ある学生の小説が気になっている件
大学の研究室で働くようになって、約半年が過ぎた。
そろそろ有給休暇も取得できる頃合いだが、フリーランスで働いていた昨年と違って、何かを読む機会が圧倒的に増えたと感じる。
例えば、2年次の必修授業『制作Ⅱ』では10分の短編脚本を6班分、初稿から決定稿まで。3年次,4年次のそれぞれ中編・長編の脚本も、合わせて10本以上。
学生だけでなく、映像学科に協力を求める卒業生の企画書や脚本や、インターンを求める商業映画の企画書や脚本も10本程度、同僚が参加する、もしくは制作する企画書や脚本も相当数読んだ。
また、教授陣が執筆した書籍や記事、大学に送られてくる映画雑誌、批評本、それに付随して、勤務中の合間を縫って読む小説や映画本など、これらも毎週毎週相当数読んだ。
今回は、そんな中で最近特に気になっている小説について、書いてみたくなった。ちなみに、先日読んだツチヤタカユキの「笑いのカイブツ」という小説も面白かったので、ぜひ読んでみて欲しい。
表題の件
その小説、実はまだ読んでいない。否、正確には、15ページの途中でやめた。それ以上は興味が続かなかった。こう書くと、これから見るも無惨な酷評文が続くように感じるが、そうではない。改めて読み返してみたい、と思うのだ。
説明しておくと、この小説は、大阪芸術大学映像学科に通う一年生の女の子が書いたものだ。入学早々に、小説を書いたから読んでほしい、と研究室に持ってきたのが始まりだ。
映像学科に来たのに、いきなり小説?と、やや疑問符がつく状況だったが、研究室の同僚が読んでいるところをチラッと見させてもらった記憶がある。その時持ってきた小説も、私に持ってきたわけではなかったので、結局最初から最後まで読むということはしなかった。
同僚の中には、独特の言い回しを珍しがるものもいたが、比喩表現が多過ぎたり、比喩の中に比喩があったり、一筆書きと思われる文章の割に、構成の散漫さと杜撰さが見られた。
つまるところ、素人の文章だった。
あらかじめの構成をしないにしても、書き上げた後の改稿は必要であること、まずはそれをやってよ、という感想だった。
それが、次に持ってきた作品で一気に真逆の感想となる。
小説の掴みは一文目にある
小説というのは、一文目に恋しなければ、先を読む気になれない。
私は文学の専門家でもない、ただの読者だ。ただ、そう感じる人間は多くいるようで、例えば、よく引き合いに出される「吾輩は猫である」という書き出し。これには、吾輩という特徴的な一人称が使われている。明治とはいえ、そんな一人称はほとんどいないだろう。そして、その後に来るのが、猫という情報だ。「一体どういうことだ?」と思わせたのも束の間、「名前はまだない」とくる。先が気になって仕方なくなるのだ。
私が大好きな作家、中村文則の銃を例に取る。
「昨日、私は拳銃を拾った」で始まる一文目。拾うはずのないものを拾った主人公、その次に、「あるいは盗んだのかもしれないが、私にはよくわからない」とくる。「一体どういうことだ?」と感じずにはいられない。
普通に考えて、拾ったのか、盗んだのか、そんな判断がつかないわけがない。しかも、私にはよくわからないとくる。何もわからないのだ。ただ、銃を持っているという情報以外、この主人公が正気なのかさえわからない。
『銃』に対して、三島由紀夫を引き合いに出し、同工異曲だと批判の嵐だった次作『遮光』に対しても、肩入れが半端なかった小説家・古井由吉は、「銃」の書き出しに、ピンポイントで指摘を入れている。
ま、古井由吉が中村文則をどう捉えた、とか、そんなことはどうでもいいのだけれど、とにかく、作家にとっても、読者にとっても、批評を加える側にとっても、「一文目」というのは、最も力を込めるところなのだ。
だから、小説というのは、一文目に恋しなければ、先を読む気になれない。
本題に戻る
例の女の子(ここでは田村とする)は、ほんの4ヶ月後に新作を持ってきた。ページ数的には120ページ程度のもので、聞くに、自分自身の体験を描いたそうだ。実際に主人公の名前は、本人の名前だったし、おそらくその周縁の人間も、本名のまま書いていただろう。つまるところ、私小説だ。
もうずっと小説を書き続けているようで、かなりの多作だった。執筆スピードもさることながら、どんどん生活を吸収していってるのが分かる文章だった。
特にそれを感じる書き出しは、「私は、中出しをされた」だった。そして、「もうそう言い切ることにしている」とくる。
華奢な体型、笑顔に幼さの残る、ほとんど中学生のような見た目の田村さんが、自身の体験を描いた小説だ、と渡してきた小説の一文目、それがこの文章というのは、なかなかにセンセーショナルだった。
何より、この「中出し」という言葉に「された」という言葉が繋がると、圧倒的な倫理と禁忌を感じる。
私は、この一文目に光るものを感じずにはいられなかったのだが、問題は二文目にあった。てっきり、私はこの「中出し」というものに、何らかの強烈なメタファーや切実さを込めていると思ったのだが、以降には、すぐさまその状況の説明が入った。
一文目の意味不明さが、すぐに解決してしまっていたのだ。
大問題である。
それでも私の手を15ページ進ませたのは、一文目のときめきが残っていたからである。ここでいう「私」というのは、何も堂ノ本敬太という意味ではない。「作家に対して、なんの興味も抱いていない、あるいは前作ですでに興味を失っている読者」という意味だ。そんな人間の手を、15回も進ませたのは、すごいことだと思う。
感想を聞きにきた田村さんに対して、私は率直にこのことを伝えた。伝わったのかはわからないが、彼女は丁寧にお辞儀した。
数週間経って
それから時間が過ぎて、驚いたのは、いまだに寝る前や、ふとした時に、その一文目を思い出すことだ。
「もし最後まで読んでいたら、どんな物語だったのだろうか」
と感じずにはいられなかった。
日々の忙殺の最中、全くの他者にこんなことを感じさせるのは、突出した才能と言えるのではないか、もしかすると、あの小説の、自分が読んだ文以降で、何か切実なものがるのではないか、なぜ読まなかったんだ、なぜやめたんだ、と考えてしまった。
そして、その一抹の期待感は、夜中に田村さんと親しい同僚に、「読み直したいからデータを送ってくれ」と、私を行動させた。
今日の夜、それを読む。
驚くのは、私がそれを楽しみに感じていることだ。
面白くても、面白くなくても、私が彼女の文章を数週間も記憶に留め、その上、行動したのは事実で、それはおそらく、彼女にとっては大きなことだと感じる。必ず読み切って、全て含めて感想を伝えたいと思う。
もしかすると、文壇にセンセーショナルな旋風を巻き起こすやもしれないし、そうでもないかもしれない。今のところは、ただの素人、そんな人間だ。
けれど、私はそれにドキドキするのだ。
芸術大学は、河原だ。河原の中で何かが光ったと感じたなら、探さなくてはいけない。それを見つけた時の感動は、宝石屋で宝石を買うことよりも素晴らしいのだから。
ふと、最後の一文が気になった。先に読んでみた。
「いさせてください」
私の期待は、もしかすると、もしかするかもしれない。
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