黒髪と短めのボブヘアとわたし

生まれてこのかた一度も髪の毛を染めたことがない。
そう言うと、大抵驚かれる。そのくらい髪の毛を染めることは当たり前になっているのだろう。ドラッグストアにもスーパーにも髪染めの商品はたくさん売られているし、美容院に行けば「一回染めてみません?」と必ずといっていいほど勧誘される。

わたし自身、自分の髪の毛があまり好きではない。真っ黒だし硬いし毛も太いし、量も多い。乾かさなければ好き放題はねるし、乾かしたとしても変にうねってしまう。
小学校に入ってから、わたしの髪型はずっとショートカットだった。理由は、プールの授業があるから。プールの授業では、髪を束ねて水泳帽の中に髪の毛を全てしまわなければならない。しかしわたしは手先が不器用で、自分で自分の髪を束ねたりアレンジしたりということがまったくできなかったのだ。
そして幼い時に練習をしなかった今、やはりそういうことはほぼまったくできない。

髪をもう一度伸ばそうと思ったこともあった。大学四年生の時だった。単純に髪の毛が長い自分はどう見えるのだろう、と思ったのだ。でも我慢できたのはせいぜい十ヶ月ほどだった。胸あたりまで髪は伸びたけれど、お風呂の後、乾かすのに時間はかかるし、ヘアアレンジしようとしても(今まで練習しなかったせいで)どうもうまくいかないし、ご飯の時いっしょに髪を食べてしまうし、きっと、性に合っていないのだ。そして髪の長い自分の姿も、どうもしっくり来なかった。

ばっさり。

大した長さではなかったけれど、その時のわたしの気持ちは本当に「ばっさり」だった。
カットが終わって床に散らばった髪を見る。真っ黒で、ぱさぱさとした物体。死んでるみたいだなと思ったのを覚えている。そしてふと、これが茶色だったらどうだったんだろう、と思った。自分の死んだ髪に対する印象は、少しでも違っていただろうか?例えば栗みたいな、ミルクティーみたいな柔らかい色だったら?チョコレートみたいなこっくりとした深いブラウンだったら?こんな風に、死んだみたいに見えなかったのだろうか。

わたしが髪を染めない大きな理由。それは昔、父親に、黒髪の方が似合う、と言われたことがあるからだ。
・・・断っておくけれど、わたしは決してファザコンではない。

父親は英語の教師だった。どちらかといえば厳格で、真面目なひとである。少し頑固で何を考えているのかあまりわからないけれど。そして、彼がわたしの容姿に対して行なった発言は、きっとこれが唯一のはずだ。
わたしは決して美人でないし、スタイルもよくない。一重だし顔は大きいしふくらはぎが張っているし、どちらかといえば容姿に対するコンプレックスをたくさん持っていると思う。父親がそういうことに敏感だったのかどうかはわからないけれど、これまでのやりとりの中、彼がわたしの容姿に対して発言したのが「黒髪の方が似合う」。これのみなのだ。
単純といえば単純である。ファザコンと言われればそれもそれで仕方ないかもしれない。
しかし、父親にそう言われた時、当時中学生だったわたしは妙にすんなりと「あ、そうかも」と納得してしまったのだ。わたしには、黒髪の方が似合う。うん、そうかも。
今になって思えば、それは当時高校の教師だった父親なりの牽制だったのかもしれない。彼にとって髪を染めた学生の娘がいることは我慢できなかったのかもしれない。今となってはもう改めて聞くきっかけもないけれど。

29歳の今、わたしはもちろん自分の髪を自由に扱っていい。学生だった当時だって、もちろん自由に扱ってもよかったのだけれど。あの頃のわたしは勉強することしか知らなかったし、親の顔色ばかりを伺っていてそれどころではなかった。
ドイツに来る前、海外には日本人の髪を扱える美容院が少ないという話を聞いていたのでまたしばらく髪を伸ばしたままにしていた。しかし幸いにもベルリンでよい美容院を見つけることができて、最近はずっとボブヘアが続いている。でも、髪は未だに染めていない。茶色い髪の自分を想像した時、やっぱりどうもしっくり来ないのだ。試してみたい気持ちがないわけではないのだけれど。それでも、わたしには黒髪の方が似合うんだろうなあ、という気持ちがまさってしまう。それは父親に言われたからではなくて、確かに、自分自身で。

相変わらず、わたしは自分の髪をそこまで好きだと思えない。真っ黒だし硬いし毛も太いし、量も多い。乾かさなければ好き放題はねるし、乾かしたとしても変にうねってしまう。
でも、自分の髪が黒いこと。このことだけは、自分の髪の毛に関してわたしの中で納得できることなのだ。多分わたしには、黒い髪が一番似合っている。これからもきっと、わたしは自分の髪を染めることはしないだろう。

ついこの間、美容院に行った。二ヶ月ぶりに髪を切ってもらった。髪の量が多いわたしのこと。切ってもらった後、やはり床に散らばる真っ黒な髪の毛。しかし、あの時みたく、死んでいるようには見えなかった。
お会計を済ませて外へ出る。夜の6時。ベルリンはもうすっかり暗くて、しっかりと寒い。駅へと向かう道中、信号待ちで立ち止まった。大きなビルの窓に自分の姿が映る。出っ張ったふくらはぎ。大きめの顔。そして、真っ黒で短めのボブヘア。
信号はまもなく青になって歩き出す。
軽くなった髪に風が通った。つけてもらったヘアオイルがふわりと香る。

その時確かにわたしは今の自分が好きだな、とほんの少しだけそう思えたのだ。