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母の空席を守ってしまう

昨日の36週の検診で、子宮口がもう4センチ開いているといわれた。

4センチを、親指と人差し指でつくってみる。なかなか開いてるやん。

予定日より早く産まれるかもといいつつ、いざとなるとドキドキしてくる。陣痛が始まれば早く産まれそうなので気をつけてくださいとのこと。

くまさんのような院長先生は、診察の終わりしなに、「じゃあ、楽しみにしていますね」と言ってくれた。
ほっとした。
そうだよね、楽しみでいいんだよね。

今朝も赤ちゃんは、お腹で元気に動いている。

  ◇

ぼんやりと不安に思っていることがある。

産後、こちらにきてくれるという義両親のことだ。
いや、義両親自体はまったく問題ではなくて、心配なのは彼らに素直に甘えられない自分のメンタルだ。

私の実母は亡くなっているし、実父はとてもじゃないが産後の世話を頼めるタイプではない。
(昨日、誕生日おめでとうと電話をすると、鮎釣りシーズンのシメに台風がきて台無しだ、と嘆いていた。)

それで、福岡から義両親がきてくれることになっている。

この義両親はすごくできた人たちで、お正月に1週間ほど帰省していても、全くいやな気持ちになったことがない。
むしろ、義両親のほうが気を遣いすぎて、疲れていないか心配になる。

親切で愉快で機微のわかる人たちなので、話していて楽しい。さらにいうと、お母さんの料理がすごく美味しい。おかげさまで食が進み、毎年太って帰ってくる。


夫は3人兄弟の末っ子なので、義両親にはすでに5人の孫がいる。

結婚してもうすぐ3年、「子どもはまだ?」など一度も聞かれたこともなく、てっきりこちらはノーマークなのだと思っていたら、ずっと気になっていたけど義兄夫婦から何も言うなと止められていたらしい。
妊娠報告をすると万歳で喜んでくれて、流産していたことを話すと泣いてくれた。
本当に義実家に恵まれている。

そんな義母は、すこし私の実母に似ている。
背が低くて笑顔が多く、聞き上手で、面倒見がいい。
夫婦が並んで歩いていると、気づけば義両親は手をつないでいる。

母に似ている、と思えば思うほど、なんだか義母に甘えきれない。
気を抜くと泣きそうになってしまう。


小中高生の頃、私はすごく母を侮っていた。

母はあまりおしゃれをしなかった。参観日に並んだよそのお母さんがみんなとても綺麗に見えて、なんだかなあと思っていた。

よそのお母さんが「先生」だの「看護婦さん」だの「トリマー」だの、名前のついた仕事をしているなかで、ハンカチ工場でハンカチを縫っていた母は凡庸に見えた。

高校生の頃、母は介護施設に転職して介護士として働き始めた。
母が持ち帰ってくる制服は、なんだか変な臭いがした。夜勤前後はつらそうだった。


母はいつも父の味方だった。私が父からどんなに怒鳴られても、決して味方になってくれなかったし、声をかけてくることもなかった。
私は反抗期真っ盛りで、母みたいになりたくないと思っていたし、実際に本人に言い捨てたこともあった。
母に心を開くことも、会話することもなくなっていった。

大学生になって実家を出たとき、私は心から清々した。
ホームシックになんて本当に一度もならなかった。
心配した母からはしょっちゅう電話がかかってきたけれど、「うん」とばかり繰り返して、会話が終わるのを待っていた。私から連絡したことはほとんどなかった。

2年に1度、帰るか帰らないか、帰っても1日や2日、ということが続いた。
それでも実家で会う母は、いつも朗らかで嬉しそうだった。


私が就職して3年目の夏、母に癌が見つかった。

いち介護士にすぎなかった母は、いつの間にかケアマネージャーになり、社会福祉士になり、県代表として会合に出るまでになっていた。

その頃、母は深夜まで起きて勉強しているようだった。たまに疲れた声で夜遅くに電話がかかってきて、ぐちを聞いたこともあった。
珍しいな、と思った。大人同士になったのかな、くらいに思っていた。

「逆流性食道炎になった」というのも聞いていた。でもそれは誤診だった。

気づいたときにはステージ4、癌のなかでも難しい、スキルス性の胃癌だった。


あれよあれよという間に、抗がん剤治療が始まった。だいぶ具合が悪いと、兄や、母本人からも連絡が来た。

当時、私は私で、仕事上のさまざまな悩みで、ほとんど鬱状態になっていた。会社に行けば涙が出てくるし、仕事を続ける自信がなくなっていた。そして、母から電話で「お母さんは今、本当に助けを必要としてるんよ」と言われて、実家に帰ることにした。

母は、もし私が東京で楽しく仕事をしていたら、決してそういうことを言えない人だったと思う。
帰ってきて欲しいのは本音でも、やっぱりあの電話は、どちらかというと私への助け舟だった。


私が実家に帰った頃、母は「丸山ワクチン」の治験をはじめて、それがよほど体質にあったのか副作用がだいぶ和らぎ、聞いていたよりも元気だった。
介護をするのか、と内心緊張しながら帰ったのに、病院の付き添い以外は、母とのんびりする日々が始まった。

「免疫力をあげるには笑うのがいいのよ」と母がいうので、とりあえず楽しいことを沢山した。

肌が一気にくすんだという母にシミ消しに効くという化粧品を買ってあげて、高い化粧品の効果覿面なのに母娘共々驚いたり、
安いたこ焼き器を買ってきて、たこ焼きを焼いたり、
奈良や京都にドライブに行ったりした。

こんなに母と話して、二人で行動するのは初めてだった。

あっという間に一年がすぎて、母は相変わらず元気だった。
私はいい加減仕事をしないといけないと思い始めて、もう一度東京に行くことにした。母は残念そうにしたが、反対はしなかった。


いまの職場に就職して1か月ほど経ったとき、母から電話があった。
「仕事はどう? 楽しい?」と聞かれた。

職場の人間関係に恵まれ、前職時代よりもかなり安定した心理状態にあった私は、「うん、楽しい」と、明るいトーンで無邪気に答えた。

一拍、沈黙があったのちに、母は
「よかったね」
と言った。優しい声だった。

母は、その2か月後に急変して、亡くなった。

あのときの電話で、母は「戻ってきてほしい」という言葉を飲み込んだんだと思った。


母が亡くなったとき、来てくれたお葬式屋さんは母の顔見知りだった。「昔、私の母が施設に入るときお世話になって」
と言って、祭壇を無償で最上級のものにしてくれた。

それは母には豪華すぎる祭壇で、大きすぎる会場だと思っていたら、次々に弔問客が来てくれて、満員になってびっくりした。
施設の人たちが次々に泣きながら来てくれるのを、機械的にお辞儀をしながら眺めていた。母を死なせたのは自分のような気がして泣けなかった。


母は、幼少期からいろいろと家族に振り回されてきた人だった。
私が言うのもなんだけれど、母の人生の一番楽しいところは、きっとこれから訪れるはずだった。

いろいろと苦労してきて、結婚して、おしゃれもしないで髪の毛振り乱しながら子どもを2人育てて、働いて、勉強して、やっといろいろなものが手に入りはじめたところだったのに。

結婚して、落ち着いた今なら、母にいくらでも優しくしてあげられるのに。
母が喜ぶような言葉をかけて、労ってあげるのに。


母は「おばあちゃん」がすごく似合うはずの人だったと思う。小さい子どもが大好きで、通りかかるとニコニコと話しかけた。よその子によくまあ、とこちらが思うほど、そういうときが一番幸せそうだった。

あの母に孫ができたら、どんなに喜んだだろう。可愛がってくれただろうと思うと、どうしても堪らない気持ちになる。

母がいたら、きっと産後も一緒にいて、いろいろと相談しただろう。お世話をしてくれただろう。母はきっと、それらを歓迎して、幸せを感じてくれただろう。

そう思うと、どうしても、母の席を他の誰かで埋めてもいい気になれない。その席を空けておきたい。母が喜んでしたであろうことを、誰かにしてもらってはいけない気がする。


夫も、義両親も、産後の手伝いについてはすべて私の気持ちを最優先にしてくれるという。なんて優しいんだ。

いっそ、何も考えないで甘えてしまえばいいんだと思うのに、どうしても心に母がひっかかる。母が可哀想に思えて、申し訳ない気がして、甘えきれない。


妊娠したのと同じくらいから、頻繁に、小さくて黒いクモが部屋に出るようになった。ハエトリグモというやつだ。

夫が何度捕まえて外に出してくれても、気づくとまた天井のすみに、ぴたっとくっついている。

以前読んだ記事で、「小林麻央さんのお墓参りに海老蔵家族が行くと、白い蝶が現れてついてきて、子どもたちと一緒に麻央さんだと思った」、というのを思い出す。うちの母だと、ハエトリグモくらいなのかな、なんて考えてみたりする。

「ゴキブリの赤ちゃんとか食べてくれるらしいよ」と夫にいうと、じゃあ無理に潰したりしなくていいか、ということになった。
今も一匹、部屋の隅に、ぴたっとくっついているやつがいて、私はなんだかいとしい気持ちで見守っている。



私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。