鋭い勘違い

アオテンは朝4時半に起きる。スマホのアラーム音で目が覚め、ぽわーっと大きなあくびを一つ打つ。ぼさぼさの寝ぐせ頭を横たえた枕の上に敷いたタオルがよれている。信じられないほどに軽く薄っぺらい掛布団を脇によせて、アオテンは仰向けのまま両足をそろえて高く掲げ、両手で膝の裏を支えるように抱えて、自分の足の甲を見つめた。爪が伸びすぎているかもしれない。はて、最後に爪を切ったのはいつだったけな。アオテンはそう思いながら、足の指をめいっぱいに広げてみたり、まためいっぱいに結んでみた。足の指をつかってじゃんけんの型をつくれるのではないかと思い立ち、五本の指に力を込めて大きく広げたと同時に「パー」、かたく結んで「グー」と小声で言った。しかしチョキに挑戦すると今度はうまくいかず、親指と人差し指をひらいたまま、ほかの三本を閉じようとしてもつられて人差し指も一緒に閉じてしまい、ついには左右それぞれの五本の指が不規則にうじゃうじゃ動くばかりで、それは自分の足であったが見たことのない野生の生き物のように感じた。

アオテンはチョキを諦めてベッドから身を起こし、カーテンを開け、部屋の奥にある本棚から一冊のノートを手に取った。アオテンのノートとは、もう七年もまえから毎日欠かさずつけているという日記である。彼は他人(ひと)に対してよくほらを吹いたり、約束の時間をたったの一度さえ守らないような男であるが、自身については率直で、毎日の習慣を一度きめてしまえば必ず続けるような精神の平穏な安定を持ち合わせていた。

彼はノートの一番新しいページをめくってみて、そこには昨日の日記が書かれていたのだが6行ほど文章がつづられた後でページの下に鉛筆の殴り書きで、ある男の絵が描かれていた。その絵は、やつれた細い目に厚い唇をぎゅっと結んで猫背の胴体をボーダー模様のTシャツが包んでいた。男の絵は上半身で切れていた。アオテンは昨夜自分で描いたその絵をもう一度眺めて目を瞑って首を傾げた。というのも、昨日の日記からさかのぼって4ページ、全部に同じ絵が描かれていた。4日前アオテンは家から20分歩いた大通りの抜け道に構えるひっそりした古書店にはじめて足を入れた。その店を知っていたわけでなく、孤独の退屈を晴らそうと散歩中あたらしいルートを開拓した時分にたまたま発見したのである。

アオテンが店の入り口をまたごうと、店内を除いた瞬間にある男と目が合った。アオテンはぎょっとした。これが例のボーダーシャツの男である。アオテンはそのきりっとした細い目の深淵にたたずむ美しく濁った恐ろしいものを忘れなかった。その日は狭い古書店の中をぐるっと一周したきり帰宅したが、次の日もその次の日もアオテンは妙に吸い寄せられるように古書店に足を運び、するとそれと一対の因果のように必ずボーダーシャツの男がいた。4日目の昨日、アオテンがまた古書店へ行くと今度はボーダーシャツが、古書店のオーナーらしき中背のおじさんと話し合いしているのが見えた。アオテンが店に入ると同時にボーダーシャツとオーナーがアオテンに目をやり、顔を見合わせてなにやら小さく笑った。アオテンは自分のうわさばなしをされることは気にかけないがなんだか歯痒かった。ふとボーダーシャツが昨日までと一変、白地にオレンジの細いボーダーになってると気づき、今時このような愉快なTシャツを好む男がいるものかと感心しつつ、そのボーダーが古書店内の雑多に羅列する本の様子やその雰囲気によくマッチしているように感じた。アオテンは4日目にして初めて適当な文庫を二冊もらい、硬貨を2つオーナーに渡して店を出た。

アオテンは日記を閉じて棚に戻し、今度は、昨日買った二冊のうち、古びているいかにも古書だと威張ったような顔つきの方を本棚から取り出し、手に取ってみると、なぜだか今すぐに読み終えてしまおうという気がメラメラ湧き上がってきた。アオテンは丸椅子に座りページを開いて読み始めた。するとしばらくして小さいしおりの挟まれたページに行き当たった。そのしおりは真紅の薔薇と細かく煌びやかなかすみ草と、アオテンには名前の分からないもう一つの種類の黄色く丸い花が花瓶に飾られた写真が描かれており、使い古されたようにしおり全体がうっすら汚れていた。この時にハッとした。この5日間、彼の中で彼を惑わすあらゆる事象が根拠を持たずして一気につながった。

アオテンはそのしおりを握りながら開店時刻きっかりの古書店に向かって、入り口前でまだかまだかとボーダーがやって来るのを待ち伏せていた。しかしあまりにも早く来すぎたので、10分、30分、1時間待っても男は現れない。しかたなく古書店の向いにある喫茶に入り、喫茶の窓から古書店の入り口にヤツが来るまでじっと監視することにした。アオテンのテーブルに、真っ黒いコーヒーが運ばれてきたときその若いウェイトレスはアオテンの目を見てにっこりした。アオテンも気分が晴れてウィンクで返そうかと思索しかけたちょうどその時、窓の外でボーダーが着の身着のままズボンのポケットに両手を突っ込んで古書店へ向かっていくのが見えた。アオテンは念入りに淹れられたコーヒーに触ることなく、お代だけ払って喫茶を飛び出た。しおりを握ったまま、まっすぐ古書店へ入るとたちまちアオテンは一瞬間前とはウラハラ一気に緊張が押し寄せてきた。アオテンは立ち止まって息を一つ吸ってまた一つはいてから、奥の詩集のコーナーにいるボーダーシャツへ近づいた。ボーダーシャツがアオテンに気づいて振り向くよりも前にアオテンはついにしゃべりだした。

「私は4日前に初めてここへ来ました。同時に初めてあなたをお見かけしました。あなたを見たとき、一見味がないが、腹の中になにかすさまじく恐ろしい謎を秘めているように感じ、それから今日の朝までずっと不可解に思えていやでも応でもあなたの謎について考えてきました。それがついさっきがてんしましてね、あなたが毎日着ているシャツが今の私にはボーダーにはまるでもう見えないですよ。もはやドットです。チェックです。あるいは市松です。あなたもあなた自身でそのボーダーのことをボーダーと認識してはいないんでしょう。愛あればこそ外と内とで全く姿を別にしてしまうんでしょう。結構です、何よりもまず私はあなたがこんなにもあたたかく、愛に愛され愛を愛す、真直人子だと知れてよかった。わたしもあなたのことを敬いますよ、そしてこれ、花は咲く前が神秘を秘めて最も美しいものと信じていましたがね、咲いてしまうとそれはやっぱり美しい。きっと枯れてしまえばもっと美しいのでしょうね。過去の本に忘れものをしては、あなたの心も漏れてしまいますよ、気をつけて。」アオテンはしゃべり終わるとニコニコして自信ありげにしおりをボーダーシャツの前に差し出した。ボーダーシャツの男は、受け取らざるを得ないように胸の間際まで差し出されたしおりを二本の指でしぶしぶ受け取ったがそのしおりの花の絵の細部までをじっくりと目で調べ上げた後で自分の半身に纏うボーダーシャツに目を移し、ドットでもチェックでも市松でもなくはっきりこれはボーダーだと思った。