SS【障害物競走】
ここは地の底、たった一筋の光も無い世界。
その名は奈落。
奈落に落ちてくる罪深き者たちに待っているのは、信用できる者など誰一人居ない暗く淀んだ世界での暮らし。
そんな奈落にも恩赦はある。
奈落では年に一度、運動会が開かれる。
中でも一番盛り上がるのは障害物競走だ。
奈落へ落ちてきたばかりのその男は、生前、数え切れないほどの悪事を働いた。悪魔が取りついているのではと思えるほどの非情な犯行の数々は、誰の目から見ても同情の余地はなかった。
中でもお金のために夫婦と幼い男の子を殺害した事件は、何十年経った今でも人々の記憶に残っている。
死刑が執行された日、最後に残した言葉は「早く殺してくれ。お前たちの顔はもう見飽きた」と更生の可能性などみじんも感じさせないものだった。
奈落の障害物競走は変わっていて一人ずつ走る。競走といっても競うのは速さではなく罪の重さだ。生前の罪の重さは障害物に反映される。裁かれなかった罪も、こちらの世界では透き通った小川の水底のようにはっきりと見える。
通常、奈落に落ちた人間に生まれ変わるチャンスが訪れることはほとんど無い。
しかし、この年に一度の運動会で行われる障害物競走で完走できたなら、そのチャンスを手にすることができる。
男も周りが敵だらけの奈落にはうんざりしていたのか参加することを決めたのだ。運動会の様子は奈落の至る所でモニターで観ることができる。それは奈落の住人たちの楽しみでもあった。
「よーーい、どん!!」
男は森の中の道を裸足で歩き出した。
道は一本道で、両側に広がる森の先にあるのは絶壁。道を進むか戻るかしかない。
ふと後ろを振り返ると、スタート地点には男が最初に殺めた女がショットガンを構えて立っている。
男は先を急いだ。散弾ではいくら下手でも当たってしまうからだ。
しばらく歩くと道の真ん中に、小さな男の子がパンツ一枚で男を指差し笑っている。先ほどまでとは道の土の色が少し違うようだ。
男はまっすぐに男の子に近づいていく。
男は気がつくと仰向けで奈落の暗くよどんだ空を眺めていた。
落とし穴だった。
男は強く背中を打ったが、それほど深くなく、すぐに立ち上がって穴を這い上がった。
男の子はいつの間にかショットガンを構えた女の横に立っている。遠くから馬鹿にしたような顔で男を見ていた。
男の子はショットガンを持った女の子どもだった。
男は舌打ちをして先を進んだ。
しばらく歩くと切りたった崖に出た。いくら助走をつけても飛び越えられる距離ではない。しかし戻れば女に撃たれてしまう。
崖の向こうへ渡るためには橋がいる。
すると前方から筋骨隆々で背丈が三メートルはあろうかという巨体の鬼が丸太を肩に担いで歩いてきた。
「ここを通りたければ着ているものをすべて脱いで崖へ投げ捨てろ。そうすれば橋を渡してやろう」
もう後戻りできない男は鬼の言う通りに裸になって、着ていたものをすべて崖へと投げ捨てた。
それを見た鬼は肩に担いでいた丸太を投げ捨てるように放り投げて橋を渡した。
丸太の下は暗くてどれほどの深さがあるのか分からない。
男が恐る恐る橋を渡り切ると、鬼は丸太を蹴って谷底へと落としてしまった。もう後戻りはできない。男がスタート地点の方へ目をやると、鬼はいつの間にか男の子を肩車している。
男は裸のまま先を急いだ。
すると今度はどこからともなく野犬の群れが現れた。十匹はいるだろうか。
囲まれ吠えられ今にも噛みつきそうだが、丸腰で裸の男にはどうすることもできない。
男は自分の正面で吠える犬に見覚えがあった。
生前、トラブルになった家の犬を鈍器で叩き殺したことがある。その犬に違いない。
その犬が仲間を連れ、男に復讐しにきたのだ。
男は大きく手を振り、足を強く踏み鳴らし必死に威嚇した。
しかし犬たちは訓練された警察犬のように瞬く間に男を制圧した。
全身を噛まれ、何ヶ所も肉を引きちぎられ、男は丸くなってひたすら耐えた。
犬たちが立ち去る頃には、男は立ち上がることも出来ず、痛々しい姿で這うように前へ進んでいた。
しばらく這うように進むと、今度はお爺さんが座り込んでいた。
男が何をしているのか聞くとお爺さんはこう言った。
「わしは去年の参加者だ、この障害物競走のな。お前さんもこの道を選んでしまったか。ここは煉獄といって罪を清算する場所。罪を背負いすぎた者の耐えれる場所ではない。だからわしは無になってジッとしている。永遠にな」
男はお爺さんを無視して這うように進み出した。
底知れない闇の中に一点の光を見い出すために。
その目は血の涙で濡れていた。
まるで他人に与えてきた痛みに気づき始めたかのように。
終
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