私を変えたいならお金払ってくれって思うこと

私はADHD傾向があると病院で診断されて、ADHDの処方薬を飲み続け、通院も続けている。
でもそれは私の悪い病気やアイデンティティではないというか、うつ病と一緒で、今後ずっと付き合っていくアレルギーみたいなものだと私は考えている。

自分はADHDだからこうなんだとかこうしてほしい、という主張はあまりするつもりはなくて、私の中でどう向き合っていくか、どう対処していくか、カウンセラーと相談しながら、時に理解ある友達と話しながら、今まで人生で失敗してきたことの要因であったかもしれないと思い返しながら、ただ自分で自分のことをわかる手がかりとしてとらえている。

そして今は検索するといろんな方がADHD傾向への対処法とか、多動への対策、注意散漫への対策をシェアしあったり、経験談だったりを語っていて、そういう情報を簡単に知れる現代社会は本当にありがたいと思っている。

私が自分ですごく苦手だなと思うのが、自己管理と事務処理のような反復作業。
小学校の頃、忘れ物や提出物未提出の居残りに必ず私はいたのだけど、自分ではなぜそうなってしまうのか、忘れないためにどうしたらいいのか、わからなかったし、多くの子が普通にできてたから普通にできることだと思ってた。親に怠慢だと怒られたら自分は怠慢なんだと信じていたし、改善方法なんて考えたこともなかったし、自分が怠慢だと言われた言葉を疑う理由も別になかった。

社会人になって、最初に事務のバイトを経験したとき、上司から、あいさんは同じことをずっと繰り返すタイプじゃなくて、なんかちょっとずつ変えていくよねと言われたことがあった。その時自分のそういう傾向をはじめて意識した。
普通事務員は、同じことを繰り返して安定性の高い人が多かったらしく、私は気分や状況で作業ルールを勝手に変えていたらしく、それがたぶん上司には異質に映ったんだと思う。よく言われていたのは、「センスはいいんだけど細かいところが足りない」という言葉だった。
問題解決能力は高いけど、事務作業の安定性が低くてミスが多かったんだと思う。
逆に顧客対応やトラブルシューティングはあまり苦労せずこなせていた気がする。

自己管理や事務作業の安定性を高めるために、私は上京して就職した一人暮らし期間中に、かなり気を張って仕事をしていたような気がする。それは漫画家になってからもそう。

自分なりに決めていたのは、できないことは断るか、納期をすぎても大丈夫と保証をもらうこと、前提条件が変わったり細かい変更があったら、納期の延長を交渉すること、単純作業は自分でやらず、エクセルの関数や機械にまかせること、自分がミスしないような仕事システムを作ること、などだった。

それでも失敗したこともあるし、迷惑をかけたこともある。そのたびに半泣きでいつもどうしたらよかったか考えて、次は絶対にこうしようね、と自分に話しかけていたことが多かったような気がする。

結婚して夫が生活にいつもいてくれるようになって、その頃ほどの強迫的な努力はいつのまにかしなくなったけど、基本姿勢は変わってないと思う。
私は私ができないことを知っているから、細かく確認するし、気を張るし、スクリプトや自動処理を多用している。

スクリプトや自動処理を多用すると、なんでこんなことを?という部分が細かくなったりする。
このレイヤー名だけは絶対この名前にして大文字小文字も間違えないでくれ、とか、
1pだけ修正して書き出して、元の版も保持しておいてくれ、というリクエストにソフトの仕様上時間がかかると返答しなければならなかったり。

で、案の定そういうなんで?という細かいことが私の仕事には大事だということを、荒い解像度で見てしまう人もいる。
「そんなに他人に細かいことを求めていたら不親切だよ」「そういう振る舞いは、いつか自分に帰ってくるよ」
「たったそれだけのことが、なんですぐできないの?」
「ちょっと手を動かせば済む話じゃん」
みたいな言葉で、大体詰め寄られる。

その人たちの見えている世界では、私が生きるために作りあげてきた自分のなりの生存戦略が「たかがそんなこと」にうつってしまうのかもしれない。

「手を動かした方が早いのに、さぼってる」と思われてしまうのかもしれない。

でも、それってすごく「当たり前にできる自分基準の世界しか見えない人」の意見な気がするんですよね。

「そんな振る舞いをしていたら、自分にいつか返ってくるよ」も、他人から押し付けられるようなことじゃないと思うし、「そんなことしたらバチが当たるよ」と似たような迷信の響きに聞こえてしまう。
自分の価値観で理解できない人を、スピリチュアルで人の意識が及ばないもので行動を変えさせようと脅迫してるように感じてしまう。
ただ、実際に自分の行動を振り替えって、人にいいことをしたいなとか、世界にいいことをしたいなとか、そういう小さな善意がいつか返ってくるといいなという希望はもっていいと思うし、持っていたいと思うけど、それはあくまでも自己満足でするものであって、他人に押し付けたりするものではないと思う。

私は説教しやすく見えるのか、よくそういうことを他人から言われるけど、そういう人と距離をおいてきたら年に1回あるかないかくらいに減ってきたように思う。

病気極まってて人間関係やばかったときは、たぶん毎日のように言われてた気がする…と今さら思い出した。

私は不注意が強くて、それ対策するために自分で色々な方法を試していて、そのためにできることもあるしできないこともある。
うつ病になって、ADHDがわかってよかったのは、そういう自分をうまく社会に適応させるやり方を見つけるしかないし、できない自分にウェットな感情をあまり持たなくなったことな気がする。

私が生きていくために少しずつ身に付けてきた失敗や方法を、他人のスピリチュアルや視野の狭さで変えろと強制されるなんて、意味わかんないしむしろ大金払ってくれって今は思えるようになりました。

ずっとことを荒立てたくなくて、黙ってやり過ごしてはモヤモヤしていたことをはっきりと文章にできて、今はちょっとスッキリ。





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