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SS【土壇場の決断】
ぼくはあの日、九死に一生を得た。
そう思っていた。
すべてが凍りつくのではと思えるほど寒い夜だった。
窓枠は凍りつき、開けることは叶わない。
どこからともなく侵入してくる冷気のせいか、家中の床は氷のように冷え切っている。
冷蔵庫の要らない季節がやってきた。
ぼくは寝床につこうとファンヒーターのスイッチを切り、灯油タンクを少しだけ持ち上げた。
よかった。明日の分はありそうだ。
あっという間に部屋の温度は下がる。
布団の中にはすでに大きな湯たんぽがセットしてある。
ぼくは布団をかぶると、湯たんぽで足を温めながらアルマジロのように丸まった。
すきま風の吹き荒れるこの家では、夜中にトイレに行くのもちょっとした冒険になる。部屋に戻ってきたらファンヒーターをつけて冷えた身体を温めないと再び眠りにつくことは難しい。
夢の世界に足を踏み入れた瞬間、ドタバタという足音で現実世界に引き戻された。
バイトから帰ってきた娘が部屋に入ってきた。
洗濯機と壁の隙間にぼくのふくらはぎサポーターが片方だけ落ちていたらしい。今から手洗いして干す元気は無い。というか布団を出たくない。
明日は片方だけ装着することに決め、眠りについた。
ー それから数時間後 ー
ぼくは夢の世界から帰還した。部屋の明るさに驚き、飛び起きたぼく。
寝坊していた。
急いで駐車場に向かったものの、車のドアはいつも以上に凍りつきびくともしない。
フロントガラスは分厚い霜に覆われ、霜取りスクレーパーは車の中。このままでは氷と格闘している間に勤務時間になってしまう。
会社までは一キロもなく、早足で進めばなんとか遅刻はまぬがれると思ったぼくは、防寒着のポケットからアイゼンを取り出した。
この時期はいつも持ち歩いている。さっそく長靴に装着すると、前を歩く人たちを次々と追い抜きながら会社を目指した。
半分ほど進んだところで視界がほとんど無いくらい猛烈な吹雪になった。
それでもぼくは歩みを止めない。
皆勤賞の商品券がもらえなくなるからだ。
年に三日間までなら休んでも皆勤賞はもらえる。しかし遅刻は一回でもアウトなのだ。
もう買うものも決めているのに後になんて引けない。
一度やると決めたら最後までやり通すのが男の意地という奴だ。
ぼくはそんな不器用な男だ。
そんなぼくに、神様はもう一つの試練を与えた。
ものすごくトイレに行きたい。
そのせいで歩き方もおかしくなっている。
今もし滑って転倒したなら、衝撃で栓は壊れ、ぼくは色々なものを失うだろう。
ぼくは諦めなかった。
タイムリミットまで一分を切ったところで会社の正門をくぐった。
あとはタイムカードをピッとすればゲームクリアだ。
でもぼくはどうしても我慢できなかった。
正門近くにある初代会長の銅像の前でオシッコをした。
我慢してきたすべてを解放した。それからタイムカードを押した。
ギリギリ間に合った。
こんなにスッキリしたのは人生で五本の指にはいるかもしれない。
そこで目が覚めた。
ぼくは夢の中で目覚め、夢の中で出勤していたのだ。
目覚ましが鳴っている。
そこにはぼくの想像を超える厳しい現実が待っていた。
目覚ましだと思ったのは会社からの電話だった。
ぼくは寝坊したのだ。
嫌な予感がした。
そして下半身に広がる重力に胸が高鳴った。
ぼくはオネショしていた。
出勤したつもりが失禁していたのだ。
もちろん皆勤賞も失った。
あの時、銅像の前でオシッコをしなければ遅刻だけで済んだはず。
ぼくは自分の決断を悔やんだ。
これだから土壇場の決断は難しい。
終
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