甘いしあわせ

俗社会に溶け込む大人になってからというもの、どうも甘いものが苦手だ。
甘さという刺激に対して、心がうんざりして、そして口中の歯と舌とその周りがうんざりしてしまう。食事は米がありゃ十分だ。いつもは炊飯器で米を炊くが今日は特別釜で炊いてみようかな。「ピンポーン」
呼び鈴が鳴った。米びつの前で立ち上がって玄関へ向かった。どうやら、おとなりさんがケーキを作りすぎてしまったのでよかったら食べてほしいとのことらしかった。
長方形のタッパーに切り良く収まったバターケーキはツヤがあり美味しそう。甘いものは好きではないけど、これなら食べてもいいかな、とそう思った。

部屋へ戻ると、座卓の上に一通の封筒。昨日書いた、しあさってに誕生日を迎える福岡の友人への手紙、そういえば今日の内に出さねばいけない!外套を羽織って封筒を片手にもって部屋を出た。郵便局へ向かう道には3回横断歩道を渡る。そのうち、二つ目の信号待ちをしていたところ、後ろから声をかけられた。振り向くと、中学の同級生で今でも互いの家を行き来しあう友人だ。
「よかったら今から家へ来ない?実はちょうどシフォンケーキを焼いたところなんだけど、できたてを誰かに食べてほしくて」断る理由も見つからず、手紙はポストに出して友人宅へ向かった。甘いものは好きではないが、友人と一緒に、彼女の作った菓子で時を過ごせるなら悪くないかなと思った。彼女は丁寧に紅茶を注いでくれ手6等分に切ったシフォンケーキの一片を皿にそっとおき、真っ白いクリームを添えてくれた。ケーキも紅茶もやさしくおいしかった。彼女とのおしゃべりも心地よく楽しかった。小一時間程して彼女宅を出た。
家路を歩いていると目の前を歩く見慣れた後ろ姿に気づいた。それはパン屋のおじさんだと、思い出した。そこのパン屋はとてもおいしくよく通っていたのでおじさんの後ろ姿からでもおいしそうな焼きたての薫りが漂っているような気がしてうっとり眺めていた。するとコーナーを曲がるとき、おじさんが手に提げていたクリーム色の小さいかばんから、するっとキーホルダーが滑り落ちた。大きいのと、小さいの、2つの鍵がついていた。「いけない、あれは店の鍵と店のシャッターの鍵にちがいない、鍵がなければおじさんは店を開けられない」そう思うよりも前にキーホルダーを拾い、「おじさーん!かぎおとしたよー!」拾った鍵を高く持ち上げておじさんによく見えるように揺すった。  
おじさんはおどろいた顔をしたがすぐに「おー、助かったよ、店を開けられずあたふたするところだったナ、ありがとうヨ、あ、そうだ、ちょっと待っていて。きみに心ばかりのお礼がしたいんだ。」そう言って店の方へ走っていったおじさんを道の脇で待っていると、5分くらいしておじさんが戻ってきた。見るとその手に紙袋を持っており、中にはガトーショコラの切れ端を存分によせあつめたパックが入っていた。紙袋の外からでもカカオの芳ばしい香りが溢れていてそれはもうこの世のどんな食べ物よりもおいしいものだと信じさせるように心と食欲を惹きつけた。

なるほど、甘いものは口で感じる糖の味よりひと口食べた瞬間につくった人からの愛が心をあたためるから、甘さがはじめて幸せに変わるんだ。
家へ帰ると開けっ放しだった米びつの蓋をしめ、もらったバターケーキとガトーショコラを少しずつ皿に盛り、友人がしてくれたように紅茶を丁寧に注いでゆっくりゆっくり甘いしあわせに浸っていった。