父親退院2回目

脳梗塞2回目でまた入院したバカ親父。
食事がようやく取れるようになった日に、父親が戦時中にトマトばかり食べていたため嫌いになったトマトベースの野菜ジュースが出ました。


野菜ジュースはどうなったのか


トマトだけではなくセロリも嫌いだから、野菜ジュースはさすがに飲まないだろうと思っていたら、ガブガブ飲んでいて、そこまで食べ物が欲しかったのかー!!と思いました。


それから約1ヶ月で退院したのですが、次に脳梗塞をしたら死ぬか寝たきりになるからね!と医者に厳しく言われました。
そうか、脳梗塞は3回までか。


労働、家事、介護

私はすでに実家に帰り、働き先をみつけて仕事が終わったら夕飯を作りに帰るようになっていました。この頃はまだ母親が商店を続けていて、姉は会社員として働いていました。

父親がどうしても店にいたいと言うので、朝は母親が店に車椅子で連れていき、私は仕事帰りに店に寄って買い物をして父親を連れ帰る、というルーティンです。

脳梗塞のせいで右半身と口がうまく動かないため、なるべく喋らせるように言われていたのでプロ野球の解説をさせたりして会話を無理矢理させました。
おかげで当時の私はプロ野球に詳しくなりました。

家も店も失う

それから2年ぐらいして、オフィスビルを建てて破産したバカと話し合いをしまして、手打ち金300万円という雀の涙でお店も住居も失いました。

そして町内のアパートの1階(元は大家の住まいのため1フロア借り)を借りて引越し、狭いし使い勝手が悪い中でもなんとか姉妹の給料だけでやっていくことになりましたが、店を辞めたので収入は激減、姉妹は給料のほとんどを家に入れ、私は朝から夕方までのパートの他に、今まで集めたレアな時計やアクセサリーなどをヤフオクで売り、さらに占い師として働きました。占いを習っておいて良かったと初めて思いました。

生活は本当にカツカツで、たった5円を節約するために自転車でスーパーを回ったりしました。この頃は母親も椎間板ヘルニアでほとんど立てず、家事も姉妹でやるしかなくて毎日疲れていました。

父親は入院中に障害者手帳を取って、当時新しく導入された介護保険で風呂場のみ(父親が使う場所のみ、という縛りがあった)週1でヘルパーさんが掃除してくれましたが、今考えるとカビキラーだけ撒いて終わりにしていたっぽいんですよね。

脳梗塞で性格が変わったのか、父親はバラエティ番組が好きになり、うまく笑えないながらも楽しんでいましたが、家に戻って気が緩んだのか、禁止されている台所のお酒をこっそり飲んだり、母親のタバコを盗んで吸ったり、血圧が上がりそうな食事をリクエストしたりして、毎日姉妹から叱られるのですが、母親が甘やかしてしまって酒もタバコも徐々に与えるように……。
本当にバカな親ですよ!!!

妹、疲弊し始める

お金の問題以外では平穏な家庭(に見える)ではありますが、必死で労働している姉妹はどんどん疲れて関係が悪化します。
姉の地雷はたくさんありすぎて毎日のように怒られ、八つ当たりをされ、私の精神は擦り切れていきました。ヒステリックな姉はとにかくサンドバッグが欲しかったのでしょうね。
私は面倒臭いものを回避するタイプで、姉はそれを許さないし、会社でのストレスをぶつける場所がないから、スルースキルがある私にしか八つ当たりできないんです。
でもスルースキルがあっても毎日のように八つ当たりされれば私も疲弊します。

当たり前ですが私も仕事で嫌な思いはします。でもクビになるわけにいかないし、我慢ばかりしているわけで。
そんな人間にさらにストレスをかける家庭は地獄でしかないのです。

今思い出しても吐き気がします。


この当時は介護保険制度が始まったばかりで、認可を受けるのも面倒な手続きがありましたが、それさえこなせば車椅子や介護用ベッドは無料でもらえました。

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