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SS【山に導かれ】前編939文字


ぼくはついさっきまで、障子もカーテンも閉め切り、照明も消した薄暗い部屋の中に居た。

いつからなんて覚えていない。


食糧は部屋にためこんである。

シャワーする時かトイレに行く時くらいしか部屋を出ない。

そのせいか玄関の扉を開けた瞬間に降りそそぐ光で目がくらみ、手で顔をおおった。

外はこんなに眩しかったのか。


仕事を辞めたのはいいが、なぜか次の仕事をする気にはなれない。

職業安定所に行く気力さえわかなかった。


ぼくはあまり浪費する方ではなく、安アパートの一人暮らしなので蓄えはあった。

もしかすると蓄えはこの時のためにあったのかもしれない。



寝袋と防寒着、それに必要最低限の日用品の入ったくすんだ緑色のバックパックと、腰には財布や携帯を入れたカーキ色のウエストポーチ。

自分でもよく分からないけど、目的地もなく、ひたすら徒歩で北へ向かった。


誰にも見つからない死に場所を求めて。


山がいい。

それもなるべく高く景色の綺麗な山。

それでいて人目につかない場所。

まだ真冬ではないが、山の上は十分すぎるほど冷えているだろう。

そこで薬を飲んで意識がなくなれば、誰にも邪魔されずに断ち切ることができる。

この不条理で憂うつな決して青くない世界を。


登山靴をはき、荷物を背負い、一見すると登山者にしか見えないぼくを不審な目で見る人はいなかった。

今は音信不通になった登山好きの友人に誘われて何度か登ったことのある山。

紫に炎と書いてしえん。紫炎岳だ。

彼は人生の最後は一番たくさん登った山でひっそりと迎えたいと言っていた。それほど山を愛していた山男だった。


すれ違う人のほとんどは「こんにちは」とか、「もうすぐだ、がんばれ!!」とか声をかけてきたので、ぼくは無言で会釈を返した。

ぼくには声を発する元気は無かった。


頂上近くまで登ると雪が降っていた。

すでに十センチは積もっている。

狭い登山道から急斜面を覗きこみ、いい場所を見つけた。

斜面の途中にくぼみがある。

あそこなら何とか降りれそうだし、くぼみの中に入れば登山道からは見えない。

問題があるとすれば、年中寒いこの場所で、ぼくの死体がいつまでも残ってしまう可能性があること。

でもこれで終わりなら、そんなことを考える必要もない。

ぼくは意を決して斜面を滑り降り、くぼみに到達した。



後編へ続く

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