父親入院3回目 そして死亡まで

夏だったか秋だったか冬だったか忘れましだが、まぁ当時は春夏秋冬なぞ頭にないぐらい働くロボと化していたため覚えているわけがない。

ある夜に廊下でバッターン!!と音がして、急いで行ったら父親がぶっ倒れていた。
音に驚いて家族全員集まって、父親を立たせようとしたけど様子がおかしい。
ああ、3回目の脳梗塞だ、死ぬんだ、きっと、と思いながら救急車を呼び、母と姉が乗って、私は母達が帰るまで留守番。

死ぬんだろうなー、しか考えられずにいたら、昼前に呼び出されて病院に行ったら、聞いたことが無い大きないびきをかきながら、玉のような汗をかいている父親がベッドにいた。
どうやら体温調整する機能がある脳の一部が壊れたらしく、拭いても拭いても汗が止まらない。

医者の説明を聞くため別室へ行くと、今日か明日に亡くなる可能性が高いと言われた。もし生きても寝たきりです、とも。
とうとう来たな、この日が。

しばらく父親のそばにいたかったんだけど、医者が人が近くにいると興奮で血圧が上昇するから帰ってくれと言い、近い病院だったため、何かあったらすぐに駆けつけられるようにと頼んで帰宅。

点滴と降圧剤と鎮静剤みたいなやつで落ち着いたらしく、翌日は姉が早朝に出社、私が出社しようとしたら、病院から電話ですぐ来てくれと。
嫌な予感を抱えながらタクシーに乗り込み、自分が神ではい無力な人間であることを呪った。こんなに悔しかったことは今までない。

母と病院到着後、医師から受けた説明は「検査をしたけれど、もう手術ではどうにもならない。寝たきりになります。でも都立病院は3ヶ月しかいられないから、次に入る病院をケースワーカーと相談しながら決めておいてください」だそうで。
他にも入院中にやる治療とマッサージの説明を受け、紙オムツやパジャマ替わりの浴衣は持ち込みで、など聞いてた気がする。

父親のところに行くとやはり大いびきで、説明によると重篤な脳梗塞は喉の麻痺も起きるため、とにかくいびきが大きくなる。息が出来なくなったわけじゃないから、起きてる時は酸素マスクでいいらしい。

母が疲れていたので1時間ぐらいで帰り、紙オムツやら浴衣やらを買って翌日の準備をした。

姉は朝から深夜までの激務が多くなった頃で、母は腰が悪いしで、オムツと浴衣を持って会社に行き、定時で仕事を終わらせ病院へ。
お父さんお父さん、と話しかけても目だけこっちを向けて不思議そうな顔をしてるもんだから、お父さん、あたしがわかる?と聞いたら首を振る。お父さんには娘が二人いるんだよ、と言っても首を振る。じゃあ結婚したのは覚えてる?と聞いたら、うん、と。
結婚した時から先のことはまるっきり覚えてない。
その日は泣きながら帰った。

別の日に従兄が来てくれた。ケンちゃんという父親が可愛がっていた従兄で、わざわざスリランカから来てくれていたので、覚えてなかったらショックだろうなと思いながら、ケンちゃんが来てくれたよ、わかる?「ケンジだよ、叔父さん」父親は覚えていた。それから泣いた。体に繋がった心電図の音が少し早くなってた。

あんまり長くいても体に良くない時期だったから、ケンちゃんと一緒にうちに帰り、しばらく母と話し込んでいた。

ケンちゃんの他にも伯母3人、ケンちゃんのお兄さんのシンちゃんが様子を見にきた。父親の変わりように驚きながらも、昔の記憶をちょっとずつ補填してくれて、私と姉が父親の娘だと言い聞かせていた。

しばらくして転院できる病院が見つかったけれど、都立病院より倍の値段がかかることが判明。私は3年働いた愛着のあるコクヨのパートを辞めて、もっと給料がいい派遣会社に契約社員として入り、技術者として大手の証券会社に常駐することに。
こんな事情だから節約をしなくてはならず、孤立したいわけじゃないのにお昼はひとりで弁当、飲み物は水筒にお茶を入れて持っていった。

幸いにもどんな機械でも使えるし、多少は直せるし、真面目に働くから給料は良かった。ただし父親の入院費と生活費を姉妹で出し合ってもカツカツだった。
服も買えない、外食も出来ない、化粧品も買えない、遊びと言えばコストパフォーマンスを考えて一番安いテレビゲーム。
少し前に買ったプレステ2で、友人からソフトを借りたり、買って満足するまで遊んだらいい値段で売れる。

占いの仕事も入れて、さらに大切にしていたレアもののおもちゃやマンガをヤフオクで売り、欲しくても本は図書館、レアもののCDやレコードも売り、価値がある本を適正な値段で買い取る店に売り……。
そして母は隔日、土日は私と姉が交代で紙オムツを持って新しい病院へ行くことに。


最悪な病院


転院先の病院は最悪だった。3ヶ月で追い出されないのは良いけど、ギチギチに並んだベッド、ベッドの下には洗濯物を入れるダンボール。そのダンボールには虫が湧いてる。
我慢ならずに病院から少し歩くドンキで衣装ケースを買い、汚れ物は(蓋を外した)ケースに入れるようにした、
翌週、虫が湧いたダンボールは他の患者のベッドにあった。

筋肉が衰えないようにと都立病院ではしっかりしたマッサージ師さんが時間をかけてやってくれていたけど、この病院のマッサージ師は「さする」だけ。
もっとちゃんと関節を曲げたりしないと、と言っても聞く耳もたずな怠け者だった。

看護師さんは熱心だったけど、すぐに辞めてしまう人ばかり。介助のオバサンたちはダラダラしてて、父親の入浴を手伝ったらろくに洗わず5分で終了。

出入りのクリーニング屋もろくでもなく、弱った老人に漂白剤で水膨れができるようなタオルを胸あたりに放置したり、家族に無断で流動食を直接胃に入れるための胃に穴を開ける手術をしたり。

本当に酷かった。

でもそこにしか入院させられない給料しか貰ってない自分を責めるしかない。文句を言えば追い出されて、高い病院に入れるしかなくなる。

このつらい日々に私を笑わせてくれたのが、ナインティナインのオールナイトニッポン。毎週MDで録音して、聞きながら病院に通う。聞いている時だけはつらいことを忘れる。
会社で愚痴を言う代わりに面白い話題を提供して、みんなも他の面白いことで笑わせてくれて感謝してる。

風邪でつらい時も、お金がなくて電車に乗れなくても自転車で1時間以上かけて行った。父親が生きててくれて、私を娘だと認識してるだけで良かったから。
ある日、風邪と疲労でどうしても行かれない時に1日ぐらいなら父親も許してくれるだろう、と思ったら母にうるさく行けと騒がれ、無理だと言ったら喧嘩になり、結局恩着せがましい「あんたは冷たい!」というセリフを吐き捨てて母が行き、帰ってからは無視をされたから私も疲弊していたし無視をした。

美術館の割引きチケットがあったから、会社帰りに黙って行き、いつも帰る時間よりだいぶ遅く帰っても私は無視を続けた。そこまでしないと気が済まなかった。

入院して2年ほど経った時に、父親の手、手指、肘、脇、膝、足首、足指の腱を切らないと、看護ができないと言われた。手術の同意書を書いて、当日、母、姉、伯母が病院へ行くと、手術どころではなく、父親は危篤になっていた。
たぶん手術しなくてはいけないプレッシャーが我慢できなくて、体の機能が諦めたんだと思う。

手足の手術だと聞いていたから会社にいた私に、父親が危篤だと連絡があり、急いで電車とタクシーを乗り継いで病院に行った。緊張していたせいかオシッコが我慢できず、病院のトイレで用を済ませてから病室に行くと、「ついさっき臨終だった」と聞かされ、自分のタイミングの悪さを後悔した。

なんだかまだ話しかけたら目を覚ましそうだったから、何度もお父さんと呼んだけど、体はみるみるうちに冷たくなって、死んだんだな、とはっきりわかった。

病院づきの葬儀屋さんが綺麗に体を洗ったり、死亡証明書を出す間に、私と姉は2年ぶりに帰ってくる父親のために、茶の間に祭壇やら布団やらを用意しなくてはならず、タクシーで帰った。
その時にラジオから松任谷由実の「春よ来い」がかかっていた。

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