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子供のころに聞いた戦中戦後の話 壱話

ずいぶん以前に書いたノート、ちょっと編集して再出発。

子供のころに聞いた戦中戦後の話
「子供のころに聞いた戦争の話」を右や左のダンナ様向けでなく親類縁者・仕事関係の戦争経験者から聞いた話を思い出すまま書いてみるかと思います、戦中戦後を市井で生きた人のお話しですのでドラマティックな話はありませんがとりあえずはじめてみることにします、なるべくフィクションは入れぬつもりですが記憶があいまいな部分もありますのできついツッコミは勘弁していただければ幸いでございます。

第壱話 〜リアル火垂るの墓〜 昭和50年ごろに母から聞いた話

我が家は祖父が起こした小さな廃品回収業を営んでおります、それでも戦後の混乱期から高度成長期ごろまではけっこうな羽振りで30人ぐらいの人が働いていたそうで、戦後に焼け出された人が中心だったそうです。
昭和50年ころにはそれらの人もほとんどおりませんでしたが、40くらいのおっちゃんと60くらいの傷痍軍人のおっちゃん二人を強烈に覚えております、40くらいのおっちゃんは祖父のことをおやじと呼んでおりましたがとくに親戚でもなくただの従業員扱いでしたが奥さんも住んでる家も祖父があてがったそうなので何か関係があるのだろうくらいには思っておりましたがふとしたきっかけでおっちゃんのことを母から聞くことになりました。

戦後すぐ昭和21年ごろのある日、祖父が仕事帰りに4歳くらいの子供を連れ帰りました。聞けば神戸駅の前で行きだおれ寸前、なにかかわいそうになって連れ帰ったそうです映画、火垂るの墓の冒頭のシーンですね「戦争孤児となった清太が餓死するシーン」母曰く当時の神戸駅の周りにはたくさんの行きだおれがおり、日が暮れるとかなり怖かったとのことでした。
まだ4歳くらいですから名前は言えますが親の名前や住んでいたところは聞き出せず、祖父はその子のために戸籍を作り、育てることにしました。といっても面倒をみるのは祖母・母で、忙しいのにめんどくさかったとは言っていましたが。
小さいうちは子守として10歳ころには工場の仕事、中学を出ると鳶の親方に弟子入り、のちにうちの会社に戻りきつい仕事をメインに朝から晩までそりゃあ懸命に働いてました。よく働くところは清太とは真逆ですな。

仕事はよくできるが字を読むのは危ない、書くのはもっと危ない、車もリフトも運転はめっちゃうまい、よく免許が取れたなあと思っていたらなにもかもすべて無免許!命綱なんぞしてたら仕事にならんといいながら高所作業をしたりと、まあ昔の職人さんですな
「拾われっ子やからな死ぬことおもたら当然ちゃうか」この話の最後に母の突き放したようなもの言いが言い方がどうにも引っかかってはおったのですが。

平成に入った頃このおっちゃんの訃報があり葬儀後おっちゃんの思い出話を母としていたところ衝撃の言葉が出てきました、おっちゃん、親戚でした
詳しくは戦中に祖父が外の女に産ませた私生児でその女が祖父におっちゃんを押し付け逃げてしまい捨てるわけにもいかず家につれてきたのが真相でしたどうりで祖母も母もおっちゃんのことをよく思っていなかったはずです。
母はそんな作り話をオレにしたことも覚えておらず子供に言うてもわからんからウソ言うたんちゃうかとのことでしたが、真実を知った時にはホントに驚いたなあ。

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