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好きって言うだけ #呑みながら書きました

他の人がどう受け止めるかなんてあんまり気にせずに、ただ心からの「好き」を表現し続けるのって、いいよね。ということを呑みながらつらつらと書く。

しょうがないじゃん。だって。好きなんだからさ。

本noteは第2回 #教養のエチュード賞 応募作&第2回 #呑みながら書きました 参加作品です。おともは、突き抜けた甘口・笑四季(えみしき)貴醸酒 MONSOON 吟吹雪。私、酔うと、ロジカルな構成はそのまま、ちょっとだけ自制心がよわくなります。本文の一人称はまた「僕」にしてみた。

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「キライ」が目に付きやすい世の中だ。

GoogleMapで飲食店を探していて口コミを見ると、たった一回、接客上のいやな思いをしただけで、「☆1つ」をつけている人をたくさん目にする。大したことないじゃんと思うような話でも、その人が「キライ」をぶつけるのに、スマホでGoogleから「どうでしたか?」と聞いてもらえるGoogleMapの口コミ(Googleマイビジネス)は、お誂え向きなんだろう。

これ、実は自分も1回やったことがあるから気持ちはよく分かる。嫌なことは、聞いて欲しいんだよ、誰かに。一方で、「いい思い」はして当たり前だし、いい思いができる場所は人に教えたくないという心理もはたらく。

そんな社会だからこそ、ネガティブに覆われないためには、みんなが「スキ」を積極的に叫んでいく必要がある。

2

この間、ちょっと無口な後輩を呑みに連れ出した。cotreeのアセスメントコーチング(性格診断部分)を会社負担で全員受けていて、ラオスビールを呑みつつその結果を見ながら話を聞いた。彼女は「エミアブル・エクスプレッシブ」の人。きいたら、表現欲求はつよい。好きなこと・ものもいっぱいある。でも、それもっとどんどん発信しないの?と聞いたら、「みんなにスルーされたらさみしいし、反発されたらいやだし」ということで、あんまり外に出さないクセがついているみたいだった。

その気持ちはわかる。

たとえば僕、去年のいまごろは2018年おすすめVOCALOID楽曲10選とかを毎日更新の中で書いていて、これ4500字書くのにたぶん3時間以上かかっている。けどスキ1桁だし、大して具体的な反応もなかったから、労力対効果とか考えるともう悲しみしかないわけ。自分の努力何だったのっていう。へんに炎上しないだけマシだけど、それすら寂しいっていうか。好きの反対は無関心っていうし。

違うんですよ。なんでもかんでも他人からいっぱい反響があるわけないじゃん。それはハナから目標設定がおかしい。

好きを言語化すること、好きなことを追い続けること、それ自体に意味があるんだ。だからその4500字、全く後悔してない。その過程は、確かに、いまの自分の肥やしになっているから。

3

さあ、ここからはnoteでよく見かける「スキ」を声高らかに叫んでいる人の例をいくつか見ていこう。

教養のエチュード賞。いままさに第2回が開催中だ。

この賞は、主催の嶋津亮太さん自らが『極めてプライベートで、極めてエゴイスティックで、極めてミステリアスな賞』と形容するように、嶋津さん個人がスキなnote作品にお金あげまーすという、完全なる偏愛賞だ。そして第1回は、その公平性を保つために、応募155作品を全部3周以上読むという偏執的な取り組みをされている。忙しいのに、よくやる。。

単なる「好きな奴選ぶぜ」だったら、ちょっと読んでピンとこないやつはさらっと流し読みしてポイだと思う。嶋津さんは、そうしない。人生観をかけて取り組んでいる感じがある。誠実さ、真摯さが軸にあって、ただ好きって言うだけでも、中途半端な妥協ができないんだろうね。入選作に添えられたひとつひとつのコメントだって、狙い澄まして練られた言葉が並ぶ。

それだけ真摯なプロセスから生まれた「好き」には、相応の迫力がある。一方的な宣言なのに、相手に大きなものが届く。信頼が生まれる。こんな大変な「好き」の伝え方、誰もができるわけじゃない。けれど、それは届けるほうにも、届いた側にも、幸せをもたらしてくれる。しかも、その好きの応酬を見ているだけの人にも、何かしらの幸せをもたらしている。それは、第2回の告知直後に殺到した「追銭」の数々に、見ることができるだろう。

4

今月のイチオシnoteクリエーター。先々月は僕、ヤマシタさんのこの企画に追銭してみた。「出資」してみるといいことあるよ。選ばれたクリエイターへの思い入れはもちろん、選ぶこと自体への思い入れも増す。

ヤマシタさんが随分前から継続的に、イチオシを拾って、サポートして紹介する企画だ。ここで紹介する上での意味合いは、教養のエチュード賞と似ている。ヤマシタさんも忙しいのに、続けているのはすごい。単発のnoteだけで評価するんじゃなくて、その人の過去の作品を読んだり、「のびしろ」を推測したり、いろいろなところのバランスをとったりしながら選ばれている。「嬉しいよったら嬉しい!」という共通のキーワードを含むnote群からも、この賞に選ばれることがどれだけnoteクリエイターを勇気づけるものなのか、よくわかる。

「イチオシ」という言葉自体、たいへん主観的で、個人的で、個人が評価するイチオシの評価基準なんて合わなくてあたりまえ。僕も「この人ぜったいおすすめ!」という人がノミネートされたら、しれっとtwitterでヤマシタさんが気づくようにアピったり独自で推し記事を集めたマガジンをつくったりしているけど、他人は他人だから、ヤマシタさんが叫ぶ「好き」の中身に、誰も干渉はできない。ヤマシタさんはむしろ逆忖度する人だからね(あまのじゃくやろ……)。

この取り組みを通じてヤマシタさんが試みているのは、「未来への期待」を表明することだと思う。好きな作り手が知られていくこと、売れていくこと、新しい何かを生み出していくことは、嬉しい。読みが当たっていたと分かれば、その時はなお嬉しい。それはすなわち、自分が好きな未来がつくられていくということなのだから。


「選ぶ」という形で好きを表現することは、「選ばれない」ものが発生する点、選ぶ側にリスクがある。3人の候補から1人を選ぶこと=2人を選ばないことは、その2人がどう思うかをあんまり気にしないとしたって、何かもったいないような気がしてくる。

でも、だからいいんだ。

「好き」って言うのはやっぱり、勇気が要るよ。言わないほうが安全だもん。「全部好き」って逃げていたら波風立たないもん。

でも僕は、リスクをとって「好き」って言い続ける人生を選ぶ。そこから生まれる未来に、出会える奇跡に、希望を託したいと思う。

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いつのまにか本note、某偏愛活動集団のステマっぽくなっていますが……(実は全く関係者じゃありません)(彼らのことは正直よくわからないので自己紹介記事を読んであげてほしい)

「You!好きって言っちゃいなよ!」

クレイジータンクというムーブメントの面白いところは、noteで「偏愛」をただ叫んでいただけの人々が、つながって、一緒に盛り上がって、盛り上がるだけじゃなくて何か企業コラボ的な未来感のある活動に昇華させていっているところだ。これはまあ特定の人物の人柄に負うところもあるかもしれないけど、「好き」って、それだけですごいエネルギーを持っているよね、ということはなんとなくわかる。

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ひときわコンテンツ愛がつよい書き手の一人に大麦こむぎさん(むぎちゃん)がいる。

有益な情報は書けなくても、コンテンツへの愛は書ける。
そう思えるようになったのはnoteのお陰なんです。
楽しんで文章を書けるのはnoteのお陰なんです。

彼女がいま中心にいる、『#100文字ドラマ』の話。【「すき」という言葉が無くなった世界。】という制約の中でドラマのシナリオを書く。これは絶妙な制約条件で、さすがだなと思った。早速、このテーマに絡む作品として、さまざまな「すきって言わない好きの伝え方」が提案されている。ことばの制約が、大きく想像力を飛躍させる。

実は、前回僕が教養のエチュード賞に出したSFの話も、どれだけ「好き」という表現を使わずに好きって言えるかをけっこう工夫した(そしてその点は嶋津さんに届いた。「SF好きの友人」っていう一箇所が残っちゃったのは油断であった……!)。単に「好き」っていうのもいいけど、そして「好き」という2文字に深〜い意味が込められるような文脈も存在するけど、多彩な表現/語彙/比喩/方法を駆使して好きを表現しようとする努力は、楽しい。

そもそも「好き」ということ自体に、いろいろな形/段階がある。好奇心、嗜好、評価、信頼、愛情。表現する過程で、表現し続ける過程で、好きの形は変化することもある。

それだけ、表現方法は無限にあるということだ。どうやって「好き」を表現できるのか追い続けることは、とてもクリエイティブな行為だと思う。

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ここ数日、note/twitterの仲間界隈で「フェチを語る」的なのが流行っているんだけど。(別にそれに乗っかるつもりはないが……)

オンラインで、あるいはオフラインで、マニアックな「好き」をやたら具体的に語っても、笑って受け入れてくれる仲間がいるというのは、ほんとうに稀有なことだと思う。リアルな身の回りにはそうそういないだろうし、興味が可視化されやすく無数のサークルがあるインターネットの海の中でだって、そんな都合良く出会いはないだろう。

いま、そんな仲間に巡り会えている人たちは、その仲間を大切にできたらいいと思う。

一方で、「めぐりあい」への確立された攻略法は、無い。こうすれば仲間ができる、こうすれば受け入れられるなんてことはきっと言えない。このnoteで言及しているような、「好きと言い続ける」「書き続ける」ことすら、ひとつの可能性にすぎない。不確実だ。不確実だから、100発撃って命中0個ということだって普通にありうる。でも、1発当たるくらいの幸運は、きっとあるよ、いつか。

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少なくとも僕にとって、noteは自己中心的な表現媒体だ。

たった1年書き続けただけで、ここまでに言及したさまざまな側面——ポジティブな空気、信頼できる関係、ほしい未来、エネルギー、想像力、仲間——そんな収穫を、限り無いほど得てきた。

一方で、自分の発信が他者にどんな影響を与えているのかは、他者の側に言ってもらわなきゃわからない。好きって言ってもらえると、ものすごく嬉しい。僕の「嬉しい」を生み出したのは、発信してくれた人の勇気のおかげ。

だから最後にもう一度、これを読んでくれたみんなに伝えたい。

めげずに「好き」って言い続けていこうよ。何かいいことあるよ、きっと。


#呑みながら書きました #教養のエチュード賞


(いま〆の段落書きながら涙してる。困るねぇ、お酒って。)

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