見出し画像

日本人として立派に生きた「山本幡男」さんの生涯

寒い国のラーゲリで父は死んだ
筆者:山本顕一
出版社:バジリコ
令和4年12月15日初版発行
 
みなさんは山本幡男さんという方をご存知でしょうか。南満州鉄道会社調査部に勤務していたのですが、敗戦前年の昭和19年7月に軍隊に召集されてハルビンの特務機関に配属され、敗戦によってソ連軍によってシベリアに抑留され、日本に帰ることなく昭和29年8月に亡くなりました。抑留されている間は、希望を失わず、同じく抑留されている方に対して、帰国(ダモイ)をあきらめないようにと鼓舞し続けた方です。
私はシベリア抑留に対して興味があるため、この本を手に取りました。
令和4年12月には「ラーゲリより愛を込めて」という映画が公開されたこともあり、この本が出版された契機があるようにも思いました。
 
山本幡男さんを主人公とした辺見じゅんさんの「収容所から来た遺書」を読んでいたため、山本幡男さんは子煩悩であり優しいお父さんというイメージを持っていたのですが、お子さんである顕一さんから見るとお酒を飲むと乱れる怖い父だったようです。
「幼児の私にとって、父はまったく恐ろしい存在であった。いつどんな時にガミガミ叱られるかわからず、父が家にいるだけで絶えず緊張でビクビクしていた。たまたま父が出張で家を留守にしているときにだけ、私は安心してほっと息をつくことができるのであった。(略)内心密かに父を憎み続けた。(略)私はあの父が(シベリアから)帰ってきて一緒に暮らすことになると思うと、嫌でたまらなかった。高校時代の私は、あの父と起居を共にするぐらいなら、自分は家出をしようと本気で考えていた。」(43P、48P 第2章怖い父)
 
私自身の亡くなった父も怖い人でした。違う意見を言うと力で抑え込まれることがあったため、憎んだこともありました。父は鹿児島県鹿屋市にあった海軍飛行予科練修生でもあったことから、軍隊の厳しさを身に付けていました。
 
第1章では大連の様子が記されています。大連は日本の敗戦前には自由貿易港として栄えており、子供時代にはホテルで北京ダックを食べ、喫茶店でコーヒーを味わい、ウイスキーチョコレートを舐め、ピアノの演奏会に連れて行ってもらったり、叔母は宝塚の出張公園に出向いたり、夜も歓楽街で賑わっていた様子を読むにつれ、内地(日本の本土)とは状況が違うと思いました。(34P)
 
第3章では、体の弱い筆者に対して優しく接してくれた恩師である大野幸子先生のことが書かれています。算数や理科を特別授業してくれたりしていましたが、敗戦前に満州里というソ満国境に転勤したと思っていたため身を案じていたのですが、無事に生きて日本に帰ってきており、横浜で再会して旧交を温めあえたことは良かったと思っています。(53P)
第4章の引き揚げでは、日本に帰るために新京で今川焼を売ったりする様子が書かれており、幸いなことにソ連人の日本人女性に対する暴行なども見たことはないということです。(69P)敗戦翌年の1946年9月10日に博多港の外れの箱崎港に無事に帰れたことは、本当に良かったと思っています。
 
 第10章で母(山本モジミ)が父(山本幡男)の死去を聞いた際の情景が正直に生々しく書かれています。『(大宮市役所から届いた父死去の電報を母に見せたところ)母は「ワオーッ」と叫ぶなりバタンと床の上に倒れ込んだ、それからその電報を握りしめながら、ワンワンと大声で泣き叫びながら畳の上を転がり回った。号泣はいつまでも続いた。私は呆気にとられて、芋虫のようにのたうち廻っている母を浅ましいとまで思いながら目で追っていた。』(160P)
それだけ夫に会いたかったのだというモジミさんの気持ちの強さを感じました。
 
本の最後に山本幡男さんの遺書の全文がありますが、その中で感銘を受けた部分がありますのでご紹介します。
「君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。(略)また君たちはどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕慢な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を片時も忘れてはならぬぞ。人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。」(子供等へ251P~252P)
この部分を読んで山本幡男さんという方は優しくて奉仕の精神をもった貴高い方であったと思いました。
 
その他、日本に帰ってからはフランス文学を志し、東京大学に入学し、渡辺一夫先生に師事して、フランスで学び立教大学の教授となったこと、弟さんを最後まで世話をしたことが綴られていました。
 
山本幡男さんが作った句を一つ紹介します。
「初日の出染まらぬ雲ぞなかりける」(227P)
 
なお、井手裕彦さんという元読売新聞記者の「命の嘆願書」(集広舎R5.8.23初版発行)の第30章(779P~811P)には『「収容所から来た遺書」の真実』として「収容所から来た遺書」を補足する内容の記載がありますので、ご紹介します。(1295Pある重厚な内容の本です)
 
その中に辺見じゅんさんが小説を書くに際して、お母さんのモジミさんは多くの資料を渡したそうですが、その中にあった遺書を返して欲しいと辺見さんに何度も話していたのですが、結局帰ってこなかったという内容が顕一さんから聴取した内容として記載があります(797P)が、ショックな内容でした。借りたものは責任を持って返さないといけないのではないかと思いました。
 
この本は、本当に素晴らしい本でした。
シベリア抑留と戦争について、興味のある方には是非、お薦めしたい本です。この本を書かれた筆者と出版社に感謝申し上げます。拙い文章をお読みいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?