揺れていた一人称を、もう一度『私』に揃えていく。
そんなことを考えたのは、藤原伊織の『テロリストのパラソル』と『てのひらの闇』を、このところ同時に読み返しているからだ。どちらも、40代男性主人公の一人称視点で語られ、地の文では「私」が用いられる。これが、心地よかった。
直木賞作家の藤原伊織さんは、1948年大阪生まれ、東大・仏文の出で、電通に勤務する傍ら、いくつもの小説を生み出した人だ。
『テロリストのパラソル』は、20年前に東大全共闘の闘士だった「くたびれたアル中の中年バーテン(元ボクサー)」の主人公・島村が、奇妙な事件の謎を追う話。
『てのひらの闇』は、かつて飲料メーカーの凄腕広告マンたった「くたびれたアル中の中年サラリーマン(元極道)」の主人公・堀江が、奇妙な事件の謎を追う話だ。
……くたびれたアル中の中年を「ロールモデル」と言ってしまうと語弊があるだろうか? 私は体質的に、アルコール中毒とは無縁の人生を送りそうだ。とはいえ10年もすれば、それなりに摩耗して社会を眺める40代になる。40代男性のストーリーを描く作家として、藤原伊織の数冊は、大学の頃からずっと、手放せなかった。何度読み返しても、この人が一番好きだと思えた。好きな作品を、もっと何回も何回も読むべきだと思った。
ハードボイルド作品に描かれるような、肌のひりひりする事件や警察や裏社会や暴力とも、おそらく無縁で過ごすだろう。10歳以上も若いきびきびしたヒロイン――その設定すら二作品に共通する。島村の元恋人の娘・塔子、堀江の直属の部下・大原――とほのかな恋心を通わすような展開もない。重なるところがあるとすれば、ひとつひとつの情景の捉え方、何かの変化に対する反応の仕方、会話の中での応答……そういった、汎用的な部分になる。汎用性があるから、フィクションは十分「実用的」と言えるのだけれど。
さて。
男性がつかう「私」という一人称には、静かで理知的な印象が伴う。ハードボイルドは推理小説のスタイルのひとつで、物語は情報と論理の組み立てで謎を解いていくもの。だから、怜悧さを際立たせる「私」という選択には、合理性がある。
その夜、私はひとりで屋上にいた。切るように冷たい夜気の向こう、鮮やかにまたたく光の集合がある。渋谷の灯だった。ごく近くにもみえるその風景をずっと眺めていた。静かだった。(テロリストのパラソル)
好きな作家と一人称の組み合わせは、多岐にわたっている。
本多孝好『ALONE TOGETHER』の一人称は「僕」。細身でしゅっとした、若くて淡泊な「男子」の印象だ。ミステリー作品でも、本多孝好の「僕」は、魔法のように鮮やかに謎を解体していく。
朝井リョウ『何者』の一人称は、「俺」。就活をこじらせた演劇系20代男子にぴったりだ。朝井リョウは作品ももちろん、作家自身の人柄が好きだ。「俺はね」と言う時の、不敵な笑み。
独身だった10年前には、「僕」や「俺」がはまっていたかもしれない。実際、学生時代は「俺」で書いた文章もあったはずだ。ただいまは、ぐらぐらと揺れる歪んだスツールのように、どうにも落ち着かない。
一方、上述の藤原伊織作品でも、主人公は話し言葉のセリフの中で「おれ」を用いている。「俺」と「おれ」でも印象は少し違う。私と、おれ。硬と軟、剛と柔、冷と熱、表と裏。その使い分けは、心地よさそうだ。
もうひとり、「私」のスマートな使い手がいた。
ある朝、眼を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。/私はインドのデリーにいて、これから南下してゴアに行こうか、北上してカシミールに向かおうか迷っていた。
深夜特急。沢木耕太郎だ。
ノンフィクションの名手である沢木さんは、文章面のお手本のひとりでもあり、エッセイ集『銀河を渡る』も本棚の目立つところに置いてある。意識して中をめくると、25年間「私」のスタイルは変わっていなかった。どこか遠くから自分自身を見下ろすような、客観性と誠実な描写。研究はまだまだ進んでいないが、ここにもひとつのロールモデルが存在した。
🚂
私の「一人称問題」、発端は昨年10月24日まで遡る。
林さんの観測範囲では「私」は相当限定的なものらしい。
この記事のあと、実験的に「僕」を使ってきた。多く読まれた記事のいくつかにも、書き手としての「僕」が登場する。「私」は不在だ。
けれど。3ヶ月近く経っても、「違和感は薄らいだ」程度なのだ。
なりたい自分の姿とか、見られがちな像とか、そんなものは脇に退けて。私自身が「浸っていて心地よいフロー」に、身を預けるような。
そんなふうに、私は文体を選んでいく。
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