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気分をつかみ取る

 自分自身の気分なんだな。

 世の中では、何が正しいとかどういう生き方が云々とか、色々に言っている。
 しかし自分の生き方とは、その時々の自分自身の気分をつかみ取ってゆけるかという、そこの所にしかないものではあるまいか。

 個人の自由にさせてしまうと自分勝手になる、と言う人々もいるだろう。
 しかし、他を害する勝手さとは、全体のルールを外れる中にある。
 社会のルールを保ちつつ、個人の自由に振る舞うことは可能なはずで、そういった”社会のルール”と”個人の振る舞い”を混同し過ぎているのではないか。

 もしかしたら”世間”とは、そのような社会と個人との癒着といったものをも含んでいるのかもしれない。

 じゃあどこまで自分を貫けるだろう。これ以上は周りと衝突し過ぎるだろうか ――
 そういったことは、本来一人ひとりがそれぞれに検討して、自分なりの社会における生き方を導き出してゆく必要がある。
 そして、生き方に幅のある一人ひとりを受け入れられる、ということが、本当に懐の広い社会ということであろう。

 現代社会は本当に、広さを指向する方へと向かっているのだろうか。
 様々な場面に正しさばかりを欲しがって、新たな世間を作り出すだけではないのか?

 多様性なる言葉があって、本当に多様だというのならば「自分は多様性なんてのは嫌いだ」という反対すらも受け入れてこその多様性であるはずだ。
 しかしメディアを見ていると、多様性は素晴らしいとばかりを見聞きして …… それも意見の一つである以上、いけないとは言わないけれど「本当かな?」くらいには思う。

 だが、外で戦ってどうにかなる話ではないのだ。
 他人に他人は変えられない。

 僕は僕自身の気分をつかみ取れるか。
 社会を保ちつつ、僕として振る舞ってゆくことができるのか。

 貴方と私との正しさは、必ずや異なるだろう。

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