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56 思っていることを言う

父親に殴られた記憶が2つある(もちろん教育として)。実際にはもっと殴られた気がするんだけど、記憶に残っているのは2つ。1つは僕の筆箱の中が汚くて怒られた時(小学生の時かな)と、もう1つは中学の文化祭の時。今日話したいのは文化祭の時の話。あれは確か中学1年生。

僕のクラスの出し物は演劇で、「新撰組」がテーマの劇だった。僕は沖田総司の役をやることになって、剣道着の様なのを着て、竹刀を腰にくくりつけて、おかっぱ頭の上にハチマキも巻いた(実家に写真が残っている)。

教室の半分に勉強机を全部寄せて、その上をステージにした。壁とステージの間に隙間を作って、演者やスタッフ役は、お客さんに姿を見せないように体を低くしてその隙間を行き来しながら、コソコソ指示を出したり、出番を控えて緊張しながら机の脚の間から客席を覗いたりした。さながら舞台裏のような緊張感。

「新撰組」がそもそも歴史上何をしたのか、恥ずかしながら今でもパッと答えられないのだけど、当時の僕はもっとひどくて、演出がどうとか、内容がどうとか、ほとんどわからないまま、まるで操り人形のような感じでステージに上がっていた。

本番1発目なんか、全然違うタイミングでセリフを言ってしまって、みんなが「いさお、違う違う」と慌てて僕をステージに引っ込めさせた。僕はステージ裏からその後の展開を見て、ようやく自分のタイミングのおかしさに気づいた。僕の言ってしまったセリフはまだ全然あとのセリフだったのだ。

詳しくは覚えていないのだけど、劇は1日に何部かあって、部と部と間には休憩がある。演者やスタッフをやった子たちも、その休憩の間に他のクラスの出し物を見に行ったりしていた。

その休憩の時間に、父親が僕のクラスのところへやって来た。見に来ると聞いていたのか、突然来てびっくりしたのか、その時の印象は覚えていない。だけど、その後のことは覚えている。

あれは廊下の、教室のドアの前。あたりは賑やかで同級生も駆け回ってるし、親御さんも楽しそうにいろんなクラスを見回っている。そんな中で、父親は僕に聞いた。

「お父さんに、劇、見て欲しい?」

他の会話の中でそのセリフだけが印象的だったから覚えているのか、実際に突然それだけを聞かれたのか覚えていないのだけど、確かに僕は父親にそう聞かれたんだ。そして次の瞬間(自分の感覚ではすぐにという感じだけど、実際には少し間があって)、気づくと僕は父親に殴られていた。父は「思っていることを言いなさい!」と怒鳴った。たまたま近くにいた担任の先生が慌てて駆け寄ってくる。

それから、近くの控え室のようなところに先生は僕たちを連れて行ってくれた。通された部屋がなんの部屋だったのか思い出せない。会議室というほど広くないし、物置というほど物で圧迫されるような感覚もない。窓から差し込む光だけの薄暗い部屋。中央に鼠色のひんやりとした鉄のテーブルが一脚。

テーブルの角を挟んで僕と父親は向かい合って座っていた。先生もそばで僕たちを見ていた。

僕は、なぜ殴られたのかわからないでいたけれど、でも、父親が怖いとか、悲しいとか、そういう気持ちではなかったと思う。冬にドアノブを握って浴びる突然の静電気のような、それが少し長引いてるような、そういう驚きの中にいて、でも、その後父親が少し大きな声を出しながら言ったことで意味がわかった。

「思ったことを言わないとダメだよ、いさお!」「劇を見て欲しいのか、見て欲しくないのか、どっちでも良いのか、なんでもいいから思っていることをちゃんと言わないと!」

父親が僕を殴った理由は、気持ちを聞かれても僕が何も言わず黙り込んでいたからだとその時わかった。もう一度聞かれて僕は「見て欲しい」と答えた。それで話は終わりになって、僕はクラスに戻って劇に出た。父親はもちろん見てくれていたと思うんだけど、その記憶はもうない。僕の中に残っているのは、「思っていることはちゃんと言わなきゃダメだ」と怒った父親の言葉だけだ。

大人になった今の今、その時のことを考えている。僕はなぜ思ったことを言えなかったのか、なぜ黙っていることしか出来なかったのか。何を代わりに考えていたのか、あるいは何も考えていなかったのか。

よく思い出してみても、特別何かがあったわけではない。きっと何も考えていなかったのだと思う。何かを思っていたかもしれないけれど、それも微かな思いで、自分の意見というほどのものではなかったと思う。

自分の意見がなくても生きていけるのが、子どもの特権なのかもしれない。それで許してもらえたり、聞く大人側が気持ちをうまく引き出してくれたり。「でも、それじゃあ、ダメなんだよ」と、父は教えたかったのかもしれない。 実際、思っていることを言うことは、大切なことだから。

photo by 江尻心平

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