根底からの浄化

最近、きづいたことは、

もやもやのかきだしワークを
ここで発信することで、
浄化される感じがするということ。

ひとりでノートに書くのもするし、
それも大事な時間なのだが、
発信するのがいいよと教えてもらい、
ええなんで、と抵抗しながら
恐る恐る公開のボタンを押したら
流れていく感覚があって、不思議だ。

あと手書きもいいけど、
打つと、読み返してみたときに
客観的になりやすくていい。

暗い部分、ネガティブな部分も
出すのはどうなんだろう、
発信するにはヘビーすぎないか、と
書きながら遠慮してしまいそうになる。

でも、
モヤモヤからはじまって
すーごいくらーいものまで
遠慮せずに出していくと
もやりで見えなくなっていた
光が必ずかおをだす。

生きられないよと、しくしく書きつらねると
その先には、ものすごく生きたい✨気持ちに溢れていることがわかった。

くらーい、ネガティブも出して、
そうして、落ち葉をはらうようにしていったら、わたしはわたしでいたい✨という光が
ほんとうのものだった。

読み返すと、その前の苦しいと思い込んでいたことは幻想であるとわかる。
自分でつくりだしたもの。
今ここには、存在していない。

久々に書き出しながら、
人の目にうつる自分像を、
自分の、理想像を、つくりあげようとして
苦しんでいたような気がした。

わたしのもとにやってくる、
ここのところのキーワード。
「根底からの浄化」

ここからは、さっきかいた書き出し。
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今月の初めまでは、楽しく過ごしていて、
半ばに体調をくずして、そこから復活してまた楽しいイベントがあって、
それがおわった途端に、
焦りと不安と緊張がぐーっと押し寄せて、苦しい。
のどがつまって、肩と首に余計な力が入っている。

焦りと不安と緊張が、視界を狭める。きょうはこんなに楽しいことがあったのに、なんでそっちにフォーカスしてしまうんだろう。

見るのもこわい。過去のシーンがかわるがわるやってくる。過去に感じた焦りと不安と緊張。

それらは、幻想を映し出す。

今ここから視点をずらす。
今ここ、目の前のものを見ることはとってもおそろしくて、苦しくて辛いものだとそう言うのだ。
そんなことを言われたら、そんなものは見たくないから、目をそらすけど、それは見て、片付けて、整理したりしないと消えないじゃないか。そこにそれがあることがストレスである。
もう何もかも放って遊んでいたいと思う。

なんでそんな苦しいことをしなきゃいけないんだろうって、また苦しい現実が始まるなんてもう嫌だ、もうつづけられない、
なんどもなんども、倒れてはここにきている。
また頑張って始めても、もう走り続けられない。
もうがんばれない。
それしか道はないのでしょうか。
それでも楽しみを見つけて生きていくには、と、手を尽くしてきた。もう、やることはやった。これ以上は、できない。わたしはそれはもうできないんだ。できない、わたしでも、楽しく暮らしていく方法を教えてほしいと言ったのだ。もうわたしはわたしの嫌なことはしない。というよりできない。我慢も、やりたくないこと、嘘をつくことができない。もうこれからの人生、わたしを閉じ込めて生きることはできない。わたしを責めて生きることはできない。高得点を目指して努力するということができない。もうやりたくないことはできない。おしりたたいて頑張れって言えない。もう立派な人を目指さない。合格点に向かって走れない。もうルールに押し込めて、必死で汗かいて、頑張っているところを見せて、褒められたり怒られたり、比べられたり、できなかった自分が悪いと、責めたり、ひとりぼっちだと笑われたり、友達をたくさん作らなくてはいけないとか、予習復習きちんと毎日とか、失敗が許されない世界にはもう行けない。きちんと、しっかり、ちゃんと、頑張って、はもうできないのだ。

わたしは、もうわたしでしかいられない。
このリズムで生きられるところで生息してみたい。
わたしは、わたしであることをよろこんで、のびのびと羽を広げてこの地球で、この身体で、この瞬間、みんなと生きていることを楽しむことだけをしたい。これからの人生それが1番したいこと。わたしがわたしのままで、生きられる場所で、暮らすことを楽しんで、よろこんで、そういうことにからだもこころもつかいたい。そういうことに感覚をつかっていきたい。こんなに感じられるのだから、きらめきや祝福や、ぬくぬくや、もふもふを感じることにエネルギーを注ぎたい。




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