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「生きる」ことについて考えてみた
Twitterで、中島 智さんの文章を読んだ。
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開かれには引き裂きがともなう。
これと対照にあるのが癒しで、裂けることなく安堵をうるための避難所である。
そこでは「これでいいのだ」と、現況がレトリカルに肯定される。それは開かれの心境とも混同されやすいのだが、開かれというのは「このままではいられないのだ」というリスキーな欲動である。
やらかしたことの後悔を越えるには、省察/内観しかなく、やっていないことへの不安を越えるのは、推察/達観しかない。無かったことにしたり、見なかったことにすると、むしろそこに滞留してしまう。
これがわからないと、後悔も不安もギフトにはならず、たんにネガティブな感情として一義化してしまう。
https://twitter.com/nakashima001/status/1648009662552510464?s=21
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私が人生に対して求めてきた「安全な状態であるのではなく常に刺激的であること」の、「刺激」の正体は「開かれにともなう引き裂き」だったんだという発見。
それと、「このままではいられないのだというリスキーな欲動」は私の生きる衝動にも制作の衝動にも通ずる。
私はこの衝動を「生きる」という行為に意味づけていて、自分の全ての行為(生活も、制作も、仕事も)においてその意味に紐づけたいと思っている。
藝大を卒業すると進路として「作家」を目指すの?「会社員」になるの?と問われるけど、
別に「作家」も「会社員」も「何も」目指していない。
あえて肩書きという認識に当てはめて仕事という言い方をすると、「生きる」ことが仕事みたいな生き方をしたい。
中島さんの言葉にはいつも、意識になっていない感覚を、意識として認識するきっかけをいただく。
そんなことを考えながら、初めてのひとり旅大阪へ向かっています。
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