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【連載小説】「好きが言えない 2」# 29 声援を力に

 本郷クンが生還し、ツーアウト満塁の場面で僕の打席が回ってきた。
 水沢は三塁にいる。僕がヒットを一本打てば彼はホームに還れる。なんとかして還したい。

 バッターボックスに立つ。ライトスタンドから今日一番の声援が届く。
 K高の生徒、保護者、OB……。たくさんの人が、何百という目が、僕一人に向けられている。
 ここでもう一発放てば一気に突き放せる。期待がかかっているのが分かる。

 一度、深呼吸。僕は声援を力に変えようとライトスタンドに目をやった。
 そのとき、僕の目はある一点で止まった。じっと目を凝らす。見間違いではない。確かに、そこにいる……。

 瞬間、時が止まったかのように思えた。母が、来ている。しかも、父の遺影を手に持って……。
 目の前がかすむ。僕は眼鏡を直すふりをして目の端の水滴を拭った。それでも動揺を抑えることが出来ない。

 いつから? いつから見ていた……? さっき打ったホームランを母は父とともに見守ってくれたというのか……?

 僕の心中など知るよしもなく、ピッチャーは構えの姿勢に入る。バットを握りしめるが繰り出される速球に対応できず、空振りする。結局僕は一度もバットに球を当てることが出来ないまま三振に終わった。

「どうした、永江。何か、あったのか?」

 ベンチに引き上げると、水沢が僕の異変に気づいて声をかけてきた。ひた隠しにすることも出来た。が、彼の前でそんなことをしても無意味であることは分かっている。

「親が……来ていたんだ……」
「えっ……。そうか……」

 事情を知っている水沢はそれだけ言って黙り込んだ。先ほどまで活気に満ちていたベンチが静まりかえる。

「……部長、いけますか? 次の守備」

 本郷クンが言いにくそうに告げた。

「ああ、大丈夫。行こう」

 まだ八、九回が残っている。気持ちを切り替えなければならない。
 マスクをかぶり、いざグラウンドに出て行こうとした、そのときだ。

「行きましょう!」

 本郷クンが僕の背を叩いて真っ先に飛び出していった。続いて守備陣が一人ひとり同じように、時にひとこと声をかけ、走り出ていく。

「部長。何があっても私たちが、仲間がいます」

 最後に春山クンがそう言い、僕の背をそっと押した。

「……よし、行こう!」

 そう。僕はもう、振り返らないと決めたのだ。きっと、母も。
 試合に集中しよう。そして勝利を手にしよう。それが僕の、いま成すべきことだ。


   *


 春山と交代し、ベンチから試合の行方を見守る。が、その前にやはりライトスタンドが気になって思わず目をやる。

 高校に上がってからただの一度も見に来たことがなかった永江の母親が、今日になってやってきた。おそらく、永江がメールを開封したことと無関係ではないだろう。

 もしかしたら、顔を合わせなかっただけで何度も見に来ていたのかもしれない。あのメールの文章を見る限り、永江の母親は決してあいつを見捨てたり嫌ったりしてはいなかった。
 ストライクの声が耳に入り、視線をグラウンドに戻す。

「永江なら大丈夫さ」
 監督が隣で静かに言った。

「そうですね」
 俺がうなずくと、

「彼はもう、宿題の答えを見つけたよ」
 監督がつぶやいた。

 宿題の答え……。監督が永江に出した、「例」の宿題のことか。


「監督。永江が見つけた『答え』が何か、教えてくれませんか?」

「教える? 君はもう、その『答え』を知ってるはずだよ。永江は忘れていた『それ』を思い出したというだけのことだ」

「……誰かを愛する、ってことですか?」

「そう。ただし、愛にもいろんな形がある」


 試合中だ、仲間の応援をしなさい。質問攻めの俺を監督が諭す。

 ミットを構える永江の表情はうかがい知ることが出来ない。けれど、本郷の投球を見れば分かる。

「ストライク! バッターアウト!」

 一人目がアウトになった。野手のみんなが本郷の投球をたたえる。特に春山の高い声がよく通る。本郷が見るからに嬉しそうに笑う。
 そうか、「愛」か。本郷を強くしているのは。俺自身、彼女が見ていると思えばこそ、ここぞという場面で打つことが出来た。なら、永江も……?

 春山の言った通り、球は一度も二塁に転がることなくチェンジとなった。それでも春山は嬉しそうに駆けて戻り、恋人とハイタッチを交わした。本郷の方は今にも抱きつきそうな勢いで春山に近寄る。

「やっぱ、詩乃が後ろで守ってるだけで違うな。……あっ、水沢先輩が信頼できないって意味じゃないですよ?」

「いいよ。俺だって認めるよ、おまえらの仲の良さは。ったく、うらやましい限りだ。その調子で、最終回の守りも頼むぜ」

「はい!」

 元気のいい二人の脇をすり抜け、静かにマスクを取る永江のそばに立つ。


「あと、アウト三つだな」

「ああ」

「最後は空振り三振だと気持ちいいな」

「……そうだな、それは最高だろうな」

「本郷にそう言っておくよ。永江がそれを望んでるって」

「いや、僕から言うさ。一つも打たせるなってね」

「そりゃあ頼もしいぜ」


 八回裏は一番から始まる好打順だったが、交代したピッチャー相手に三者凡退に打ち取られ、あっけなくチェンジとなった。
 いよいよ九回表。ここで抑えれば試合は終わる。本郷と永江。ふたりの技量が試されるときだ。


   **


 あとアウト三つ。水沢はそう言ったが最終回でのそれは重みが違う。誰よりも本郷クンが一番感じているはずだ。僕の口から伝える、と返事はしたがプレッシャーはかけたくなかった。だからあえて反対のことを言う。

「気負うことはないさ。打たれたって裏で取り返せばいい。そうすればサヨナラ勝ちだ。そういう勝ち方もドラマチックでいいじゃないか」

「あはは、部長が言うとなんか格好いいですね。分かりました、気楽に行きます」

「そう、それでいい。大丈夫。君の後ろにはなんたって……」

「詩乃がいますからね」

「ああ。君の雄姿をぜひ見せてくれよ」

「はい!」

 ここまで勝ってきた試合はすべて本郷クンがひとりで投げてきた。勝てる投げ方も彼なりに分かってきていると思う。だから心配はしていない。

 むしろ心配するのは僕の方。ここへ来てなぜか緊張している。
 おそらくは勝ちを意識しているせいだろう。親の姿を認識したとたん、絶対に勝ちたいという気持ちがにわかに湧いてきて打ち消すことが出来ないでいる。

 僕がここまで積み重ねてきた努力の結果を見せつけたい。僕を強くしたのは野球なのだと声を大にして言いたい。どこか怒りにも似た感情が今の僕を支配している。

 こんなことではダメだ。本郷クンには「気負うな」と言ったのに。
 ひとりで思案していると、本郷クンに強く肩をつかまれた。

「部長、その顔、ダメですよ。前に戻ってる。その、怖い顔の部長、おれ、正直言って嫌いです」

 はっとさせられる。彼は続ける。

「詩乃と別れろって念を押されたとき、部長とバッテリー組むの、やだなって思いました。一緒にやってて全然楽しくなかったからです。だから大津と組みたかった」

「…………」

「そのころの部長は、なんだか必死すぎて怖かったんです。けど、監督がやってきてから部長は変わりました。笑顔が増えたし、褒めてくれるようにもなったし。そっちの方が、おれはずっとやりやすいです」

「そうか、僕はそんなに変わったか」

「……一つ、聞いてもいいですか? 部長はあのとき、恋は人を腐らせるって言いましたよね? 今でもそう思ってるんですか?」

 聞き方は違えど、それは監督が僕に与えた宿題の答えを問うのと同義だった。僕はゆっくりと息を吐き出して言う。

「いいや。……恋だけじゃない。人は何かに夢中になっているときにこそ真の力を発揮する。今はそう思ってる。春山クンがセカンドに入ってから君の球は明らかに速く、正確になった。それが何よりの証拠だよ」

「じゃあ……部長は? 部長に真の力を発揮させてるものって何ですか?」

「野球に決まってる」

「なら、そんな顔してる場合じゃないですよ。最高に楽しんでる顔してください。そしたらそこに、最高の球を投げますから」

 そう言って彼は先に笑った。

「君とバッテリーを組めたこと、僕は誇りに思うよ」

 彼の助言がなければ、僕は絶好調の彼の球を取り損なったかもしれない。自分で自分を責め、また以前の僕に戻っていたかもしれない。
 以前の僕が嫌いだったと、正直にかつ面と向かって言ってくれた彼には感謝の言葉しかない。今、彼に放った言葉は嘘偽りのない、本心だ。

「アウト三つじゃない、三人で決めよう。どんな速球も変化球も、僕が必ず捕ってみせる」

 今の彼はプレッシャーをもバネに出来ると確信した。僕の言葉に彼は力強くうなずく。

「それそれ、その顔です。最終回もわくわくしながら野球、楽しみましょう!」

「了解」
 彼の笑顔に、笑顔で答える。

 本当に、僕は変わったな……。いや、変えさせられたと言うべきかもしれない。

 ほんの少し前まで、僕の進む道は途中で途切れていた。死に神がすぐそこに立っていて、僕がいいと言えば首をはねられるよう、いつでも鎌を振り上げていた。

 死ねば父に会える。だから恐れてはいなかった。「甲子園」という目的がなくなった先の人生には正直、何の魅力も感じていなかった。

 だけど。

 水沢、本郷クン、春山クン、そして麗華さん……。彼らの言葉、そして優しさが僕の凍った心を一気に溶かしてくれた。僕を必要とし、勇気を与えてくれた。

 そう。僕は無価値ではなかったのだ。それどころか常に誰かに愛されていた。
 それは友であり、家族であり、仲間であった。
 その仲間が今、僕の眼前にいる。ベンチにもいる。スタンドにも……。

「あと三人だ! 絶対に勝つぞ!」

 僕は声を張り上げた。

「おう!」

 仲間の返事がフィールドから、そしてベンチから聞こえた。

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