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ITベンチャーで理解した「人」、「製品」、「利益」の順番に大切にしていくということ。

エネルギー関連の大企業で10年を過ごしていた私は、その間にアメリカに企業派遣留学を経験し、留学前と同じ資材部で資材調達の仕事を続けていた。時代は丁度21世紀に入ったばかりだった。当時、大企業では社内公募制というものが流行り始め、人事部の人事や直属の上司の意志を超越したところで本人の希望部署への異動が可能になるというシステムは、社会の注目を集めていた。私がいた会社も社内公募制を始めたばかりだった。

私がいた会社が変わっていたのは、社内や子会社への異動だけではなく、社内公募制で社外への出向も求人していたことだった。ここで私が見つけたのが、ベンチャー企業へ2年間出向するという公募だった。これは、新しく立ち上がったばかりの新規事業開発室からのものであった。エネルギー業界も自由化が叫ばれる時代になっていて、本業だけでは競合に立ち向かうことができないと言われていて、新規事業に手を伸ばし始めていた。しかし、半官半民のようなエネルギー業界には、新規事業を立ち上げるという経験を持った社員は皆無だった。そこで考えられたのが、今考えるとそんなことで起業ができるようになる訳はないのだが、ベンチャー企業に出向して2年間訓練するというものだった。私はこれに後先考えずに飛びついた。

アメリカやフランスで数多くのアントレプレナー達に触発されてしまっていた私は、このエネルギー業界での新規事業という明らかに本道を外れる道、すなわち出世と言う道から外れること、など考えもせずに応募していた。応募者の中に海外留学から戻ってきた社員が他にたまたま1人もいなかったことが幸いしたのか、アントレプレナーシップと言うものへの想いが面接で奇異に映ったのか、私はこの公募制で選ばれた。

そして、私を待っていたのは、南青山のマンションの1室にオフィスを構える20人程度のベンチャー企業だった。当時流行り始めていたグループウェアを開発しているベンチャーで、サイボーズの競合にあたる会社だった。製品はとても優れたもので、当時からエンタープライズをターゲットとして目指すというその会社の大きな夢は実現可能なものと思えた。働いているエンジニアや管理部門の人たちも皆ずばぬけて優秀だった。私のように大手商社や大手信託銀行などを辞めて入社している人たちもいた。

このベンチャー企業のキーはやはり創業者だった。私が初めて出会う日本のベンチャー創業者だったが、私のいた大企業にはまずいないタイプの人だった。会ったばかりで、根っこにある筋の通った意志の力、そこからくる吸い込まれるような威圧感、そしてたまに見せる包み込むような優しさを感じた。彼は私と同い年にして、私よりも一回りも二回りも精神的に大きく見えた。毎年自分自身で戦略を描き、その戦略を力強く実行していく。もちろん自分でも営業に行くし、名だたるトップ企業のエグゼクティブたちを次々と落としていく。決して媚びる事はなく、会社の製品の強さ、ぶれることのない経営戦略で人を引きつけていくその力に私は圧倒された。自分で最後の最後まで考え抜くこと、締め切り直前まで細部にこだわり抜くこと、そういった事業を起こしていく上での基本みたいな事は、全てこの人から教わった。私のベンチャー企業とか新規事業開発や新規事業投資の原点はこの会社、この経営者にある。今でも私が最も尊敬する経営者だ。

ベン・ホロウィッツのHard ThingsにNetscapeのCEOの言葉として、「我々は人、製品、利益を大切にする。この順番に。」という奥深い言葉が出てくるが、今考えるとこの言葉が正に実践されていたベンチャー企業だった。社長はマネージャーと良く会話をし、マネージャーは社員と頻繁にコミュニケーションを取る。社長が社員全員にメッセージを送る機会も多く、社員と個別に雑談しているシーンも良く見かけた。規模に関係はないのだと思う。大切にしているかどうかなのだ。そして、社員が皆、自社製品を愛しているのも良く分かった。そしてそれが利益に繋がり始めていた時期だった。

しかし、同時に全く何もできていないという意味で衝撃を受けたこともあった。社内規定がない、稟議書もない、ワークフローの決まりもない。そうか。立ち上げたばかりの会社なんだからそんなものはないに決まっている。私は今までそんなことさえも知らなかった。会社であれば、そういう枠組みは当然できていて、その枠組みに乗って仕事をする。それが当たり前だと思っていた。しかし、このベンチャー企業では、その会社の基礎でさえも、自分達で最初から作るんだ。びっくりはしたが、会社を作るというのはこういうことなのだと、ワクワクしてきた。

この初めてのベンチャー企業で私が任されたのは、コーポレートマーケティングだった。社長はメディア戦略がずばぬけて上手で、日経産業新聞や日経のいろいろな雑誌、その他オンラインメディアなどとの関係者とコネクションを築きあげていた。自分が描いた戦略をもとに次々と新しい製品やサービスを立ち上げ、それをメディアを利用して完璧なタイミングで発表していく。1度などは日経産業新聞の一面トップを飾ったこともある位だ。私はコーポレートマーケティング本部長として、メディア戦略そしてPR文書などを社長と話ながら次々と作り発表していった。それはそれは刺激的な毎日だった。

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