、中身は空っぽになる。だって、そもそも何も決めていなかったのだから。

カッコつけたつもりで旅に出て、実態は空っぽの旅をしたら、それはカッコ悪い。

言葉にとらわれる危険性

上で中田英寿を挙げたので、旅について中田英寿のインタビュー記事を貼っておきたい。

実際の中田英寿は、「自分探しの旅」なんて曖昧で抽象的な表現を使っていない。
とはいえ当初は具体的なテーマを決めずに見切り発車的ではあったようで、旅をしながら具体的なテーマを決めたようだ。
それでも「自分探しの旅」なんていい表現はせず、これまでの自分の人生と、これからの目標定義はしている。
サッカーで成功したのに、リタイア後もサッカーに執着しなかったのは、やはり天才故か。

「自分探しの旅」が恥ずかしくなるのは、自分に合わせた具体的な意味に落とし込めずに、抽象的な言葉を使うカッコ良さだけを真似てしまう、落語の与太郎のような人間を想定しているからなのだろう。

「自分探しの旅」という言葉には、危険性と魅力がある。

油断をしていると、意味も解らず「自分探しの旅」を始めてしまう、あるいは今の旅を「自分探しの旅」にしてしまう危険が、「自分探しの旅」という言葉にはある。
言い換えると、意味ない旅に「自分探しの旅」というラベルを付けて、カッコ良い俺になった優越感に浸ってしまう危うさがある。

「自分探しの旅」という言葉は、危ういのだ。

「自分探しの旅」という言葉の魅力は、便利さと抽象さにある。
便利な言葉というのは、様々な複雑な事象を包括的に表現するが、個別の事象の詳細は表さない。

システムの中身を説明するのに「管理する」という言葉がよく使われるが、設計書に「管理する」と書いても、具体的なコードは書けない。
「管理する」という言葉は便利で抽象的だから使いやすく、この言葉を使うと格好がついて仕事した気にはなるが、実際には何の成果も出してないなんて事態が、稀によくある。

便利な言葉、抽象的な言葉というのは、便利で抽象的でカッコ良いが故に、その言葉にこだわってとらわれてしまう危険もある。

その時は、具体的な目的や今の自分の認識を、見失っている可能性が高い。

これは、上から目線で語っているのではなく、私の貧しい失敗経験から語っているのだから、多分、間違ってはいないだろう。

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