見出し画像

小説【凍てつく魂の地下迷宮】

腰 痛夫 作

※ この物語は、【 不死者の決戦場 】の続編です。

災いをもたらす者

 勇(いさむ)、あかり、一人(かずと)の三人は、蜃気楼のように揺れる空間に姿を消した。ウイッチは三人が図書室に戻ったのを見届けたあと、みんなが消えた揺れる空間を数秒見つめてから決戦場に戻っていった。

 ウイッチは再び決戦場内に入った。主張の強いパチッと開いた目で周囲をグルっと見渡したあと、不思議そうな表情で少し首をかしげてから、入り口から見て右側に見える四本の柱の方へ歩いていく。一番手前の柱、そのすぐ横にそれは落ちていた。ウイッチの黒いリュックだ。

 あの時、勇たちを助けるため、ウイッチは決戦場入り口で巨人の脚にペティナイフを突き立て、巨人の股の下をくぐって勇の方へ走り出した。その瞬間、巨人にリュックを掴まれ、ウイッチは素早くリュックを脱ぎ去り、寸前の所で難を逃れた。巨人は怒りをむき出しにし、掴んだリュックをここまで投げつけたのだ。

 ウイッチはリュックを拾い、手でパパッとホコリを払ってから素早く背負う。突如、ザザッという音とともに、奥の柱の陰から四体の異形の者たちが姿を現した。四体とも目は赤く充血していた。顔の一部が潰れている者。足が捻れている者。腕が肩から千切れかけている者。裂けた腹部から、はらわたをぶら下げている者もいた。まだ生き残りがいたようだ。ウイッチは驚いたが慌てなかった。奴らの移動速度が遅いことを知っていたからだ。すぐさま決戦場を出ようと走りだす。

 奴らのトロさを考えれば走らなくても逃げ切れる。それでも奴らから早く離れたかったのか、ウイッチは走った。

「ウガ ア ア ーー! 」

 ウイッチが決戦場を抜け、通路に入ったや否や、背後から迫ってきた奴らに襲われた。それはウイッチの知っているゾンビの移動速度ではなかった。まるで何かに操られているかのように身体能力が異常なほどに増したゾンビたち。そのうちの一匹は、スライディングでもするかのような勢いでウイッチの足首を両手で掴み、もう一匹は左肩に噛みついた。残りの二匹も勢いよく迫ってくる。

 わずか数秒でウイッチの身体に毒が回り、視界は薄れ、もうろうとした意識の中で、ゾンビたちが退路を塞いでいるのが目に入った。ウイッチは決戦場の奥に向かって死に物狂いで逃げた。

 決戦場右奥の柱まで走り、柱の陰に身を隠す。ゾンビたちはあまり見えていないのか、ウイッチを見失った様子で、決戦場真ん中辺りをウロウロしている。

 不安そうに柱の陰に身を隠すウイッチに、何者かが頭の中に直接語りかけてきた。年老いた男性のようだったが、ゆっくりとした低い声で語りかけてくる声の主は、どこにも姿が見当たらない。

 声の主はウイッチにこう伝えた。巨人の亡骸から鍵を奪い、宝箱に入った不老不死の霊薬を呑め。そうすれば立ち所に毒は消える。急がなければ毒は全身を蝕み、不死者となって他のゾンビたちとともに命が尽きるまで徘徊することになると。

 ウイッチは身体の自由を奪われているかのように、体中の関節が思うように動かなくなってきていた。脳から筋肉への指令がワンテンポ遅れているような動きになっている。そして、毒による苦しみと迫り来る不幸に恐怖したのか判断を誤ってしまう。

 ウイッチは決戦場に横たわる巨人の首からぶら下がる鍵を取り、決戦場右奥の、柱の陰に隠れた壁にかかる梯子を登った。そしてその先にある二畳ほどの狭い空間にある宝箱を開けてしまった。

 宝箱の中に不老不死の霊薬は無かった。そもそも不老不死の霊薬など存在していなかったのかもしれない。そして勇たちが宝箱と思っていたものは、災いをもたらす者の魂を封印するために作られた、強力な呪力のかかった箱だった。長年の呪縛から解放された魂は、ウイッチの意識に入り込んだ。


 災いをもたらす者は、その昔、屈強で勇敢な冒険者たちの手によって倒された。肉体は死に、魂は誰も知らない空間に他の怪物たちと一緒に封印された。あの本、(決戦場)を手にしない限り辿り着くことのできない空間だ。しかし災いをもたらす者は、封印され影響力を失ったあとも、自分の魂の器になる身体を探し求めていた。気が遠くなるほどの長い長い間、復活の機会を辛抱強く待っていたのだ。

 そこへ勇たちがやってきた。ウイッチはまんまと罠にかかり封印を解いてしまう。数百年もの間、誰にも破られなかった封印を。


 勇はあかりにDMを送った。例の本(決戦場)をウイッチの家から持ってきてほしいと。自分が決戦場へ行ってウイッチの真意を確かめたかった。ウイッチはなぜ、たった一人で決戦場に戻ったのか? ブログに書かれていた言葉、この世の闇の頂点に君臨したいとは、何を意味しているのだろう? 

 あかりの話によると、決戦場を無事抜け出してから車で帰る時、ウイッチの目は異常なほど真っ赤に充血し、顔色は青白く、生気が無くなっていく感じで、見ていて少し怖くなったくらいだったらしい。あの時、たった一人決戦場に残ったウイッチに何があったのか? あかりの予想通り不老不死の霊薬を取りに戻ったのか? ウイッチに聞きたいことはいろいろある。

 あかりからすぐに返信が来た。すでにウイッチの家族から例の本を貰っていて、あかりの家にあるという。そして最後にこう書かれていた。

(不死者の王の絵が消えて、氷の魔女に変わりました)

 あかりから連絡があって、返信しないまま三日が過ぎようとしていた。勇は、どうしても自分の中で答えを出せずにいた。ただ一つ確かなのは、このまま何も行動を起こさなければ、必ず後悔するということ。それだけはハッキリしていた。

 そんな中、あかりから会って話したいと連絡が来た。十一月に入り、暑がりの勇でさえ朝晩は暖房に頼り始める頃、勇とあかりは、懐かしい昭和の雰囲気が漂うカフェにいた。派手過ぎないアンティーク風のシャンデリアから放たれる、明るさを抑えた暖色系の光が店内を優しく包み、落ち着いた大人の空間を演出している。壁に飾られた花や自然の景色が描かれた絵画は心を和ませてくれている。

 二人は再会の挨拶もほどほどに席に着いた。

「私、不死者の王の絵が氷の魔女に変わってから、毎日、本に変化がないかチェックしてたんです。で、一週間くらい前に内容が変わりました。内容というか、タイトルからです」

 あかりはそう言ってショルダーバッグの中から例の本を取り出し、勇の方に向きを直してテーブルの上に置いた。あの時、勇が図書室で見た、古びて茶色く変色した本のように見えたが、タイトルは違っていた。

「凍てつく魂の地下迷宮? この本は俺たちが行った決戦場ではなく、今度は地下迷宮に繋がっているの?」

「分かりません。入場方法は書いてありますけど、まだ試してないので」

 あかりは本を勇の方へ向けたまま最初のページを開いた。大きく扉の絵が描かれている。どっしりとした重量感と無機質な冷たさが伝わってくる金属でできた両開きの引き戸だ。

「この扉が地下迷宮への入り口みたいです」

 次に、あかりは最後の方のページをめくった。そこにはこう書かれていた。

※ 入場方法

扉のページを開き、扉を開く

※ 退場方法

一階入り口の階段から退場する

 あかりは勇が読んだのを確認して、その前のページも見せた。

※ 地下迷宮のルールは三つ

① 入場も退場も何度でも可

② 一度に入場できるのは四人まで

③ 地下迷宮の中では、強い念のこもった言葉が具現化する

 その下には、決戦場の時には無かった注意書きがあった。

※ 注意!

地下迷宮は五層からなっており、下層に行くほど強力な怪物が棲みついている。

「あとはすべて怪物たちの絵でした。決戦場の時に書かれていたものと同じだと思います」

 あかりはそう言ったあと、店で一番大きなサイズのホットココアを一口飲んだ。勇は本を手に取り、最初の扉のページから順番にパラパラとめくりながら怪物たちを見ていった。

「たまに大きく描かれているのもいるね」

「はい。大きく描かれているのは五体いますけど、私には何の意味があるのか・・・・・・」

「単純に巨体なのか、あるいは・・・・・・」

「強い?」

「うん、各層のボスみたいな感じかもね」

「勇さん、私にはウイッチの意思で中に居るとは思えないんですよね。決戦場の戦いで活躍しましたけど、あの子、本当はけっこう怖がりだし争いごとも嫌いな温厚で明るい子ですから」

 勇はあかりの言葉を聞いて、廃校に入った時のウイッチが怖がっていた様子を思い出した。

「そうなんだ。俺はウイッチさんと知り合ってそんな長くないから、正直言うと、心に深い闇を抱えているのかと心配してたよ」

 あかりはクスクスと笑いながら言葉を返す。

「ダークサイドは誰にでもありそうですけど、あの世界にたった一人で残るほどの闇は、ウイッチには無いですよ。ただ、決戦場に戻った理由が忘れたリュックを取りに戻ったのか、あるいは不老不死の霊薬が関係してるのかは分かりませんけど」

「そか、それ聞いてちょっと安心した」

 勇はホッとした様子でサンドイッチを頬張った。それを見ていたあかりが言った。

「おいしそうに食べるから私も食べたくなりました」

 そう言ってあかりは、サンドイッチとアップルパイを注文した。

新しい冒険者

 二人が食事を始めてから、特にどちらからというわけでもなく、自然と迷宮の話題は避け、どこにでもあるような世間話に切り替えた。あかりが食べ終わる。勇はパンを六個も食べ、まだ注文しようとしているのを見て、あかりは制止した。

「ちょっと勇さん! 食べ過ぎですよ! それ以上食べたら絶対眠くなりますから! まだ迷宮の話あるんですからね」

 あかりに叱られ、少ししょんぼりした顔を見せた勇だったが、あと二個は食べたかったなと心の中で思った。注文するのを諦め、コーヒーを口に運んだ。

「今気づきましたけど、勇さんて食いしん坊ですね」

 そう言われた勇だったが、これでも控えめにしていると、喉まで出かかった言葉をそっと引っ込めた。

「最近米ばっかりだったから、たまにパン食べたら余計においしいよ。迷宮の話、再開しようか」

 あかりはクスっと笑い、細い吊り目を真っすぐ勇に向けた。

「私、ウイッチを連れ戻しに地下迷宮に入りたいんです。で、もちろん勇さんにも来てほしいです。決戦場の時と同じで地下迷宮も入場できるのは四人ですよね。ウイッチは頭数には入れれないので、勇さんと私だけになりますけど、さすがに二人は厳しいと思うんです」

「だよね。まさか一人(かずと)君にお願いするわけにもいかないしね」

「あの子はもう巻き込みたくないです。まだ中三ですし、そもそも連絡先も聞いてませんでしたし」

「う~ん、場所が場所だから、体力があって信用できる人じゃないと」

「はい。それなんですけど、一人心当たりがあって」

「え? そうなの?」

「はい。私の旦那です!」

 それを聞いて勇は、大柄で屈強な男を想像した。あかりは長身でトップアスリートかと思えるほどの逞しい体つきをしている。その旦那となれば頼りになるかもしれない。

「そういえば、あかりさんって何かスポーツやってたの? 俺は学生の頃、少しだけ空手をやってたけど」

「私はジム通いしてます。ウエイトトレーニングと軽い有酸素運動くらいですね。身長高いからバレーとかバスケやってたように思われるんですけど、ハッキリ言って帰宅部でしたよ」

 そう言って笑った。勇もつられて笑い、話を続けた。

「やっぱり鍛えてるんだね。決戦場の戦いで、あの重たい両手剣を軽々扱っていたから只者じゃないと思ってたよ」

「まあ、力だけは自信ありますね。でも旦那は私の倍以上の力がありますよ。学生の頃はずっとレスリングやってました」

「そっか、旦那さんには話してあるの? 決戦場やウイッチさんの話」

「はい。すべて話してあります。地下迷宮の話もです。ただ、旦那に本は見せましたけど、実際にあっちの世界を見ていないので半信半疑だと思います。旦那は、協力はするけど、一度、決戦の舞台になったあの廃校、しらほね小学校を見たいって言ってます。なので顔合わせも兼ねて三人で行きませんか?」

 数日後、勇は朝から電車に乗って、お昼頃にあかりが住む町の駅に降り立った。改札をくぐり、駅前の広場に出ると、まばらな人の中にモニュメントのように目立つ長身の女性がこちらを見ていた。あかりが勇に向かって元気よく笑顔で手を振っている。近づいていくと旦那らしき姿も見えた。あかりより背は低いが筋肉質で、パーカーの上からでも分かる屈強な体つきはファンタジー世界のドワーフを連想させた。顔の彫りも深い。

「こんにちは!」

 勇は穏やかな声であかりの旦那に挨拶をしながら笑顔を見せた。あかりの旦那は会釈しながら、やや色黒で彫りの深い顔を緩ませた。

「勇さんですね、あかりから話は聞いとります。あちらに車をとめてあるんで行きましょう」

「あ、はい」

 あかりの旦那は低めで落ち着いた感じの声をしていた。三人は廃校に着くまでの間、他愛もない雑談をした。誰も地下迷宮の話題には触れなかった。勇はあかりの旦那の見た目や喋り方、そして雰囲気から誠実で穏やかな人柄だとの印象を受けた。しかし実際に経験していない以上、その話に触れるのはまだ早いかもと思った。あかりの運転するSUVは、急勾配の山道をまるで平地のように、あっという間に駆け上がった。坂を登りきるとそれは見えてきた。しらほね小学校だ。

再会

 あかりは正面玄関の横にある駐車場に車をとめた。

「誰か居る!」

 あかりはそう言って正面玄関前に座っている人物をジッと見つめた。あかりにも勇にも、それが誰だかすぐ分かった。あかりが声を上げる。

「一人君! 来てたんだ!」

 一人は座ったまま微動だにせず、こちらを見ている。あかりはすぐに車を降りて一人に駆け寄った。

「一人君! お久しぶり」

 あかりは嬉しそうな満面の笑顔を見せた。

「あかりさん、お久しぶりです。あれ? 車変わりました?」

「あ、これは旦那の車よ。今、私の旦那と勇さんも来てるの」

 車から勇とあかりの旦那が降りてきた。勇が一人に挨拶代わりに手を上げる。

「一人君、元気してた?」

「はい。まあ、なんとかやってます」

 あかりの旦那が勇に話しかけた。

「この子が一人君でっか?」

「ええ。一緒に決戦場で戦った戦友ですよ」

 あかりの旦那は少し珍しそうに一人の方を見た。一人は会釈してから勇の方を向いた。

「今日はどうしたんですか? まさかまたあの場所に?」

「実はいろいろあってね。ウイッチさん覚えてるよね?」

「はい、ウイッチさんの魔法凄かったですよね。今でも頭の中に焼き付いてます」

「ウイッチさんが居なくなってね、どうもあっちの世界に居るらしいんだ」

「決戦場ですか?」

「あれから本は変化して、今は地下迷宮になってるよ。入ってないから中はどうなってるのか分からないけどね。俺とあかりさんと、こちらのあかりさんの旦那さんで地下迷宮に入って探してみるつもりなんだよ」

「ほんとですか? あの? なんでウイッチさんは、その地下迷宮へ行ったんですか?」

「それは分からない。そもそも連絡がつかないから本当に地下迷宮にいるのかもハッキリしてないんだよ。自分の意思で行ったのかも分からない。だから本人を探して話を聞かないとね」

「じゃあ俺も連れてってください! 力になりたいです」

「気持ちは嬉しいけど、今回は前以上にリスクがあるかもしれないんだよ。一人君にもしものことがあったら、取り返しがつかない。それに受験も控えてるでしょ」

「すぐに行くんですか?」

「今日は行かないけど近いうちに行くよ。今日はあかりさんの旦那さんがこの場所を見たいって言ってね。だから来たんだ」

「そうですか。あの、僕はあと一週間くらいで冬休みなんです。そうすれば何とでも理由をつけて二日間くらいなら勇さんたちと行動できるんで、僕も連れてって下さい!」

 勇はあかりの方を見た。あかりは強めに首を横に振ってから一人の方を見て言った。

「一人君にもしものことがあったら、私たちはお母さんになんて言えばいいの? そうでしょ? だからごめんね、気持ちだけもらっとくよ」

 一人は完全には納得していない不満気な表情を見せつつも、それ以上は何も言わなかった。

 勇は正面玄関の扉を開けようとしたが、施錠されていた。廃校とはいえ、ここは管理されているようだ。念のため、もう一つの職員用の玄関も確認してみたが同じだった。

「今日は開いてないみたいですね。前回はたまたま施錠し忘れてたのかも」

 そう言ってあかりの旦那の方を見た。

「残念やなぁ。例の図書室は見たかったですけど、仕方ないな。いつ頃行きまっか? あかりはウイッチさんのことが心配で、はよ行きたいみたいやけど、準備も必要やんなぁ」

 それを聞いていたあかりが勇の方を向いて口を開く。

「危険なのは予想できるから装備はしっかりしたいですよね。水や食料も要ると思いますけど、あと、武器や身を守る丈夫な服?」

 勇は頷いてから答えた。

「そうだね、防刃ベストみたいなものもあったらいいかも。熱に強い服とか」

 あかりの旦那が口を開く。

「その手の装備をネットで揃えるなら少し日数が必要やんなぁ。武器になるものならホームセンターでも手に入りますけど」

 勇は頷いて答える。

「じゃあ十日後くらいですかね? 遅い?」

 そう言ってあかりの方を見た。

「遅いです。ウイッチの状況も分からないし、勇さんの都合にもよりますけど、もっと早い方がいいです」

 結局、地下迷宮の探索は三日後になった。各自、三日で必要な物を揃えることになった。誰も口にしなかったが、帰ってこられるかも分からない危険な探索になる。本当に必要なのは心の準備かもしれない。勇は心の中でそう思った。

 当日はあかりの家のガレージ内で本を開き、そこから地下迷宮へ入場することになった。一人は残念そうだったが、先の長い若者を、わざわざ命の危険にさらすわけにはいかない。だから連れていかない。勇は一人のウイッチを心配する気持ちを察しながらも、そう決めた。

ウイッチを追って

 勇たちは一人と別れ、駅まで来ていた。あかりたちは勇の自宅まで送っていくと言ってくれたが、気持ちだけ頂いておくことにした。迫りくる死闘の予感が脳内を駆け巡り、早く一人になって心を落ち着かせたかった。疲れていたのか、その晩は家族の誰よりも早く眠りについた。

 翌日、夕方に仕事を終えてから、いつもあまり混雑しない郊外のホームセンターへと向かった。対怪物用の武器として置いてあるものなどあるはずもないが、使い方によっては強力な武器になるアイテムが揃っている。もっと時間があれば、防具などをじっくりネットで吟味したかった。

 あかりの旦那くらいに筋骨隆々なら、両手で扱うような重くて破壊力のある武器がいいだろうな。自分は非力ではないが、あまり重いのは向いてない気がする。勇はあれこれ考えながら店内をじっくり見てまわった。さんざん迷ったあげく、鉈(なた)を購入した。片手で扱えて、なるべく強度がありそうなものを考えた。最終的に片手で扱う斧と鉈か、どちらかで迷った。手に持ってみた感じ、重さにも持ちやすさにも差は感じなかった。なぜ鉈を選んだのかといえば、ベルトに通して腰にぶら下げる鞘(さや)が付いていたことが決め手となった。武器が一つでは心もとないかとナイフの購入も考えたが、これといったものが見つからなかった。その店にあるものの中ではステンレス製のペティナイフに惹かれたが、鞘が付いてなかったのでやめた。

 防具は家にあるもので間に合わせることにした。頭を守るために、うすい灰色の、パッと見、カジュアルな帽子にも見えるヘルメット。これは自転車旅行に行くときにかぶっているものだ。それに真冬にしか身に着けない首を守るための黒色のネックウォーマー。滑り止めのイボ付き軍手。使い古された革ジャンにブルーのジーパン。勇はよくジーパンをはく。単純に好きというだけではなく、デニム生地の丈夫さは今回の探索には向いているだろう。あとは肘や膝、手首など関節を保護するためのサポーター。以前、肉離れした時に買った、ふくらはぎ用のサポーターもあった。すねを保護するサポーターも持っていた気がして家中探したが、どうやらすでに奥さんが捨ててしまっていたようだ。足元はいつも愛用している履きなれたスニーカーに決めた。動きが鈍いのは命取りになる。

 リュックには傷や痛みに対応する薬や、大きめの傷バンと包帯を詰めた救急箱。ライト、保存のきく食料、ミネラルウォーター。勇の好きな、硬くて長い鈍器のようなフランスパンも二つ入れた。

 決行日は仕事が休みだったが、そのあとの二日間も休みを取った。職場でよく話す仲間には、休む理由は適当にごまかし、もう会社に来ないかもとそれとなく伝えた。

 ついに運命の日がやってきた。あかりたちの待つ駅に向かって電車は走っている。勇は思った。これが本当の片道切符かもしれない。車窓から見える移り変わる景色を眺めながら、ふと、十年以上前に辞めた煙草を吸いたいと思った。荷物はリュックとウエストポーチだけなのに、この電車に乗っている誰よりも過酷で長い旅になるかもしれない。仕事のストレスとは比べ物にならないくらいの強い重荷になって心にのしかかっていた。明らかに危険の度合いが違うのだ。

 勇は本に描かれた怪物たちを思い出していた。人間の姿をした者もいた。半分獣で半分人間みたいな者もいた。戦わず、話し合いができる可能性もある。そして最後に描かれていた怪物は魔女ではなかった。一ページずつ頭に焼きつけるように見たが、どのページにも魔女は描かれていなかった。

 そして何より、ウイッチは無事だろうか・・・・・・。勇は目をつむって窓側の壁にもたれかかった。あの時、決戦場で強力な魔法を操ったウイッチは冷静だった。初めてあの場所に来たとは思えないくらい。今思えば、魔法を唱えていた表情に違和感があった。巨人に火球を繰り出して倒した所までは、おそらくウイッチの意思があったと思う。しかし不死者の王に使った氷の魔法はおそらく・・・・・・。

 勇は電車に揺られた一時間に満たないくらいの間に、あかり、ウイッチ、一人と乗り越えた、決戦場での死闘を思い出していた。ウイッチと二人で廃校に入った時に、何があってもウイッチは守ると決めていた。今状況が変わっても、それは変わらない。勇の中で、一度やると決めたら最後までやり通す熱い信念がふつふつと湧き上がってきた。

 電車を降り駅の改札をくぐると、十数メートル先のベンチに座る、あかりとあかりの旦那の姿が目に入った。お昼時だが駅の構内に人はまばらだ。あかりと旦那は何か話していて、こちらには気づいていない。

「おまたせしました」

 勇は、あと三メートルくらいまで近づいたところで、少しゆっくりめに声をかけた。最初にあかりが気づきこちらを見た。それに反応して旦那もこちらを見た。勇はニコッと笑顔を見せて、軽く会釈してから言った。

「こんにちは。おまたせしました」

 二人は立ち上がり、旦那は会釈して、あかりはニコッと大人びた爽やかな笑顔を見せた。旦那の方は上下作業着で上に仕事用の防寒着だろうか、仕事帰りのような恰好をしている。足元にはハイカットの安全靴。工業系の仕事をしているのかもしれない。あかりの方を見ると、アウターはブラウンカラーのダウンジャケット、首にはタートルネックの白いニットセーターが見えている。ボトムスはインディゴブルーのジーパンだ。自分と同じく丈夫さを重視したのかもしれない。足元はミドル丈のボアブーツ。色はグレー。

 あかりの旦那が口を開く。

「行きましょうか」

 勇が頷いたのを確認したかのように、クルリと背中を向けてゆっくり歩き出す。あかりのダウンジャケットには大きなフードが付いていた。勇の革ジャンにも付いている。勇は帽子型のヘルメットをリュックに付けているが、あかりはあのフードだけで頭を守るつもりだろうか? 勇はちょっと心配になって、自分の横を歩くあかりに聞いていた。

「あかりさん、頭を守る装備ってフードだけ?」

「家に防寒用の帽子があるくらいですね。フードもそうですけど、耳を塞いじゃうので微妙かなと。あと家にあるもので使えそうなのはヘルメットなんですけど、派手な色ばかりで目立つんですよね。敵を引き寄せそうで」

 そう言ってあかりは苦笑いした」

「なるほど、確かに五感を研ぎ澄まさなきゃいけない状況が多そうですもんね。耳を塞ぐのは恐いかも」

「勇さん、武器は何を用意したんですか?」

「うん、迷ったんだけどホームセンターで鉈買ったよ。重すぎず、片手で扱えて、丈夫さと攻撃力のありそうなものって探してたら、鉈と斧が目に入って、迷ったあげく鉈にした。ベルトに通して腰から下げれる鞘も付いていたのが決め手かな」

「あ~鉈! 旦那も鉈見てましたよ。最初は両手で扱う重たいハンマーにも興味示してましたけど、結局、片手で扱う斧買ってました」

 三人はあかりの旦那の車に乗り込み、あかりの家に向かって走り出した。旦那が運転し、あかりと勇は二列目に座った。勇は運転席の旦那に話しかけた。

「旦那さんは、なんて呼べばいいですかね?」

 横に座るあかりが先に反応する。

「名前そのままでいいんじゃないかな? 勇さん私のブログ読んだことあります?」

「ええ、決戦場のことがあってから読むようになりました」

「私のブログのハンネ、ゆきのあかりって本名なんです。旦那は、雪野一剛(ゆきのいちごう)私は、(ごう)って呼んでます」

 旦那が少し照れたように笑いながら口を開く。

「一剛でも剛でも、どちらでもいいでっせ」

「ん~じゃあ、剛(ごう)さんで」

 駅から十分も経たないうちに雪野宅に着いた。周りは畑ばかりで家もまばらだ。家から五十メートルほど進んだ先にコンビニが見えた。ここら辺は人口がかなり少なそうだけど、経営が成り立つのだろうか? 勇は余計な心配をしながら、あかりたちとともに車を降りた。

 雪野家は明らかに周囲の家とは異質な外観で、和の住宅とはかけ離れた、ちょっとしたマンションかと思うほどのインパクトがあった。三階建てで三台分のインナーガレージと、家の前には数台は楽に駐車できるスペースがある。正面から見ると、二階に大きなガラス張りの部屋が見える。マジックミラーになっているのか、中の様子は見えなかった。外観は、おしゃれな洋風の家というより小さななマンションといった感じだろうか。勇には要塞のようにも見えた。いずれにしても、個人が持つ家にしては大きすぎる。

 一剛がスマホを操作すると、ガレージのシャッターが開いていく。乗ってきたSUVはガレージの前にとめたままで、三人はガレージの中に入った。中には真ん中にキャンプ用のテーブルと椅子が四つ用意してあった。テーブルの上には本が一冊だけ置いてある。勇はタイトルを確認した。そこには(凍てつく魂の地下迷宮)と書かれている。あかりが口を開いた。

「迷宮には、このガレージから入場しますね。紅茶いれますんで家に上がって下さい」

「あ、はい」

 勇は小さく会釈しながら二人の後を歩いた。広いリビングに入ると、勇と一剛はソファーに腰掛け、あかりは紅茶と茶菓子を用意してから、勇とテーブルを挟んだ椅子に座った。

「ありがとうございます」

 勇がそう言ってから、一剛が口を開く。

「勇さんは鉈を持ってきたんでしたか?」

「はい、斧と迷ったんですけど、鞘があるこっちにしました」

 そう言って、すでにベルトを通して腰からぶら下がっている鞘を見せ、リュックから刃の部分にだけビニールテープを貼った鉈を取り出した。ビニールテープを貼ったのは他の荷物やリュックを傷付けないためだ。一剛は鉈を見て口を開く。

「俺も迷ったんでっせ。鉈か斧か。で、これやねん」

 一剛は隣の部屋から片手で扱う斧を持ってきて見せた。勇はうんうんと頷き、斧を手に取ってじっくり見た。

「ごうさんだったら、もっと重たいのでも扱えそうですけどね」

「両手で扱うやつやんなぁ。けっこう迷いましたよ。バールもええかなと思いましたし。ほら、側溝の重たいフタをテコで動かす長いバール」

「あ~はいはい、ありますね」

「あと、大ハンマーとか。ただ、仕事で使うことあるんですけど、武器として使うことを考えると、重たい武器は一対一ならともかく敵が多かったら隙ができると思うてやめたんです。あと、もし準備期間がもっとあったら、槍を自作するのもありかなと思うてましてん。職場が鉄工所なんで」

「なるほど、槍は距離も取れるし攻撃力も高いし良さそうですよね」

 そこまで聞いていたあかりが、右手に紅茶のカップを持ちながら会話に割って入る。

「ねえねえ、私、気になっていたんだけど、私たち武器の選択に悩んでるけど防具のことはあんまり考えてないよね」

 勇がそれに答える。

「まあ本当は全身防具で固めたいくらいだよね。一応見てたんだけど、防具として使えそうなものはホームセンターでは見なかったな。スポーツ用ならありそうだけど、スポーツ用の防具が怪物の攻撃に耐えられるかといったら無理だろうし、少し軽減する程度なら、むしろ装備は身軽にして攻撃をよく見て避ける事と、特に頭とか首とか、急所にまともにもらわないようにすることの方が重要かもね」

 一剛は納得したように頷いてから口を開く。

「俺、実は腹巻の中に薄い鉄板入れてまっせ。あと内側の胸ポケットにも」

 それを聞いて、あかりがすぐ反応した。

「ちょっと! なに自分だけ守ってんのよ!」

 半分冗談ぽくも聞こえたが、よく見ると目が怒っていた。勇はそれをさえぎるように口を開いた。

「なるほど、それはありですね。俺は大きめのブレスレットも小手代わりにはならないまでも、ちょっと使えるかなと思ってました。買ってないですけど」

 そう言って無邪気な笑顔を見せた。一剛も釣られて笑う。それを聞いていたあかりが、勢いよく家の奥へ姿を消した。

「え? もしかして怒らしちゃいましたかね?」

 勇は少し困った顔をして見せた。

「いつもあんな感じやで。なんか探しにいったんやと思います」

 一剛はそう言って紅茶を口に運んだ。

「勇さんは以前、決戦場に入場した時に怪物と戦っとるんですよね?」

「はい」

「俺はその、入場したことあれへんし、想像つかへんのやな。あの本に描かれている怪物が歩いている姿が。うたごうとるわけやないんですけど、ただ、俺は実際に見たわけやないから」

「でしょうね。俺がごうさんの立場だったらそうだと思いますよ。ただ今回は出てくる怪物も変わるし、人間も居るみたいなんで、俺も一度経験したとはいえ怖いです。ちなみに決戦場の時に遭遇したのは、まず、動きの遅いゾンビ。これは動作が遅かったので倒すことも逃げることも余裕でした。誰も攻撃を受けませんでしたし。次に全身包帯でグルグル巻きの三メートルはある巨人。これはやばかったです。圧倒的な力と俊敏な動きを備えてて、知能も普通の人間並みにあったと思います。おまけに雄叫びを上げることでゾンビを一度に数体召喚できましたしね。ウイッチさんの活躍がなかったら冗談抜きで全滅していたと思います。最後に不死者の王。骸骨が黒いフード付きのローブを羽織った姿で、巨人を超える巨体でした。巨人並みの身体能力にプラスして、直径三メートルはある巨大な火球を操ってました。強い念のこもった言葉が具現化する決戦場の特性がなかったら勝ち目はなかったと思います。

 一剛は、うんうんとを相槌を打ちながら、じっくりと聞き入っていた。勇の話が終わると、ソファーにもたれかかり天井を眺めた。

 あかりが二階から降りてくる足音が聞こえた。あかりは土色のニット帽をかぶり小さめの白いリュックを背負っている。何やら手にたくさん持っている。それらをテーブルの上に乗せてから椅子に座った。

「防災頭巾あったよ。あと顔の側面や首を覆う防寒帽子。目しか出さない物もあったよ。それにラインストーンを散りばめたブレスレット。引っ張るとバネのようにビヨーーンてなるやつ。キラキラすぎて目立つかな? あとは幅広のシルバーバングルにデニムの腕カバー。ペラペラだけどね」

 勇はそれらを見て口を開いた。

「防災頭巾は使えるかもね。防寒帽子も悪くないと思う」

 一剛は防寒帽子を手に取ってかぶった。

「あ、これ使うわ」

 あかりは左手首にシルバーバングルを装備した。

「私はこれね」

 勇は思い出したようにあかりの方を見て口を開いた。

「あれ? あかりさんは武器持っていかないの?」

 あかりはニヤリとしてテーブルの下に手を伸ばした。

「ジャジャーン!」

 なぜかちょっと嬉しそうな笑顔と一緒に登場したのはノーマルタイプのアイスピックだった。

「テーブルの上に置いといたつもりだったんだけど落ちたみたい」

 勇は意外に思った。体力もあるし、決戦場の時に大剣を扱っていたのを見ていたので、小さな武器のイメージは無かったのだ。

「え? なんか意外だけどアイスピックは考えたね」

「なんですか? 大剣が似合う女だって言いたいんですか?」

 あかりは冗談交じりの意地悪いムスッとした表情を勇に向けた。

「え、いや、体力ありそうだから、もっと重い武器使うのかなって」

 勇は苦笑いをしながら、一剛の方を見て言った。

「そろそろ行きますか?」

「そうやね。行きまっか」

「何度でも入場できると思うんで、危なくなったら一旦戻ってきましょう。退くのも勇気ですから。無理はしない方がいいと思います」

 一剛が頷き、あかりも頷いた。

「あっ、ちょっと待って! 三階の窓閉め忘れてる。雨吹き込むといけないから閉めてくるね」

 あかりは足早に部屋をあとにした。階段を駆け上がり窓を閉めようとした時、空一面にどす黒い雨雲が広がっているのが見えた。窓から吹き込む風は真冬の冷気を帯びている。

 あかりが戻ってきたのを確認して、一剛が勇の方を向いて口を開く。

「すいまへん。では、行きまっか」

「はい」

地下迷宮の盗賊たち(地下一階) 

 三人はガレージ内に用意された椅子に座った。以前、図書室から決戦場へ移動した時、めまいにも似た意識が飛ぶような感覚になったこともあり、あかりが用意しておいたのだった。あかりはテーブルの上に置いてある本を開いた。扉のページだ。一剛は黙って見ている。

「今回は入場に呪文は要らなそうだね」

 勇がそう言うと、あかりは頷いてから答えた。

「はい、まだ試してないから怖いですけど」

 そう言いながら扉の絵を中指で軽くポンと触った。何も変わった様子はない。あかりが眉間にしわを寄せて不思議そうな顔をした。それを見た勇が口を開く。

「書かれていた入場方法は、扉のページを開き、扉を開ける。それだけだったよね」

 勇は、扉のページに描かれた重量感が伝わってくる金属でできた両開きの引き戸の取っ手に指を掛けた。その瞬間、指は本の上にあるのに、描かれた取っ手を触った右手の人差し指が本の中に沈むような感覚に陥った。勇はためらうことなく左手の人差し指で反対側の取っ手を触る。再び指が本に沈むような感覚があった。勇はゆっくり両側に扉を開いた。

 絵の扉が開いた瞬間、あかりはじっと扉を見つめていたが、一剛は明らかに動揺した表情を見せた。目を見開き口を開いて言葉にはならない様子だった。勇は辺りの空間が揺れているように見えた。あの時、決戦場に移動した時と一緒だ。

 気がつくと辺りの様子は一変していた。ガレージにいた時よりは気温が高そうだ。それでも十五度ないくらいだろうか。勇の立っている場所から、正面と左に向かって真っすぐ、学校の廊下ほどの広さがある通路が伸びている。通路は天井も壁も床も、精巧にカットされた石を積んで造られているように見える。照明らしきものは見当たらなかったが、石は、その一つ一つが微量な光を発していて、薄暗いながらも十数メートル先までは視界が確保できていた。後ろを振り返ると上に昇る階段があり、その先に蜃気楼のように揺れる空間が見えた。勇のすぐ横にはあかりが立っている。一剛は移動の時よほど驚いたのか、尻もちをついた状態で辺りをキョロキョロしている。勇は一剛が立ち上がるのを確認してから、静かに口を開いた。

「ここから先は地下五層からなる地下迷宮ということになるよね。後ろの階段を昇りきればガレージに戻れると思う。幸い出入りは何度でも自由みたいだから、無理しないように探索しようか」

 あかりが頷いてから答えた。

「そうですよね。態勢を整えるために一旦退く勇気も必要だと思います。とくに下の階層へ移動する時は、なるべく万全な状態にしておきたいし」

 勇は頷いた。一剛は右手に斧を持って周囲を警戒している。

「けっこう暗いな」

 一剛はそう言って目の前の通路を見つめた。そして何かを見つけた。

「なあ、あの左側の壁に見えるの扉やがな」

 勇にはよく見えなかったが、あかりは扉を認識したようだ。

「ああ、そうだね。見てみようか」

 三人は扉のすぐ目の前まで来た。扉は十円硬貨のような色をした銅らしき金属でできていて、一剛の持つ斧でも壊せないと思えるほど丈夫そうに見えた。一剛は扉に耳が当たるくらい近づき、中の様子を探った。そして扉の取っ手に手を掛け、ゆっくり引いた。扉は、ギーーっと音を立てて開く。がらんとした部屋の中は学校の教室くらいの広さがあった。床は何も敷かれておらず、壁や天井も通路と同じ外観である。部屋の左隅に簡素な木のベッドがあった。その奥にサイドテーブルが見える。テーブルの上に銀色のマグカップが見えた。一剛は勇とあかりに大丈夫というふうに頷いてみせた。

 三人は部屋の中に入って、迷宮探索の手掛かりになるようなものがないか探した。サイドテーブルの上のマグカップには半分くらい水? が入っている。水が綺麗に透きとおっていることから、ここ地下一階には人が住んでいるようだ。あるいは人型の何か。あかりがマグカップを見ながら心配そうに口を開いた。

「意思の疎通ができる相手だったらいいね。相手が人なら敵になるとは限らないから」

 一剛は、自分の持つ斧を見てから口を開いた。

「それならこうやって武器を見せて歩くのは良くないかな。なんか敵対心むき出しみたいやで・・・・・・」

 あかりがそれに答える。

「勇さんの鉈みたいに腰からぶら下げる鞘がないしね。ごうはリュックも背負ってないし」

「せやな。まあええか」

 三人は通路に出て、奥へ進もうと歩きだした。勇は後ろの方で物音が聞こえたような気がして振り返った。一瞬、人影のようなものが入り口から左の方に向けて走った気がした。あかりが気にして声をかける。

「勇さん。誰か居たんですか?」

「見間違いかもしれないけど階段の下から左の通路に向けて、誰かが走って移動したように見えた」

「私たちに気づいて?」

「分からないけど、ここでは侵入者ってことになるだろうから警戒しといた方がいいだろうね」

 一剛の斧を握りしめる手に力が入った。三人は再び進みだした。勇は本に書いてあった怪物の絵を思い出していた。最初の方のページには強そうな怪物は描かれてなくて、人間が多かった。自分達のように冒険者として入場して、そのままこっちの世界に住みついてしまった者である。勇たちにとって味方になるか敵になるか、あるいは中立の立場なのかも明確ではない者たちである。確か説明書きにはこんなふうに書かれていた。彼らは冒険者の成れの果てで、出口を見失って徘徊する者。迷宮に居座り、盗賊となって他の冒険者を襲う者。武器や魔法を駆使した殺し合いに生きがいを見い出す者。

 人間としての知性がある分注意が必要だ。しかもこっちはたったの三人なのだ。

 しばらく進むと、先頭を歩いていた一剛が急に立ち止まった。そのまま進めば、あと二十メートルもないくらいで通路は左に折れる。その角に人影があった。三人はそれが人であることは認識できたが、通路が暗く、それ以上の情報は得られなかった。人影は止まってジッとこちらを見ているようだ。次の瞬間、人影は左の通路に走り去った。あかりが口を開く。

「ねえ、今の人、手に刃物持ってたよ」

「ああ」

 一剛は心配そうな表情で答える。勇は後方を警戒しながら前進している。勇は思った。一階が盗賊のアジトになっていなければいいが。

 三人が迷宮の角を曲がり、少し進むと通路の左側だけ広がっている場所に出た。左側の壁には扉があった。勇は扉から向かって両側の壁に、縦に三ヵ所四角い小さな穴が開いていることに気付いた。穴は足元の方と真ん中、そして勇の顔の高さにあった。二センチ四方くらいの小さな穴だ。勇は穴の開いた壁、そして天井、それから床を見た。

 一剛とあかりが扉に近づくのを見て、思わず声を上げる。

「待って! そのまま動かないで!」

 一剛とあかりは、驚いて立ち止まり、何があったか分からない様子で勇の方を見た。あかりが聞いた。

「勇さん、何? どうしたの?」

「そのまま、そっと後ろへ下がって」

 一剛とあかりは言われるまま数歩下がった。勇は少しホッとした様子で、扉の二メートルほど前の床を指差して言った。

「足下を見てみて。細い半透明の糸みたいの見えない?」

 一剛とあかりは勇が指をさす石の床をジッと見つめた。よく見ると床から十五センチくらいの高さに、半透明の釣り糸のようなものが両側の壁の一番下の穴に向かって張られている。

「もうちょっと下がってて」

 勇は二人にそう言ってから、鉈を鞘から抜き、少し離れた場所から手だけを伸ばし、ピンと張られている糸の上に鉈を落とした。すると勇が手を引き後ろへ逃げるのと同時くらいに、壁の三つある穴のうち、上の二つの穴から勢いよく鉄の矢が発射されたのだ。侵入者を仕留めるための罠だろうか? 左右から発射された四本の矢は、それぞれ勢いよく反対側の壁に当たって落ちた。一度発射されれば仕掛けをセットし直さない限り危険はなさそうだ。

 一剛は顔を引きつらせながら、あかりと顔を見合わせた。あかりが自分の胸を軽く叩いて気持ちを落ち着かせようとしている。一剛が辺りを見回したあと、勇の方を見て口を開いた。

「勇さん、助かりました」

 一剛はそう言って扉に慎重に近づいた。勇は頷き、一旦、鉈を鞘におさめてから答えた。

「歓迎されてないかもですけど、迷宮内の情報も得られるかもしれないですし、入ってみますか。また罠が仕掛けられてるかもしれないから扉を開ける時も正面に立たない方がいいかも」

 それを聞いたあかりが、扉の正面から横に動いた。一剛は緊張した面持ちで慎重に扉を開く。半分ほど開けた所で、慌てて勢いよく閉めた。

 ガンッ! ガンッ! と、閉めた扉に何か硬いものが当たる音が二回聞こえた。一剛は叫んだ。

「ぎょうさんおるで! ナイフを投げてきやがった! 斧持った大男も見えたわ!」

 一剛は扉から離れ、斧を構える。あかりはアイスピックを握り、投げナイフを警戒してか軽くだけ腰を落とし、すぐ回避できる体勢をとっている。

 扉は動かず、中から声も聞こえてこない。無益な争いはしたくない。これ以上刺激するのはやめよう。そう思って勇は叫んだ。

「一旦退こう! 無益な殺し合いになる」

 勇は利き手を今来た通路の方に振り上げ、戻ろう! と合図した。そして先頭を切って走り出す。一剛とあかりも後に続いて走り出した。

 三人が走り出し、それとほぼ同時くらいに後ろから、バタン! と、乱暴に扉が開く音が聞こえた。勇たちは入り口の階段目がけて必死に走り続ける。「オオッ!」と、背後からドスの利いた声が聞こえ振り返ると、ナイフや斧を手にした十人近い目つきの悪い男たちが迫ってきていた。勇たちは入り口の階段を駆け上がり、蜃気楼のように揺れる空間に飛び込んだ。

 揺れる空間に飛び込む直前、勇は後ろを確認する。奴らはなぜか、階段の下で辺りを見回すような仕草をしていた。階段が見えてない? 勇は意識が飛ぶような感覚に陥ったあと、雪野家のガレージに戻っていた。

 勇と一剛は息が荒い。二人とも全力疾走したのは久しぶりだった。あかりはというと、心配そうにテーブルの上の本を見つめている。呼吸も乱れず、まだまだ走れそうな感じで余裕がある。

「追ってこないかな?」

 あかりは、本の世界から今にも奴らが飛び出してくるのではないかと心配なようだ。勇と一剛は椅子に腰掛ける。勇が口を開いた。

「たぶん、見えてないんじゃないかな」

「え? どういうことですか?」

 あかりは不思議そうに聞き返す。

「俺たちが通路を逃げてる時、あいつらは間違いなく数メートル後ろまで迫ってた。差が縮まってきてたと思う。だけど、俺たちが階段を駆け上がり始めた時くらいから見失っている感じに見えた。まるであいつらには、そこに階段が無くて、壁しか見えてないみたいに」

「階段じゃなくて壁に見えてた?」

 あかりがそう言って、一剛も口を開く。

「確かに。俺が一番後ろを走っとったけど、階段を昇る時には奴らの先頭と五メートルくらいしか離れてなんだ。それやのに階段を昇って追ってけぇへんのはおかしい」

「ですよね」

 それを聞いて少し安心したのか、あかりも椅子に腰掛けた。

「ねえ、あいつら完全に私らを殺す気でいたわよ。話し合いなんてできそうな感じじゃなかった。罠まで仕掛けてたしね。迷宮内に敵対勢力でもいるのかしら」

「扉開けただけでナイフ投げつけてくるくらいやし、捕まったら食料にされるかもな」

 一剛が真顔で答えた。

「ちょっと! 怖いこと言わないでよ! 行きたくなくなるじゃない」

 勇は苦笑いしてから、背中のリュックを膝の上に移動させた。中からピーナッツの飴を取り出して一粒口へ運んだ。一剛は足を組んで数秒、天を仰いだ。今度は数秒、下を向いたあとゆっくり顔を上げて言った。

「下の階層はもっと危険なんやろうな」

 勇が頷いてから答えた。

「本に描かれている怪物の順番からすると、地下一階と二階は人間が多いのかもですね。とにかく下に降りる階段を探しますか」

 勇は立ち上がりリュックを背負う、それに呼応するように一剛とあかりも立ち上がった」

「開けるよ」

 勇はそう言って二人の顔を見る。一剛は斧を握りしめ、あかりはテーブルにつかまった。勇が扉を指で開くと、ガレージ内の空間が歪み始めた。

 先ほどと同じ、地下迷宮一階の通路に出た。後ろには上に昇る階段が伸びている。三人は前方と、左に伸びるそれぞれの通路を見渡す。どうやらすでに奴らの姿はないようだ。突如、前方からバタンと扉が閉まる音が響いた。木のベットとサイドテーブルのあった部屋だ。部屋のある場所は暗くて、ここからではハッキリと見えない。あかりは目を凝らすと、通路前方に人影らしき姿を確認した。あかりと一剛は身構えた。あかりが口を開く。

「あの大男、斧持ってる」

「そうやけど一人やな」

 一剛はそう言うと、斧を握りしめ通路の奥の大男をジッと見据える。勇も鉈を鞘から抜いた。

 通路の奥の人影がこちらに向かって近づいてくる。明らかにこちらの人数と武器を把握できるくらいの距離まで近づいたが、歩みを止めることも動揺する様子もなく真っすぐ向かってくる。派手な作業着? いや、目立つオレンジ色をしたアメリカの囚人服にも似たものを身に着けている。あかりはベルトに挟んでいたアイスピックを 手に取る。あと五メートルまで迫った時、大男は「オオッ!」とドスの利いた声を上げて一剛に向かって襲いかかってきた。一剛は身構えて大男の攻撃を見極めようとしている。あかりは一剛に向けられた大男の意識を自分の方へそらそうとアイスピックを手にサッと前進する。大男は一瞬反応したが、再び一剛目がけて斧を振りかぶった。勇は大男との間合いを詰める。

 一剛は、斜め上から振り下ろされた大男の一撃を大きくバックステップで避けた後、すぐさま大男に突進した。体にぶつかる寸前、身を低くして大男の両脚を抱えて身体を持ち上げ、そのまま引きながら倒した。大男は受け身も取れずに石の床に背中を叩きつけられ、叩きつけられた衝撃で斧が手から離れた。あかりは素早く駆け寄り斧を奪った。一剛は大男の上に馬乗りになり、落ち着いた様子でゆっくりと言った。

「俺たちは、ここの住人と争うために来たんちゃう。ある女性を探しとるんや。手を出してこんかったらこっちも出さへん」

 大男は武器を奪われ観念したのか、それ以上暴れようとしなかった。その様子を見て一剛は大男から離れた。大男はゆっくりと立ち上がり、逃げ出すことも暴れることもなく、勇たちを見回してから口を開いた。

「お前たち、ここの住人ではないな? 外から来たのか?」

 一剛はそれに答える。

「そうや。最近ここに入った知り合いの女性を探しに来た。見つければその人と一緒にすぐ出ていくつもりや」

 大男は興味深そうな表情で答える。

「ほう、詳しく聞きたいな。俺たちの仲間の誰かが、その女のことを知ってるかもしれん。案内するから仲間に会ってくれ」

「いつからここに住んどるんや? 長いんか?」

「まあ長い奴は十年以上居るよ。外の世界に戻れば多くの人間から命を狙われるような奴には悪くない場所さ。今はもう昔のように外の世界と自由に行き来できなくなって探しに来る奴も皆無だしな。お前たちはどこかの隠し扉から入ってきたんだろ? 俺たちに教えてくれ! そうすればできる限りの協力はする。仲間やボスにも会ってくれ! お前たちが仲間の女を探しに下層に行くつもりなら、どっちにしてもボスの部屋を通ることになるしな」

「お前たちのボスの部屋を通れへんと地下二階へ行けんのか?」

「そうだ! ボスの部屋の奥に下へ降りる階段がある」

「俺たちの仲間を見たことないんか?」

「あん? 俺は無いな。だがボスは知ってるかもしれん。いいからついてきな」

 大男はそう言って、勇たちに背を向けてゆっくり歩き出した。勇たちは三人で顔を見合わせたあと、あかりが小声で話し始めた。

「ぜったい信用できないよ! あの人が大人しいのは、今仲間が居ないからよ! ついて行ったら私たちが危険よ!」

 それはごもっともだと勇は思った。自分から襲ってきておいて信用しろは無理がある。それに出口を教えたら犯罪者たちをあかりたちの住む町に野放しにすることになる。

 一剛も、さすがに信用はできないという顔をしていた。誰も大男について行こうとしない。一剛が口を開く。

「あの階段って、奴らに見えてへんだけなんかな?」

 勇とあかりが、ん? という顔をする。その時、大男が戻ってきた。

「どうしたんだ? 一緒にボスの所へ来てくれ。あんたらは貴重な情報を持つ大事な客人だ。それなりの見返りはする」

 勇が口を開いた。

「悪いけど、すぐには信用できない」

 勇がそう言って大男の方を見ると、大男の後方からナイフを持った目つきの悪い、やや細身の四人の男が近づいてくるのが見えた。皆、迷宮の壁と同じ灰色の作業服らしきものを着ていた。かなり使い込んでいるらしく薄汚れている。元囚人なのだろうか? 大男はそれに気づくと男たちに近づき、何かを耳打ちしてから男たちの後ろへ下がった。

 勇は身構える。大男が後ろへ下がったのは、武器を持った仲間に俺たちを攻撃させて、武器を奪われた自分は仲間を呼びに行くからだと予測できた。案の定、大男は通路の奥へ走って逃げていった。残った大男の仲間は四人。四人とも手には刃渡り二十センチに達するであろう殺傷力の高いダガーを装備している。こうして向き合っている間にも、先ほどの大男が仲間を呼びに行っている。時間はかけれない。勇はあかりに声をかけた。

「その斧貸して」

 勇は大男が床に叩きつけられた時に手放した斧をあかりから受け取った。四人の男たちはジリジリと間合いを詰めてくる。その中の一人が突如、ダガーを反対の手に持ち替えたと思ったら、腰の辺りから隠し持っていた何かを取り出した。小さな投げナイフだ! 間を置かず男は振りかぶり、一剛目がけて素早く投げてきた。そのすぐ後ろに居た男も、それを追うようにナイフを振りかぶる。あかりが叫ぶ。

「危ない! 避けて!」

 一剛はサイドステップで避けようとしたが防寒着の袖が少し切れた。同時に勇が一歩踏み込んで斧を振り上げる。二秒経たずに次のナイフが一剛の首の辺りに飛んできた。一剛は回避動作が追い付かず、本能的に持っていた斧でガードした。キンッ! と、やや高い音とともにナイフは斧の刃に弾かれる。次の瞬間! ナイフを投げた後ろの男の胸に、勇が渾身の力で投げつけた斧が刺さっていた。勇は鞘から鉈を抜いて構えた。胸に斧が刺さった男は、声にならない呻き声を上げてその場に背中から崩れ落ちた。一剛は斧を床に置き、自分と一番近い男に向かってと猛牛の如く突進した。勇も後に続く。あかりは倒れた男の胸から斧を抜き取った。

 突進してきた一剛に対して、男はダガーで刺す体制をとっている。一剛は男が一歩踏み出せばダガーが届くギリギリの間合いで急停止し、前傾で男の動きをよく見ながら、縦横斜めに上半身を小刻みに揺らしながら男の周囲をゆっくりと回り始めた。男の注意は一剛に釘付けになった。

 残りの二人の男は勇の方へ間合いを詰める。あかりは斧を振りかぶり、いつでも投げられる体制をとった。勇は背中のリュックを身体の前に持ってきてショルダーストラップを肩にかけた。男二人は並んで、勇が横に逃げられないように距離を詰めてくる。勇は大きく一歩踏み込んで右側の男のナイフの刃を目掛けて全体重を乗せた前蹴りを放った。足の裏全体ではなく、指の下辺りの丈夫で面積の狭い部位を当てる強力な一撃だ。男の手のナイフは男の後方へ弧を描いて飛んでいった。その瞬間、あかりが叫んだ。

「勇さん伏せて!」

 勇は何があったか分からず、とりあえず伏せてあかりの方を見ると、勇の頭上を凄い速さで何かが飛んでいく。目で追いかけると、その先には下腹部に斧が当たり、悶絶してうずくまる男の姿があった。勇に武器を蹴り飛ばされ、更に急所に勢いよく斧が直撃し、戦力にならないことは明らかだった。

 残った男は、正面から一気に間合いを詰めてきて、挨拶代わりにダガーを勇の腹部目がけて横に振り回した。勇は素早く後退し、革ジャンすれすれの所で避ける。男は勇の正面に立たないように小刻みに左右へ動きながら、飛び込む隙をうかがっている。勇は再び大きく一歩踏み込んで、膝を腰の高さまで上げ前に突き出した。男はダガーをしっかりと握り両腕で腹部のガードを固める。しかし勇の突き出された膝から伸びる右足は、膝の位置をほとんど変えないまま、膝を中心に真下から時計回りに十二時の方向へグルンと瞬時に回転した。勇の上段回し蹴りは男のあごを捉えた。あごを打ちぬいた足は、まばたきするより速く腰の位置へと戻る。膝から先の変化に対応できなかった男は、てめえっ! と興奮気味にダガーを持つ手に反対側の手も添えて捨て身で突進しようとした。しかし一歩踏み込む瞬間、あごを打ちぬかれ揺らされた脳へのダメージが男の膝にきた。ガクッと両膝をつき、勇はそこに渾身の回し蹴りを男のこめかみに放った。今度は先ほど放った攻撃が読みにくい膝から先の変幻自在の回し蹴りではない。威力に特化した大ぶりな一撃だ。男は崩れ落ち意識を失った。一剛の方も決着がついていた。一剛に後ろからチョークスリーパーで絞め落とされている。男の太ももにはあかりのアイスピックが刺さっていた。

 一剛が口を開く。

「他の仲間はきぃひんな。来てたらやばかった」

 一剛はそう言って立ったまま壁に寄りかかった。勇は頷いてから答える。

「二人ともケガは大丈夫?」

「俺は大丈夫。せやけどしんどかった」

「私は無傷ですよ。二階に降りる階段探しましょ。今度は入り口から左に進んでみたいですね」

 勇と一剛は頷き、まだ息が荒いまま入り口から左に伸びる通路へ進んだ。下に降りる階段が本当に奴らのボスの部屋の奥にあるなら、戦いは避けられないだろう。奴らの粗暴な様子を見る限り、迷宮の出口が交渉の切り札にあるといっても、話し合いになるのかは怪しい。奴らのボスしだいか。

 少し進むと右に曲がる通路を見つけた。通路の先は十メートルほど進んで行き止まりで、突き当たった壁の両側に扉があった。勇は右の扉に耳を当て、次に左の扉にも耳を当てたが何も聞こえない。

 勇は左の扉に手をかけ、そっと開こうとしたが、鍵が掛かっているようで開かない。それを見た一剛は右側の扉に手をかけた。引いても押してもガタッガタッっと音が響くだけで扉は開かない。勇たちは通路を戻り始めた。

 その時、前方の通路右側の方から、何人かが話しながらこちらに近づいてくるのが分かった。勇は素早く前方の通路の手前から声のする方を覗いた。まずい! 十人はいる。斧を手にした者もいた。あと十五メートル。勇は小声で言った。

「奴らが十人くらいこっちに来る! 一旦、左に走って階段に戻ろう! 行こう!」

 勇はそう言って迷宮入り口の階段目がけて走り出した。一剛とあかりも後を追う。十人からなる男たちは勇たちの逃げる姿に気づき、「オオッ! 待てオラッ!」と、声を荒げ追いかけてくる。勇たちは階段を駆け上がる。勇は思いとどまったように足を止めた。それに気づいたあかりが立ち止まって叫ぶ。

「勇さん! 早く!」

 一剛は蜃気楼のように揺れる空間まであと一歩の所まで来ていたが、あかりの叫び声に気づき足を止めて振り返る。勇は悟ったようにジッと追ってきた粗暴な男たちを見つめていた。あかりと一剛も異変に気づく。やはりやつらには階段が見えていない。しかも男たちは階段の入り口辺りを蹴る仕草を見せた。まるでそこに壁があるように背中をもたれかけたり、手をつくものもいた。何らかの力が働いていて、迷宮の住人は出口が見えないだけではなく、外の世界に戻れなくなっているようだ。あかりと一剛も勇のそばまで降りてきた。三人は階段に座り、目の前の男たちの様子を外の世界に繋がる階段から眺めていた。一剛が口を開く。

「不思議やな。俺たちも出れんようになる可能性があるっちゅうことか?」

 勇が答える。

「どうですかね。誰かがどこかから見ていて制御しているのかも」

 あかりが反応する?

「誰かって? まさかウイッチ?」

「ウイッチさんにそこまでの力はないと思うよ。強い念のこもった言葉が具現化するといっても、ウイッチさんは昔からここに住んでいるわけではないだろうし、操っているとしても別の誰かだと思う」

 一剛は、少し考えこむように下を向いてから通路の方を見た。男たちは左の通路を奥に向かって戻り始めている。勇もその様子をジッと見つめながら思った。このまま逃げてばかりでは先に進めない。覚悟を決めなければ。勇は口を開く。

「とにかく行こうか。さっきは逃げてごめん」

 すぐにあかりが答える。

「あんなに居たんだから逃げる選択で間違ってなかったですよ。あの時戦っていたらどうなっていたか」

 一剛も口を開いた。

「勇さんの判断はまちごてへん。それに出口まですぐそこやったしね。これから先に進めば進むほど、帰還の難易度も上がるさかいにおとろしいねんな。防具、せめて軽くて丈夫な盾があれば敵が多くても、あいつらくらいなら対抗できそうなんやけど。てか、ずっと気になっとったけど、あかりの武器小さすぎへん?」

 あかりがムスッとした顔で答える。

「一回役に立ったでしょ」

「せやな。ただ、なんか長所を活かせてへんきぃするわ。家にバットとかなかった?」

「何言ってるの! あれ、おもちゃのバットよ。思いっきり頭叩いても倒せないからね」

「あ、そうやったか」

「自分で買ったのに忘れたの?」

 勇は笑いながら口を開いた。

「あかりさんはジム通いしてるから、その力を活かしたいよね。スタミナもあるし。あれ? あかりさんアイスピックは?」

「あっ、さっきの戦いで脚に刺したままだった」

「じゃあ取りに戻ろうか」

「はい」

 勇たちは先ほど死闘を繰り広げた通路に戻ってきた。勇たちが倒した奴らの姿は忽然と消えていた。まだ三十分経っていないくらいだ。男たちが倒れていた通路にはアイスピックは無く、血のついた斧が一丁落ちていた。脚にアイスピックが刺さった状態で運ばれたのだろうか? 勇は今しがた一剛が話していた防具の話に深く共感していた。これからさらなる危険が予想される下層の探索をするのに、俺たちは軽装すぎる。近所のコンビニへ行くような恰好で険しい冬山に挑戦するようなものではないのか? かといって今から戻って用意していたらウイッチさんの捜索は大幅に遅れてしまう。

 勇はふと思った。ここで、この迷宮で手に入らないだろうか。本の通り奴らが盗賊なら、使える装備も持っているかもしれない。盗賊から物を盗むなんて、同じ穴のムジナのようで気が引ける気もするが、そんな悠長なことも言っていられない。

 三人は通路の突き当りを左に折れて、矢が発射する罠が仕掛けられていた例の部屋の前まで来た。罠はまだセットし直されていないようだ。勇は扉に耳を当て様子をうかがうが、何も音は聞こえてこない。勇は二人の方をチラッと見た後、扉に手をかけてそっと引いた。

 勇は部屋の中からナイフや矢が飛んでこないか警戒しながら中を覗く。もう誰も居ないようだ。勇は素早く部屋の中を見渡しながら奥に進んだ。勇の背丈より高い木製の棚が整然と並び、隅の方には木箱も見えた。壁から矢が発射する罠の仕掛けも見える。勇は使えそうなものを物色していた。一剛が声を上げる。

「勇さん! こっちに防具あんで」

 勇が一剛が居る棚の方へ行くと、使い古された革製と鉄製の防具が所狭しと置かれていた。盾、兜、小手、鎧上、鎧下、すぐ横の棚には、ナイフや片手斧などの武器が並んでいた。刃が丸くなったり欠けている物が多い。まだ勇たちの持っている武器の方が新しい分使えそうだ。勇は使える防具がないか調べ始めた。

 あかりの方を見ると、あかりの背丈より頭一つ分長いくらいの変わった形をした槍を手に持っている。先が三又に分かれた、あれは何て言うんだっけな・・・・・・。

 勇は過去にパソコンでハマっていたゲームを思い出していた。そう! トライデント! 勇はあかりに声をかける。

「あかりさん、それ似合ってるよ。いいんじゃない」

「ほんとですか? そんなに重くないし扱えるかな」

 一剛は身体全体を覆うような巨大な鉄製の盾を見つけた。一剛はニヤッと笑いながら手に持ち、勇の方を見て言った。

「これめっちゃ重たい」

「うおっ! めちゃくちゃでかいじゃないですか。ごうさんでも無理でしょそれは」

 そう言って笑った。一剛はもう一個の盾を手に取り勇に見せた。

「こっちなら使えそうやわ。俺これにするわ。勇さんは、こんなんどうでっか?」

 一剛が手に取った鉄の盾は丸く小さなものだったが、それでも鉄製だったので重く、ずっと持ち歩くのはしんどそうだった。勇に勧めてきた盾は、それより更に小さく腕に通して使うもので、防御力はそこまで期待できないが、勇が装備した感じは、かなり扱いやすそうだった。

「いいですね! この盾使います。ごうさんのもいいと思いますよ。斧に合ってる」

 勇は内心、一剛がファンタジー映画に登場するドワーフにしか見えないと思った。そして十年くらい前に観た長編のファンタジー映画を思い出していた。髭がないのが悔やまれる。

 それ以上目ぼしいものは見つからず、勇たちは部屋を後にした。更に奥の通路へと進む。通路は真っすぐ続いていたが、しばらく行くと左に曲がる通路が二本見えてきた。手前の通路を進むと両側の壁に五メートルおきくらいに等間隔で扉が並んでいる。勇たちはあまり足音を立てないように静かに歩いた。扉の並ぶ通路を過ぎると水の流れる音が聞こえた。壁の一部が綺麗にくり抜かれ、小さな水路が勇の胸の高さくらいを走っている。透きとおる水は壁の中の水路から流れ、壁沿いの水路を走り再び壁の中に消えていた。この水は地上から流れて更に地下へと流れているのだろうか? それとも地下水なのか? 勇は不思議に思った。

 壁の水路を通り過ぎると十字路に出た。真っすぐ進めば行き止まりで右側に扉が見える。左の通路の先には広場が見えた。どこからかかん高い笑い声が聞こえる。勇は二人を見て言った。

「誰か居るみたいけど行ってみようか」

 一剛とあかりは特に問題ないといった表情で頷く。新しい装備が手に入り気持ちが上向いているのだろうと勇は思った。勇たちは広間に足を踏み入れる。天井の高さは通路の三倍はあるだろうか。広さは体育館の半分くらいはある。中央には泉があった。床の石は綺麗に丸くくり抜かれ、泉の天井の石だけ、他より明らかに強い光を発していた。そのおかげで泉は、雲間から差す光を受けたように幻想的な雰囲気を演出している。泉の水は床に掘られた細い水路を流れて壁の中の水路へと消えていく。広間から先へ進む扉は見えなかった。勇たちは泉のそばまで進んで、光を発する天井や、泉から水路に流れる水を見つめた。突如、背後で声が聞こえた。

「うおっ! 誰か居るぞ!」

 勇たちは一斉に振り返った。広間入り口に二人の痩せた老人の姿が目に入った。先ほどまで対峙してきた奴らとは見た目が違う。二人とも杖を持ち、白いローブを羽織っている。この老人たちも奴らの仲間なのだろうか? ただ、向こうから仕掛けてこない限りは、こちらも手を出さない。何か情報を聞き出せるだろうか? 勇は一剛とあかりの方を見て言った。

「三人だと余計に警戒されるから俺が一人で話してくる」

 そう言って老人たちの方へ歩き出した。老人は仲間同士で距離を取り始めた。勇は直感で危険を感じとり全神経を回避することに集中する。老人たちの杖が赤く光ったように見えた。次の瞬間、燃えさかる直径二十センチくらいの火球が勇目がけて飛んできた。勇はとっさに身体をかがめる。二人の老人からほぼ同時に放たれた火球は勇の頭上で衝突し、炎は激しくほとばしった。勇は柔道の受け身でも取るように、床を転がり間一髪逃げ出した。一剛とあかりが勇に駆け寄る。

「大丈夫か! 勇さん!」

「ええ、なんとか」

 一剛の呼びかけに答えながら周囲を見回した。火球を防げる柱や障害物が無いのは痛いな。動き回って的にならないようにしながら攻撃のチャンスを待つか。たぶん詠唱時間があるから連続では放てない。

 老人たちの杖は再び赤く光り、今にも火球を放ちそうだ。

「よし! 一人ずつ倒すか!」

 一剛の言葉に勇は頷いて、腰にぶら下がる鞘から鉈を抜き取った。勇たちはじわじわと間合いを詰める。突如、片方の老人が走り出し勇たちの後方へ回り込んだ。しめた! 別れた! 勇は後方の老人目がけて走り出した。老人はそれに合わせるように火球を放つ。勇は自分の胸の辺りに飛んできた火球を盾で受けながらそのまま真っすぐ突進した。老人を鉈でぶった切るのは気が引けたので鉈で水落辺りを一突きした。老人は顔を歪めその場でうずくまる。勇はすぐさま泉に駆け寄り、盾を装備した左腕を丸ごと水に浸した。もう一人の老人はそれを見て、降参といった感じで両手を上げる。

 一剛が老人に言った。

「その杖を床に置きぃ」

 老人は言われるままに杖を床に置き、再び両手を上げた。

「俺たちはここを荒らしに来たわけやない。あんたらが手出しせんかったら、こっちも何もせえへん。俺たちは最近ここに迷い込んだ人を探しにきただけなんや」

 老人はそれを聞いてその場に座り込んだ。そして静かに口を開いた。

「お前さんたちは外から来たのか? どうりで見ん顔だと思った。てっきり二階の冒険者崩れかと思ったわい」

 あかりが反応する。

「二階にも人間が住んでるの?」

「ああ、ここ一階は地上で多くの悪事を働き、行き場を失った者が最後に行きつく場所さ。盗みを働く奴らが多いな。だが二階にいる奴らは少し違う。他の冒険者や外の世界からやってくる人間を狩ることに喜びを見い出す気違いさ」

「ここの人達も見境なく襲ってくるんだけど・・・・・・」

「そりゃ~そうさ。一階はコミュニティが出来ている。そうしないと二階に住む気違いどもに殺されるからな。単独や少数で行動する強い奴らには数で対抗するしかない。それでもたまに被害者は出るがな」

「じゃあ三階は?」

「さあな。わしは行った事がない。わしらのボスが昔行ったらしいぞ。異常に身体能力の高い不死者が数えきれないくらい徘徊してたらしい。しかも噛まれると毒に侵されるって話だ。その先の階層は知らん。命が惜しいから誰も行かんよ」

「じゃあ二階に降りる階段はどこにあるの?」

「ボスの部屋の奥さ。ボスは外に出たがっていてな。お前さんたちが外へ出る手段を知っているなら、それを教えれば二階へ通してくれると思うぜ」

「出口を教えても無駄だと思うよ」

「なんでじゃ?」

「理由は分からないけど私たちに昇れる階段が、あなたたちには昇れないの。しかも見えないみたい」

「そうか、じゃあ二階に行くならボスと戦うことになるな。せいぜい頑張りな!」

「最後に二つ教えて! ボスの部屋の場所はどこ? その部屋には何人居るの?」

「簡単だ。この部屋を出て真っすぐ進めばボスの部屋だ。ボスの部屋には少ない時で数人、多い時は二十人以上は居るかな。命が惜しければ真っすぐ帰ることだな」

「ありがとう」

 勇たちは広間を後にした。一剛が難しい顔をして口を開いた。

「少なくても数人じゃ分が悪いな。敵の本陣やし猛者も居るやろ。それに俺たち外の人間が来てることはボスの耳にも入っとるやろうから大勢で待ち構えとるかもな」

 あかりが答えた。

「ダメもとでボスと交渉してみましょ」

 勇は少し険しい表情になったが、もう引き返したくないという気持ちも湧いてきて黙って頷いた。勇たちは十字路を越え、重量感漂う銅でできた大きな両開きの引き戸の前までやって来た。勇が扉の取っ手に手をかけようとすると、あかりが言った。

「勇さん、待って」

 あかりは槍を壁に立て掛けたあと、勇と一剛の方を向いて両手を組んで、その手の上に自分の額を当てた。それから目をつむり祈るように呪文の詠唱を始めた。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

 あかりの詠唱が終わると、三人の立つ中心、あかりのお腹の高さくらいにオレンジ色の眩い光の球体が出現した。こぶしほどの大きさの光は、一気に半径二メートルくらいの大きさまで膨れ上がって消えた。勇は身体全体が光の膜で守られているように感じた。三人とも身体から薄っすらとオレンジ色の光を発している。一剛が驚いた表情で口を開く。

「これは? 魔法?」

 あかりが答える。

「うん、私のイメージでは身体を粘土の鎧で守っている感じかな。でもたぶん数分しかもたないよ。さあ、いこ!」

 勇は片方の扉の取っ手に手をかけ、全身の力をこめて開けていく。重い扉はギギッ、ギギッと音を立てながら、少しずつゆっくり開いていく。一剛は片手斧を、あかりは三又の槍を握りしめ戦闘に備える。勇は人二人が並んで入れるくらいまで扉を開き中に入った。二人も後に続く。先ほどの広間ほどの広さと高さがあるように思われた。部屋の左側は、木製の背もたれ付きのイスや四人くらいで使えるテーブル。一応布団代わりのような布はあるものの、お世辞でも清潔感があるとは言えない木のベッドが部屋の三分の一くらいのスペースを占めていた。部屋の真ん中は何も無くて、右奥の壁には槍掛けらしきものと、そこに数本の鉄の槍が見えた。

 三人に緊張が走る。八人どころではない。二十人、いや、もっと居るだろうか。椅子に座る者。ベッドに横たわる者。部屋のあちらこちらに人の姿があった。階段に繋がる通路らしきものは見えない。

 勇たちが数歩進んだくらいで、何人かが気づき、その内の一人が声を上げた。

「おいっ! 誰だお前ら!」

 その声に反応した奴らが、一斉に勇たちが居る入り口の方を見た。すぐに別の誰かが叫んだ。

「こいつら外から来た奴らだ! 出口を知ってるぞ!」

 すると別の誰かがそれに答えた。

「こいつらの目的は下の階層らしいぜ、ここで人探ししたいらしい。とりあえず生け捕りだな」

 それを聞いた数人が勇たちに近づいてくる。ベッドで寝ていた者も起きてきた。次の瞬間、ある男の声をきっかけにして、部屋中の男たちの視線が勇たちの立つ入り口から真っすぐ正面の壁の方に向いた。

「ボス!」

 正面の突き当りの壁にもたれかかり座っていた何者かが、ゆっくりと起き上がり勇たちの方へ近づいてきた。勇はハッとして息を呑んだ。前からゆっくりと近づいてくる者は、身の丈二メートル、体重は二百キロはあるのではないかという大男だ。全身を皮の鎧で固めている。ボスらしきその男が歩き出すと、ボスの右腕だろうか? 短槍を携えた男が一人、ボスの横に寄ってきて一緒に歩きだした。ボスが動き出してから周囲の男たちは黙ってほとんど身動きもとらない。どうやら圧倒的な力関係があるようだ。

 ボスと右腕らしき男は勇たちの三メートルほど手前で止まった。あかりが小声でささやく。

「あの大男、背中に大剣ぶら下げてるわよ」

 ボスの肩から大剣の持ち手だけが見えている。剣先はボスの足首近くまで伸びている。長い! おそらく剣を抜けば、すでにボスの間合いだ。頭には顔の側面と後頭部までもすっぽりと覆う皮の帽子をかぶっている。しわだらけの顔は、頬からあごまで長い真っ白な髭をたくわえていた。歳は七十を越えているだろうか。決して俊敏な動きをするようには見えないが、背中にぶらさげる巨大な大剣の一撃をまともに食らえば、戦闘不能に陥ることは間違いないだろう。ボスはじっくりと一人ずつ威嚇するように勇たちの顔を見つめてから低くて少しドスの効いた声でこう言った。

「外から来た冒険者ってのは、お前さんたちのことか?」 

 ボスはそう言って周りの手下たちに目と指で何か合図をした。すぐに周囲に居た十人くらいが勇たちの背後に回る。その内の一人が入り口の巨大な扉を閉め始めた。出口を手下たちで固め、逃がさない気のようだ。勇が答える。

「はい、最近この迷宮に入った仲間を探しに来ました。見ませんでしたか? 若くて髪の茶色い女性です」

 ボスは腕を組みながら天井を見上げ、少し考えているような素振りを見せたが、何か嫌なことでも思い出したかのように、すぐ不機嫌そうな表情になった。

「あいつか、若くて髪の茶色い女がここを通っていったな。氷の魔法を操る魔女がな」

「やはり来てましたか。地下二階へ向かったのですね? ありがとうございます」

 そう言って勇はボスと距離を保ちつつ、奥へ向かって歩き出した。二人も後に続く。入った時は気づかなかったが、ボスの座っていた後ろに小さな通路が見えた。他に通路は見えない。あの小さな通路の先が下へ降りる階段に繋がっているはずだ。勇はそう確信した。勇がボスの真横くらいまで来た時、ボスが止まれというように手を横に上げた。

「あの魔女の仲間なら通すわけにはいかないな。あいつは俺たちを氷漬けにしようとしやがった。危うく全滅するとこだったぜ。お前たちが仲間だっていうのなら償いをしてもらおう」

 ボスはそう言って背中の大剣を抜いた。大剣を抜いたのが合図となって、右腕らしき男も槍を構える。周囲の手下たちも、ナイフや斧などの武器を手に取って殺気立ち始めた。あかりは三又の槍を自分の身体に立てかけ、両手を組んで、その手の上に自分の額を当てた。それから目をつむり祈るように呪文の詠唱を始めた。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

 再び、こぶしくらいの光の球体が広がっていき、勇たちを光の膜で包み込んでいった。あかりが小声でささやく。

「効果は五分くらいしかもたないからね」

 勇は頷いてから答えた。

「じゃあ効果が切れないうちに全力で行こうか!」

 一剛が力強く頷く。

 ボスの掛け声がかかる。

「かかれ!」

 勇たちに向かって左右から挟み込むように手下どもが襲いかかってきた。勇が叫び声を上げる。

「真っすぐ!正面の通路まで突っ切ろう!」

 勇は正面の狭い通路を指差して言った。三人はこれ以上無理というほど、部屋の中を全力で駆け抜けた。虚をつかれたボスと右腕は一瞬出遅れる。しかし手下どもは凄い形相で必死に追ってきた。近くまで来てはっきりと奥に続く通路だとわかった。仮に階段に繋がる通路ではなかったとしても、一人しか通れない狭い通路で一人ずつ倒す勇の戦略でもあった。手下どもは俊足で、勇たちのすぐ後ろまで追い上げてきた。一剛が叫ぶ。

「あかり! 先に入りぃ!」

 一剛はそう言って、奴らの方を振り返り、大きく一歩、「ダンッ!」と力強く足を踏み鳴らし雄叫びを上げる。

「ウ オ オ オ オ オーー!」

 数人の手下どもの動きが一瞬止まる。一剛の雄叫びで勇たちの物理攻撃力が大きく上昇した。ひるまず向かってきた手下どもに勇が鉈で応戦する。一剛は滑り込むように通路へ入り叫んだ。

「勇さん! 早く!」

 勇が通路の方を見ると、すでに四人のナイフを持った手下が通路を塞いでいた。左右、背後からも囲まれ、勇は狭い通路の前に立つ男に、捨て身で斜め上から思いっきり大きく斬りつけた。正面の男はギリギリの所でかわし勇の腹部目がけて身体ごとナイフを刺しにきた。勇の回避動作が間に合わず刺される寸前、男の脳天を通路から飛び出した一剛の斧が突き刺さる。それを見てもひるまず三人の男が勇と一剛を襲ってきたが、あかりの声が響き渡る。

「二人とも伏せて!」

 それと同時に、通路からおどり出たあかりが槍を激しく連続して突くような威嚇をして三人の動きは一瞬止まる。勇たちは息を合わせたように一気に狭い通路奥へ駆け込んだ。勇の背中に手下の投げたナイフが当たったが、浅かったのかすぐ落ちた。手下たちは怒声を浴びせながら狭い通路へ我先と入り追ってくる。勇たちが狭い通路を走り抜けると下に降りる階段が見えた。勇たちが階段を駆け下り始めた時、背後から迫る奴らの足音が急に静かになった。階段の下まで降りた所で勇たちは振り返る。

 奴らの中には階段を数段降りている者もいたが、それ以上追ってこようとはしない。あかりは槍を構えたまま地下二階の通路を見渡した。それから追ってきた手下の方を見ながら言った。

「ここまでは来たくないみたいね。自分たちのテリトリーじゃないからかしら」

 一剛が言葉を返す。

「ああ、危なかった。あの数じゃ勝ち目があれへん」

 勇も頷きながら呼吸を整えている。その時、階段の上から誰かが降りてきた。長さ一メートルくらいの短槍を持ったボスの右腕らしき男だ。手下も引き連れずたった一人で真っすぐ降りてくる。勇たちは武器を手に身構えた。男が鋭い視線を勇に投げかける。男は警戒を解くためか短槍を階段の途中の壁に立て掛けてから勇たちに近づいてきて言った。

「すまんねえ。うちのボスは最近太り気味でね、あの狭い通路は通れないらしいよ。そのせいで魔女に逃げられたなんて言っているけど、本当は凍らされ身動きがとれなかっただけさ」

 右腕の男はそう言うと、アハハハと小馬鹿にしたように笑ってから言葉を続けた。

「お前たち、このまま進んでも生き残れないぞ。俺が手伝ってやる。その代わりに俺を外の世界へ連れ出せ。連れ出すだけでいい」

 右腕の男はそう言ってあかりに近づき、ジッと顔を見つめてニヤニヤしながらあかりの尻を軽くポンと叩いた。次の瞬間、男は床に倒れていた。あかりが三又の槍を力いっぱいバットでも振るように振り回し、男の顔面に叩きつけたのだ。ブチッというような鈍い音とともに、男はもう何も喋ることはなかった。あかりはムスッとした表情をしている。それを階段上から見ていた手下たちは襲ってくることも怒声を上げることもなく、ただ見つめている。二階の住人がよほど怖いのだろうか? あるいは、あかりが怖いのかもしれない・・・・・・。

落ちぶれた冒険者たち(地下二階)

 勇たちは周囲を注意深く見渡す。あかりがささやくように言った。

「ねえ・・・・・・天井に居るの何?」

 勇と一剛があかりの見ている真上の薄暗い天井を見上げると、そこには成人男性くらいの大きさはある大きなコウモリがぶら下がっていた。ぎっしりと二十匹は居るだろうか。ジッとして動かない。どうやらこちらを餌として認識しているわけではないようだ。触らぬ神に祟りなし。あの数で襲ってきたらひとたまりもない。これ以上刺激しないように静かに通り過ぎようと勇は思った。一剛も同じ気持ちだったのか何も言葉を発しなかった。

 真っすぐ正面と左右に向かって通路は伸びている。勇たちは真っすぐ正面の通路へと進んだ。少し進むと後ろから物音が聞こえた。手下たちがボスの右腕の短槍使いを階段上へ運んでいるところだった。あれだけ凶暴な奴らが近寄るのを避けるのだから、ここの住人はかなり危険なのだろうか? それとも天井のコウモリを警戒しているのかもしれない。

 しばらく進むと突き当りに扉があった。丈夫で分厚そうな銅製の扉で、上の方に小さな格子状の窓のようなものが付いている。扉には鍵が掛かっているようで、勇が取っ手を持って押しても引いても動かなかった。突如、格子の奥の窓が横に開き、女が顔を覗かせた。

「誰だい、あんたたち?」

 女はパッと見、五十代半ばくらいに見えた。綺麗に整った顔立ちにパッチリと大きな目、白髪交じりの髪を後ろで束ねているのが見えた。勇は最近この迷宮に入ったウイッチという女性を探していることと、自分たちが外の世界から来たことを女に告げると、女は勇たちを食い入るように見つめた。勇は直感で悪い人ではないと感じた。女の目はくぐり抜けてきた修羅場を物語っているように見える。鋭さというより、どんな状況でもしっかりと前を見据える覚悟のある目だ。一体何者だろうか? しばしの沈黙の後、ガチャガチャっと音がして扉が開いた。

「入りな!」

 女に招かれるまま勇たちは部屋に入った。女は勇たちが入ったのを確認すると、すぐに扉に鍵を掛け、格子で守られた窓もパタッと閉めた。部屋は六畳くらいの広さで、床には寝袋と、水の入ったペットボトル。その横に剣と兜が置いてあった。剣は片手でも扱えそうなサイズだ。柄には鳥の羽のような形の、銀の装飾が施されていた。女は白銀の鎧を身につけ、腕には勇のように、金属の盾が装備されている。勇や一剛の鉄の盾とは違う材質のようだ。女の全身の装備はすべて白銀の輝きを放っている。黒いリュックも置いてあった。

「不思議そうな顔をしてるねえ。何も無い部屋だけど、私はあんたらを取って食いやしないし、部屋の中なら敵は襲ってこないから話くらいしていきな」

 そう言って女は床にドカッとあぐらをかいた。勇たちも女の方を向いて座り、話をする体勢になった。

「どうも、自分は勇っていいます。彼は一剛さん、その奥さんのあかりさんです」

「へえ~夫婦で命がけの迷宮探索とは珍しいね。私は、風の子って書いて風子さ。よろしくね。私もお前さんたちと一緒で短期の滞在者さ。目的は違うがね。お前さんたちここへはどうやって来たんだい? 本かい?」

 あかりがすぐに答えた。

「はい、凍てつく魂の地下迷宮というタイトルの本の扉のページから来ました。風子さんもですか?」

「ああ。それと同じ本が何冊あるか知らないが、この国のあちらこちらに存在するらしい。だから迷宮から退場する時は、お前さんたちと私の出る場所は違うだろうな。同じ出口から帰っても転送されるばしょは違う」

「風子さんの目的はなんですか?」

「私はこれでも昔は名の通った作家でね。今でも私の書いた本はそこそこ売れてる。でも書くことに疲れてきてね。で、五十前に作家を一時休業して冒険家になって楽しんでいるのさ。本のことを知ったのはたまたまだけど、もう病みつきになってね。おかげで冒険が終わったら何冊か書けそうさ」

「風子さんの装備、なんか変わってますね。色合いというか、なんか材質が見たことない感じ」

「ああこれかい。この白銀の装備は、この部屋の前の住人のものだよ。私が最初にこの部屋に訪れた時、鍵は開いていて、中に入ると男が一人死んでいた。私は男を部屋から離れた所まで運んだよ。生きるために装備は頂いてからね。この装備は軽くて丈夫なんだ。銀のようだけど何か強い魔力が宿っているみたいでね。特に凄いのがこの剣。剣を振ると敵に衝撃波が走る。強烈な爆風を受けたような衝撃波が発生するのさ。こんなふうにね!」

 そう言って風子は座ったまま白銀の剣を手に持ち、壁に向かって軽く一振りした。すると剣を振り終わったと同時くらいに、バンッ! という布団を叩いたような音とともに、壁に何か強い衝撃が走ったのが分かった。

「凄い!」

 あかりが叫び、勇と一剛も「おおっ!」と声を上げた。

「ただ、この特殊効果は迷宮内だけさ。なぜか分からないけど迷宮内で手に入れたアイテムは外の世界には持ち出せない。不思議だね。それにこの装備、特にこの剣には持ち手の身体能力を上げる力があるらしい。はっきり体感できるくらいのね」

 一剛が口を開く。

「何度も出入りされてはるんですか?」

「いや、まだ二回目だよ。外へこの装備を持ち出せない以上、ここへ来るのも命がけになるしね。一階の奴らは用心して交代で寝てるし、この装備でも、奴らが束になってこれば私だって命はない」

「いつまでここに滞在するんですか?」

 勇が聞いた。

「二階以降の探索は厳しそうだから、そろそろ帰ろうかと思ってたんだけどね。お前さんたちが来たから気が変わった。仲間探しを見届けたくなったよ。邪魔じゃなければ連れてっておくれ」

 あかりの顔がパッと明るくなった。

「え? 嬉しい! 心強いです。あ、そうそう、風子さんはウイッチを見ませんでしたか?」

「残念だけど見てないね。この迷宮を一人で探索なんて、私以外にも無謀な女が居るんだね」

 あかりはウイッチが氷の魔法を操ることや、一階の男たちを凍らせたことなどを風子に話した。

「氷の魔女か! 二階の住人から聞いたことがある。氷の魔女があんたらの仲間なのか? それなら生き残っているかもしれないね。彼女と遭遇したここの腕利きの冒険者たちは手も足も出なかったらしいからね」

「そうですか。風子さんは三階にも行かれたんですか?」

「ああ、ここで知り合った人たちと一回だけね。私以外はみんなやられた。三階はゾンビの巣さ。それも異常なほどに俊敏なね。力も強いし噛まれれば毒に侵される。屈強な冒険者でも、三階に行く時はパーティを組んで準備万全にしていくよ。ただ、ここの人間とは下手にパーティを組まない方がいい。平気で裏切るからね。だから私は一人で行動している」 

 ドン! ドン! と、突然、扉を激しく叩く音が響いた。叩くというよりり蹴っているような音だ。勇たちに緊張が走った。風子は落ち着いた様子で白銀の兜をかぶり、白銀の剣を握った。

「風子! 風子! 居るのか?」

 怒気を帯びた声が聞こえる。風子が扉に近づき格子で守られた窓を三分の一ほど開いて、やや不機嫌そうに言った。

「なんだい! 騒々しい」

 勇には、扉の外の声をはっきり聞きとることはできなかったが、複数いることと、俺たちを出せと言っていることだけは聞きとれた。どうやら一階の奴らと繋がりがあって、ここに来たことを聞きつけたらしい。勇たちは立ち上がり敵がなだれ込んできてもいいように武器を手に取り身構えた。風子はその様子をチラッと確認した。

「一階に住む仲間がやられた。その犯人がお前の部屋に向かったと聞いたんでな。部屋を見せてもらおう」

「嫌だといったら?」

 風子は落ち着いた声で答える。

「お前とは中立の関係だったが、罪人をかばうなら大勢を敵に回すことになる。外の世界に二度と帰れなくなるぞ!」

 風子が勇たちの方を見てささやく。

「お前さんたち。誰か魔法は使えるかい?」

 あかりが答える。

「物理防御力を高める魔法なら」

「よし! すぐ使うんだ!」

 風子はそう言って魔法の効果範囲に入るため勇たちの方へ近づいてきた。そして自身も魔法を唱え始めた。ほぼ同時くらいに二人の詠唱が始まる。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

「宇宙(そら)に輝く星の光よ、魔を絶つ守護の盾となって、我が前に姿を現せ」

 あかりと風子の詠唱が終わると、四人の立つ中心くらいにオレンジ色と紫色の眩い光の球体が出現した。こぶしほどの大きさの光は、一気に半径二メートルくらいの大きさまで膨れ上がって消えた。四人の物理防御と魔法防御が大幅に高まった。扉の外からは扉を蹴る音と怒声が続いている。風子が掛け声をかけた。

「さあ! やらなきゃやられる! 行くよ!」

 一剛は雄叫びを上げた。

「ウ オ オ オ オ オ オーー!」

 四人に力がみなぎる。

「あかり! お前は後ろに居ろ!」

 一剛はそう言って扉の前に陣取った。風子が扉の鍵を開ける。鍵が開いた瞬間、外に居た奴らが勢いよく扉を開いた。十人は居る。一剛が鉄の盾を前に突き出し、斧を振り上げながら突っ込む。勇はそのすぐ後ろに続いた。風子は扉の脇にいた奴らを斬りつける。バンッ! バンッ! と衝撃音が連続して響く。勇が一人に苦戦している間に風子は入り口の二人を倒していた。一剛は斧を振り回し暴れまわる。一剛の隙を狙って剣で斬りかかる男をあかりが槍で突いてフォローした。勇たちがやっと一人倒し終わったくらいで、風子は五人を片付けていた。奴らの最後尾にいたのは、鉄の鎧と剣を装備した女の戦士と分厚いローブに皮の帽子と木の杖を装備した魔法使いだった。風子が叫ぶ。

「見逃してやる! 行け!」

 そう言うと女たちは走って逃げて行った。

「さあ、お前さんたちケガはないかい?」

 勇たちが頷くと、言葉を続けた。

「ここに居ても、また奴らの仲間が来るかもしれん。一階の奴らまで引き連れてきたら厄介だ。ボスの部屋まで一気に進もう。場所は案内する」

「ボス?」

 あかりが反応する。

「ああ、地下三階に降りる階段へ出るには二階のボスの部屋を通らないといけない。ボスと言っても噂では周囲との関係を完全に絶っているらしい。私は戦ったことないけどかなり強いらしいよ。一階のボスが子ども扱いされたって話だから用心するんだよ。行くよ」

 そう言い先頭を切って歩き出した。階段近くの天井にぶら下がっていたコウモリたちは、いつの間にか姿を消していた。歩いていると時折、床や壁に血痕らしきものがあり、骨らしきものも落ちていたが、それが人間のものなのかどうかは勇には判別がつかなかった。

 二階には一階以上に多くの部屋が存在した。何度も住人とすれ違ったが、襲ってくる者はいない。きっと風子を恐れているのだろうと勇は思った。幾度となく岐路を越え、何度か違う通路に出るための扉を開いた。二階の通路は複雑に入り組んでいて、風子が居なければ先に進むことは厳しかっただろう。

 風子が歩きながら言った。

「二階のボスはね、ここの連中を束ねているわけでも影響力を持っているわけでもない。むしろ敵対している。孤高の戦士とでもいったところかね。ただ居座っている場所が階段前の部屋なのさ。だからボスというよりは番人に近いのかね。いつも部屋に居るわけではないらしいから居ないことを祈ろうか。さあ、そろそろ着くよ、孤高の戦士の間に」

 少し進んでは曲がるをくり返していたが、行く手を阻むものは現れなかった。十五分ほど歩くと、長く真っすぐ伸びる通路に出た。

 孤高の戦士? 相手は一人なのだろうか? こんな場所で孤立して生きていくのは正気の沙汰とは思えない。そもそも人間なのか?

 長く真っすぐ伸びる通路をゆっくりと進んでいると、ずっと後方に数人の人影が見えた。孤高の戦士との戦いを見に来た野次馬だろうか? それとも潰しあって弱った所を襲うつもりなのかもしれない。それに気付いた風子が口を開く。

「中に入ったら鍵を掛けた方が良さそうだね。邪魔が入ると厄介だ。あんたたちの目的はウイッチとやらを追って地下三階に進む事だろ? だから無理して孤高の戦士と戦う必要はないんだ。なるべく私が奴を引きつけるから、あんたらは隙を見て先に進みな。私も適当に相手してから追いかける。十分経っても来なかったら私は置いて先に進んでくれ。いいな」

 風子の話が終わり、しばしの沈黙が続いたが、扉まで十メートルの所まで来て勇が口を開く。

「俺たちはウイッチさんを何としてでも助けたいけど、誰かを犠牲にしてまで助けたいわけじゃない。結果がどうなろうとも四人でぶつかる」

 一剛も頷きながら言った。

「風子さんは強いけどな、相手が強敵なら隙は生まれるで。四人で上手く立ち回れば相手も下手に手を出せへんしチャンスもあるはずや」

「そうよ風子さん! チームワーク見せてやりましょ」

 あかりもそれに乗った。

「ふふ、余計な心配だったかね。じゃあ後悔しても知らないよ!」

 風子はそう言って屈託のない笑顔を見せた。四人は扉の前まで来た。白銀の輝きを放つ観音開きの扉には、多種多様な怪物の絵が彫られている。その絵には人間の戦士や魔法使いらしき姿もあった。あかりが呪文の詠唱を始めた。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

 詠唱が終わると眩いオレンジ色の光を放つ小さな球体が、一気に広がり四人を包んだ。風子は白銀の扉を音もなくスッと開いた。室内はそれほど広くはなかった。少し広めの教室といったところだろうか。天井は通路より大人一人分の背丈ほど高い。勇たちはまず天井からぶら下がる何かに目がいった。二階入り口に居たコウモリたちだ。部屋一面に二十匹は居る。もしかするとここが本当の住処なのかもしれないと勇は思った。

 部屋の中には誰も居なかった。部屋の隅に木のベッドと、その横に木の机、それに背もたれ付きの木のイスがあった。デザインはシンプルであったが、その一つ一つに洗練された匠の技を感じた。机の上には本が数十冊、いくつかの山に分けられ積み上げられていた。部屋の右奥に入り口と同じ白銀に輝く扉が見えた。地下三階への階段に通じる扉だろうか。風子は部屋を見渡したあと口を開く。

「番人が留守なのはラッキーだね! 帰ってこないうちにさっさと先に進もう!」

 勇たちは頷いて、四人は部屋を後にしようとした。扉の取っ手に手をかけた風子が呟くように言った。

「鍵が掛かっているよ。これじゃあ先に進めない。困ったね」

 あかりが答える。

「じゃあ鍵はここの番人が持っているのね・・・・・・」

「ああ、待つしかないね」

 その瞬間、部屋の入り口の扉が開いて、全身鉄製の防具を身に着け、手に剣や槍を装備した二階の住人たちが顔を覗かせた。その内の一人が声を上げる。

「まずい。奴が居るぞ!」

 その声とともに扉はバタン! と勢いよく閉まる。二階の住人たちは風子を恐れて戻っていったようだ。

 勇は頭の中にふと違和感がよぎった。三人くらいが覗いていた。しかし三人の目線の先は風子や俺たちではなかったような気がする。まさか! 勇は思わず身構える。それに呼応するように、隣に立っていた一剛も武器を構えて勇の目線の先を見た。

「勇さん、どないした?」

 一剛、あかり、風子の三人は、勇の目線の先を見ている。勇は天井のコウモリたちを見ていた。

 四人を包んでいたオレンジの光の膜が消えた。あかりの唱えた防御力上昇の魔法が切れたのだ。それを確認したかのように天井が騒がしくなる。一匹のコウモリが大きく羽を羽ばたかせ部屋の中央に降り立った。それを合図に残りのコウモリたちが一斉に、そのコウモリの方に向かって飛んでいく。部屋中に無数のバタバタっと羽ばたく音が響き渡った。飛んでいったコウモリは次から次へと最初に床に降り立ったコウモリに衝突し消える。ぶつかっているというより、分かれていたものが、融合して一つに戻るといった感じだ。二十匹は居たコウモリが、わずか五秒足らずで一匹だけになってしまった。

 一匹になったコウモリは次第に姿を変え始める。背中の羽は形を変え、人の腕になり、脚も人の脚に変化した。身体は紫色の光に包まれ、頬からあごにかけて長い髭をたくわえた小さな老人が姿を現した。痩せこけた百五十センチほどの身体にはフードの付いた漆黒のクロークを羽織っている。肩くらいまである白髪は、前髪も横もすべて後ろでまとめて結んでいた。

 勇には意外だった。てっきり頑丈な鎧で全身を固めた戦士を想像していたからだ。目の前の小さくひ弱そうな老人は武器はおろか防具らしきものも装備していない。これが二階の住人たちが恐れるほどの男なのか? 老人は部屋の中央立つと、ブツブツと独り言を口にしている。それを見た風子がハッとした様子で呪文の詠唱を始めた。

「宇宙(そら)に輝く星の光よ、魔を絶つ守護の盾となって、我が前に姿を現せ」

 風子の詠唱を聞いた勇たちは、目の前の小さな老人が強力な魔力を秘めていることに気づいた。老人はいつの間にか手にナイフを握っている。ナイフは老人の身体と同じ紫色の光を放っている。老人の独り言が終わると、身体をすっぽりと包むように濃いオレンジ色の球体が現れた。あかりが使う物理防御力上昇魔法の上位互換といった所だろうか? あかりが老人に語りかける。

「私たちは無益な争いはしたくない。あなたは何のために戦うの?」

 老人は、しわしわの顔に不気味さを演出させているギョロっとした目をあかりの方へ向けた。老人がようやく口を開く。

「お前たちは外から来て、帰ろうと思えばいつでも帰れるのだろう? わしらは違う。食べるためにも、生き残るためにも戦い続けるしかない。そして外の世界に戻るためには、ここの主を倒さねばならん。お前たちの仲間に乗り移った主をな。それを倒すどころか助けようとする者に味方などできるはずがなかろう。それとも、乗り移られ操られているウイッチとやらが自分で奴を成仏させるとでも?」

「ここの主って?」

「ここの連中の間では災いをもたらす者と呼ばれている。さあ、分かったら仲間のことは諦めて帰れ。奴はおそらく最下層にいる。いずれにしてもお前たちにはたどり着けんさ。ここから先は人間の住む世界ではないからの」

「たどり着けないと思うなら通してくれてもいいんじゃない? 私たちはウイッチを取り戻すためなら何度でも来るわよ!」

「ほ~う。威勢がいいのぉ若いの。どれほどのものか試してやるわ」

 老人はそう言ったかと思うと、老人を包む紫色の光は、真っ赤に燃えさかる赤色のオーラが加わり一段と強い光を発した。

 四人は武器を手に身構える。そしてそれぞれ老人から五メートルほどの距離を開け、囲むような位置に移動し始めた。勇は内心迷いがあった。この老人がなぜここに来ることになったかは知らないが、間違ったことを言っているとも思えなかった。しかしウイッチを助けるためには、今は突き進むしかない。

 老人の背後に回った一剛がそっと斧を振りかぶった。老人は右手にナイフを胸の高さで握り、何も持っていない左手も胸の高さまで上げ、こぶしを握りしめている。

 一剛が老人目がけて背後から斧を投げつけた。しかし老人は後ろを向いたまま、一剛の手から斧が離れるかどうかのタイミングでサイドステップで斧の軌道から離れていた。まるで後ろも見えているように。そして振り返り、お返しとでも言わんばかりに、握っていたこぶしを一剛の方に向けてパッと開いた。バンッ! という高い音とともに爆風のような衝撃が一剛を襲い、一剛は吹き飛び、壁に叩きつけられた。反射的に鉄の盾で顔はガードしていたものの背中を石の壁に打ちつけられた衝撃で一剛は床に崩れ落ちる。

「ごう!」

 あかりが叫び、次は風子が仕掛けた。距離は詰めずに白銀の剣を振り衝撃波を放つ。バンッ! バンッ! バンッ! 目にも止まらぬ三連撃の衝撃波が老人を襲う。しかし、老人が創り出した濃いオレンジの球体に当たりかき消された。

 勇とあかりが一気に老人との間合いを詰める。間合いの長いあかりの槍が老人の身体に届きそうになったが、老人の身体に槍が触れる前に、あかりの身体に衝撃波が走った。老人があかりに向け目を見開き、その瞬間にあかりに爆風のような衝撃波が襲ったのだ。勇が老人の左腕に斜め上から渾身の力で鉈を振り下ろす。腕を斬り落とすくらいのつもりで振り下ろしたが、ガッっという音が響く。老人が頬の片方を吊り上げるる苦悶の表情を見せ、右手のナイフを振り回した。

 老人はクロークをめくり、鉈の当たった左腕を確認している。当たった場所には幅の広いシルバーバングルが装備されていた。ただ、衝撃でそれなりのダメージは与えたようだ。あかりが立ち上がり、老人の背後で一剛もゆっくりと立ち上がった。風子が間合いを詰める。勇は老人から戦意が消えていることに気づいた。老人が口を開く。

「待て! 争いはここまでだ。お前たちの覚悟は分かった。そう言って老人はナイフをクロークの中へとおさめ、部屋の隅にある机の引き出しから布の袋を取り出して持ってきた。その中から緑色の液体が入った小さな小瓶を取り出し、あかりと一剛に渡した。

「飲め。傷が癒える」

 そう言って老人も同じものを飲んで見せた。そして勇からの攻撃を受けた自分の左腕を見てから床に座り込み、布の袋の中身を一つずつ取り出した。すべて液体の入った小瓶で、緑、青、紫と三種類あった。一剛は床に座り緑色の液体が入った小瓶を一気に飲み干すと、数秒間を置いてから言った。

「あ、これごっついな! 痛みが引いてくわ」

 それを聞いてあかりも小瓶の液体を一口飲んだ。

「ま、まず・・・・・・」

「これ、一気に飲み干さんか」

 老人に言われ、あかりは残りを一気に飲み干した。

「これなんですか?」

「緑色が傷薬じゃ。軽いケガくらいならこれで十分。青色は瀕死の状態からでも全快できる貴重なものじゃ。紫色は毒を治す。強力な解毒作用がある。地下三階の不死者に噛まれたら使うといい」

「おじいさんは三階に行ったことがあるんですか?」

「ああ、四階まで降りたことがある。ここの連中の中でも腕利きを数人連れてな。昔はそこに居る風子くらいの腕利きが何人も居たんだ。みんな下の階層を目指して命を落としていった。この迷宮は、二階までは落ちぶれた冒険者たちが徘徊してるだけだが、三階からは世界が変わる。お前たち素手で大型の猛獣を倒せるか? 倒せんだろう。人と猛獣は、人が銃などの武器を手にしてやっと対等になる。それくらいの戦力差があるが、地下三階以降はそれを超えてくる」

「風子さんみたいな特殊な装備がないと厳しいんですね」

「あっても厳しいだろうが、あればぜんぜん違うな。以前三階に貴重な装備が眠っているって噂は聞いたことがあるが、不死者の巣になっててじっくりと探索なんてしておれんだろうな。間違いなく命がけの探索になるだろう」

「四階はどんなところですか?」

「四階はわしらも入ってすぐに戻ってきたから、まともに探索はできなかったよ。四階に住むのはワーウルフ。いわゆる獣人じゃ。二足歩行の大型の狼と思えばいいじゃろ」

 あかりは老人から薬品の入った小瓶を五つ受け取った。緑を二つ、青を一つ、紫を二つである。老人はクロークの中から鍵を出し、部屋の奥にある扉を開けた。勇たちは老人に薬と情報のお礼を言って部屋をあとにした。

ミノタウロス(地下三階)

 勇たちは階段を降りて地下三階に足を踏み入れた。風子の表情に今までにない緊張が走っているように見えた。どうやら地獄の門をくぐったらしい。二階よりも暗くなった気がする。あまり遠くまで見通せないので敵の接近に気づくのも遅くなりそうだ。階段を降りて目の前は壁で、左右に通路が伸びている。遠くの方で悲鳴が聞こえた。どうやらこの階層のようだ。あかりが心配そうに左の通路の先を見ている。風子も左の方を見ながら言った。

「二階の一部の部屋は梯子で、この三階と繋がっていてね、二階の命知らずの連中がたまに探索にくるのさ。さっきの爺さんも言っていたが、昔からここ三階には魔力を秘めた貴重な装備があるという噂があってね。隠し部屋があるって噂もあるよ」

「探す価値はあるな」

 一剛が答えた。

「ふふ、不死者と戦った後も同じことが言えるかどうか。とにかく噛まれないようにするんだよ。毒のまわりが早いからね。一応私も解毒剤は一個だけ持ってるけどなるべく温存したい。お前さんたちは軽装だから心配だよ」

 風子はそう言って右の通路へと進んだ。その後に一剛とあかりも続いた。少し遅れて勇も歩き出す。勇は自分の持つ鉈を見て物足りなさを無さを感じた。果たしてこの武器でどこまでやれるだろうか? 対峙する相手の戦力は大型の猛獣を超えるというのに。

 しばらくすると左に進む通路が何本か見えてきた。風子はその内の手前から二本目の通路へと進む。あかりが聞いた。

「風子さん道知ってるの?」

「四階に降りる階段の場所は知らないよ。ただ私が以前通ったことのある道は避けてる。そこにはお宝がないからね。あと、通路の隅に宝箱を見つけても開けるんじゃないよ。開けた瞬間大きな音が鳴り響いて敵を引き寄せる」

 風子がそう言って二十秒も経たない内に通路の隅に宝箱を見つけた。更に進むとT字路に出た。四人がT字路に近づくと右側の通路から比較的状態の良いミイラのような見た目の不死者が二体歩いてきた。決戦場で見た者とは違って身体が変形したり崩れたりはしていない。こちらは見ずに真っすぐ左の通路に向かって歩いていく。勇たちはジッと動かず声も出さずに、不死者が通り過ぎるのを待った。

 突如として迷宮内にウオーーン! と、覆面パトカーの取り締まりに引っかかったかのような、けたたましい高音のサイレン音が鳴り響いた。後方で叫び声が聞こえる。逃げるぞっと言っているように聞こえた。二階の住人が探索に来て、先ほどの宝箱を開けてしまったに違いない。周囲が静かなこともあり、サイレンの音はかなり広範囲に響き渡っていると思われた。

 後方でサイレンを鳴らした何者かが走り去る音が聞こえ、今度は前方から誰かが近づいてくる足音が聞こえた。左の通路から先ほどの二体の不死者が戻ってきた。そのまま右の通路へ行ってくれることを祈ったが、先頭の一体が立ち止まり顔をこちらに向けた。それに釣られるようにもう一体も顔を動かす。

「ウガア ア ア ア」

 地の底から這い出てきたような、この世の者とは思えない不気味な低い声を発しながら勇たちに襲いかかってきた。速い! その動きは勇たちが決戦場で見た動きの鈍いゾンビたちとはまるで別物だった。その勢いは短距離走者顔負けの速さで、先頭にいた風子は異常に身体能力の高いゾンビの突進に対し、盾を突き出しガードすることで精一杯だった。二匹目のゾンビが両腕を身体の前に出した前傾体制をとりながら、素早く一剛との距離を詰めてくる。

「ウガ ア ア ア ーー!」

 唸り声を上げながら一剛の脚に組み付くゾンビの肩をあかりが槍で突く。しかしゾンビの皮膚は鋼線を編み込んでできているのではと思えるほど固く、刃先がわずかに刺さった程度で、ゾンビは瞬時に槍をはね除け、あかりに突進してきた。

「オラッ!」

 勇がゾンビの横腹目がけて蹴りつける。転倒したゾンビに追いかけてきた一剛が脳天に斧を振り下ろした。更にあかりが槍に全体重を乗せるようにゾンビの胸辺りを突き刺した。今度は貫通するくらい深く刺さった。

 風子の方もすでに決着がついていた。ゾンビの首は胴体から離れて床に転がっている。風子が近づいてきた。

「二階の連中の仕業かもしれないね。私らを殺すためにわざとゾンビたちをおびき寄せたのかもしれない」

「え~! 最低!」

 あかりが答える。

「まあね、ここでは迷宮の怪物たちを利用して他の気に入らない冒険者を潰そうとするのは、よくあることさ。あれだけ大きな音が鳴り響いたからゾンビたちが侵入者を探し回っているだろう。油断するんじゃないよ」

 風子はそう言って歩き始めた。T字路を右に曲がりしばらく進むと、またT字路に出た。そこに着くまでの壁に扉が二つあったが、風子は興味も示さず通り過ぎた。右の通路の先は行き止まりで突き当りに扉が見えた。左の通路の先は少し進むと広間のような所に出るようだ。風子は記憶を思い出そうとしているのか、少し考える素振りを見せてから右に進んだ。扉に鍵はかかっておらず風子は迷う様子もなく開いた。十畳くらいはある部屋の真ん中辺りの天井に人一人が通れる丸い穴が開いていて、そこに金属製の梯子が設置されている。部屋の隅には宝箱が一個置いてあった。風子が口を開く。

「広間の方へ行ってみよう。ゾンビたちがいるかもしれないけど、その先は私にも未知の領域だ。四階への階段があるかもしれない」

 四人が部屋を出て広間に向かう途中、どこか遠くから断末魔の叫びが聞こえてきたが、誰も反応しなかった。広間の入り口には扉が無く、中にはミイラ化した死体が部屋中に所狭しと横たわっていた。三十体近くは居るだろうか。うつ伏せになっている者から横向きで丸まっている者。仰向けの者。それぞれが寝相の悪い人のように頭も手足も好き勝手な方向を向いている。ここで冒険者たちに倒されたのかもしれない。

 正面突き当りに狭い通路が見えた。勇は今入ってきた広間入り口の壁を見ていた。扉は無いが、かつて扉があった形跡がある。計画的に撤去されたというよりは、圧倒的な力で破壊されたようにも見える。

 四人は広間を通り過ぎ、広間奥の狭い通路へと入った。そこは通路の両側に鉄格子の部屋が並ぶ牢獄だった。三畳くらいの狭い牢屋が二十メートルほど先まで等間隔で並んでいた。牢屋の中には鏡付きの小さな洗面所があり、壁から水道の配管が伸び、蛇口も付いていた。壁の無いトイレと古びた木のベッドもあった。どの牢屋にも人影はなく、すべて扉が開いている。通路突き当りまで進んだところで、勇は右側の牢屋に入っていった。洗面所の蛇口を捻ると勢いよく錆びの混ざった水が噴き出した。水は十秒足らずで錆色が薄れ透き通っていく。鏡に目をやると、疲れた表情のあかりと一剛の姿が映っていた。通路の方へ目を向けると、風子が牢獄入り口の方を見ている。敵が来ないか警戒しているのだろう。勇はベッドの下の床が割れているのに気がついた。何となく気になって下を覗き込むと、ベッドの下の床に直径六十センチくらいの大きさで、丸く切り込みが入っていることに気づいた。切り口は幅三ミリくらいあり勇の鉈が入りそうだった。あかりと一剛もベッドの下を覗き込む。

「なんだろう、これ?」

 勇はそう言って切り口に鉈を差し込んでテコで起こすと。丸くて薄い鉄板が持ち上がった。勇はそのまま横へずらす。丸い鉄板を手で横にやって下を覗いた。ベッドが陰になってよく見えない。勇は一剛と二人でベッドを横にずらしてから再び中を覗いた。中は竪穴になっていて下に向かって梯子が伸びている。一剛が不思議そうに首をかしげて言った。

「牢屋の中に隠し通路? ちょっとありえへんな。むっちゃ丁寧な造りや。囚人が造れるようなもんやないで」

「下ってことは四階に出るのかな?」

 あかりが言った。勇たちが竪穴に興味を示している間に、通路に居たはずの風子の姿が消えていた。勇が少し焦って口を開く。

「あれ? 風子さんは?」

 勇たちは通路へと出ると、風子がちょうどこっちに向かって歩いて来るところだった。その顔は青ざめている。あかりが心配して声をかける。

「どうしたの風子さん! 誰か来たの?」

「ゾンビどもが見えない・・・・・・」

「え? 床に倒れてたゾンビたち?」

「ああ、広間まで見に行ってはないけど、あんなに沢山居たんだ。こっちから見えるはずだが、一体も見えない」

 四人は恐る恐る広間の方へ、足音を立てないように静かに歩き出した。広間に近づくと、ゾンビたちの姿は無い。あかりが急に広間の方を指差して口を開く。

「ねえ、広間の方おかしくない?」

 風子が答える。

「これはまずいな・・・・・・」

 広間内のあちらこちらで、空間が歪み始める。五秒も経たないうちに広間内は三十体はいるであろうゾンビたちに埋め尽くされた。何者かの意志によって操られているかのように、そのすべてがこちらを向いている。あかりは魔法を詠唱するのも忘れ、青ざめた恐怖の面持ちで槍を構えている。勇はそれに気付いたが、今のあかりには言葉に力を与えることはできないだろうと悟った。勇は一剛に声を掛ける。

「なんとかさっきの隠し通路へ」

「せやけどこの数は・・・・・・」

 四人は武器を構えながら死角を作らないように、牢獄の通路へ後ずさりしはじめた。風子と一剛が先頭に立ち進入を阻むべく迎え撃つ態勢をとった。次の瞬間、ゾンビたちは突風のような勢いで通路になだれ込んできた。バンッ! バンッ! バンッ! と、風子が白銀の剣を振りかざし、立て続けにゾンビ目がけて衝撃波を放つ。衝撃波を受けたゾンビは体勢を崩し転倒したりのけ反ったりしながらも再び襲ってくる。一剛は燃えるような赤色のオーラを放ち、戦の開始を告げる雄叫びを上げた。

「ウオ オ オ オ ーー!」

 四人の物理攻撃力が大きく上昇した。それに呼応するように、一剛のすぐ後ろにいたあかりが魔法の詠唱を始める。

「命を育む母なる大地。我が子を守る衣となって、その身を光で包み込め!」

 あかりの身体は眩い金色のオーラをまとった。オーラは光の衣に姿を変えて四人を包み込む。勇は追い詰められた絶体絶命の状況の中で、不思議と恐怖を感じなかった。チャンスはある! そう思えてきた。そして四人の物理攻撃力は更に上昇する。大幅に身体能力が向上した一剛は、重たい鋼の斧をまるで軽いナイフでも扱っているように速く操った。風子と一剛の猛攻でゾンビたちの勢いは落ちた。風子と一剛の隙を狙って組みつこうとする奴らは、勇とあかりが攻撃した。

 四人で二十体は倒したかというところで一剛が膝をついた。身体へのダメージが限界に近づいていたのだ。あかりが叫ぶ。

「ごう! 受け取って!」

 一剛はあかりが投げた緑色の液体が入った小瓶をキャッチし、栓を抜き一気に飲み干した。ゾンビがその隙を狙って突っ込んだが勇に蹴られ壁へ強く叩きつけられた。

「何度飲んでもまずいな・・・・・・」

 一剛はそう言って立ち上がり、再び斧を構える。ゾンビたちは風子の武器が放つ衝撃波と、一剛の後ろから援護するあかりの槍を警戒して下手に出てこれなくなっていた。残った十匹ほどのゾンビたちは広間の方へ後ずさりを始める。一剛がゾンビを斧で威嚇しながら言った。

「ははっ! 逃げるゾンビなんて聞いたことあれへん」

 勇はゾンビたちの行動に何か違和感を感じたが、成り行きを見守った。風子も何かを感じとったのか警戒を解く様子はない。あかりは風子の横に来て言った。

「風子さん、緑の小瓶使いますか?」

「私は大丈夫だよ。ありがとう。それにまだ先は長いからね、とっておいた方がいい。それより変だね。不利になったとはいえ、ここのゾンビたちが退くなんて聞いたことがない」

 後ずさりしたゾンビたちは四人に背中を向け、広間の中央まで行き円陣を組むように並び、その円の中心に向いて詠唱を始めた。その時、広間入り口から、全身鉄の装備で身を固めた三人の戦士と黒いローブを羽織った魔法使いが姿を現した。おそらく二階の住人が探索に来たのだろう。四人は勇たちに気づいたが、それより目の前で行われているゾンビたちの謎の行動に興味を示しているようだった。あかりが心配そうに風子に話しかける。

「あかりさん、これは?」

「私も始めて見たよ。何の儀式だろうね」

 ゾンビたちの詠唱は止み、一瞬の沈黙の後、円陣の中心の空間が大きく歪み始めた。歪んだ空間からは、漆黒の闇と妖しい紫の混じりあった禍々しいオーラが放たれている。

 姿を現したのは牛の頭部に逞しい巨人の身体、闘牛のように発達した牛の脚。二本足で立つその姿は、初めて見る勇にもそれが何者かが分かった。

 神話に登場する牛の頭を持つ巨人、ミノタウロスだ。頭部には弧を描く二本の角が生え、両手で巨大な鋼の斧を握っている。上半身は裸であったが、よく発達した分厚い筋肉は、二階の住人が装備している鉄の鎧より頑丈そうに見えた。二メートルは軽く超えるミノタウロスが円陣を組むゾンビたちに近づく。巨大な鋼の斧を素早く横に構えると、大きく振り回して三体のゾンビが宙を舞った。広間の壁の方まで飛んでいったゾンビたちはそのまま動かなくなった。その様子を見ていた残ったゾンビたちが一斉に逃げ出す。

 ミノタウロスは勇たちを恐ろしい形相で睨みつけ雄叫びを上げた。

「グオ オ オ オ オ オ オ オ オーー!」

 三階層すべてに響き渡ったであろう雄叫びに、勇は恐怖を隠し切れなかった。一剛とあかりは顔を引きつらせている。風子は中段に剣を構えてジッとしている。ミノタウロスは周囲を素早く見渡し、広間入り口の二階の戦士たちの方へ走り出した。巨体に似合わぬ俊敏な動きで一気に距離を詰めた。魔法使いの放った火球がミノタウロスの胸をとらえたが、身体から放つ禍々しいオーラがそれをかき消した。ミノタウロスは突進しながら斧を振り下ろした。魔法使いは肩から下腹部にかけ大きく切り裂かれ絶命した。残った三人の戦士が三方向からそれぞれ、剣、斧、槍を持って同時に攻撃を仕掛ける。ミノタウロスは剣と斧を自分の持つ鋼の斧でなぎ払い、槍を掴み、角を振り回して槍の戦士の頭部に致命傷を与えた。槍の戦士はうつ伏せに倒れ、そのまま動かなくなった。斧の戦士はミノタウロスのなぎ払いで斧を遠くに飛ばされ慌てて取りに走る。剣の戦士はミノタウロスの巨大な太もも目掛けて全体重を乗せて踏み込み長剣で突いた。

「グオ オ」

 ミノタウロスは痛みで唸り声を上げたが、分厚い強靭な筋肉に阻まれ攻撃は浅く、ミノタウロスは斧を振りかぶり反撃した。剣の戦士は盾で受け、バックステップで距離を取った。

 わずか三十秒にも満たない間に二階の戦士たち四人が追い詰められたのだ。勇は心底恐ろしいと感じた。そしてこんな時にウイッチの魔法があればとも思った。いや、そんなことを考えても仕方ない。今はどうやって倒すかを考えるんだ! 勇は自分に言い聞かせ鉈を構えた。あかりが魔法の詠唱を始める。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

 あかりの詠唱が終わると、四人の立つ中心くらいにオレンジの眩い光の球体が出現した。こぶしほどの大きさの光は、一気に半径二メートルくらいの大きさまで膨れ上がって消えた。四人の物理防御力が大幅に高まった。

 ミノタウロスは剣の戦士を追撃しようと間合いを詰める。剣の戦士はミノタウロスの周りを円を描くように回り隙をうかがっている。風子がミノタウロスを挟んで剣の戦士と向かい合う位置まで移動していた。勇たちもミノタウロスとの距離を詰める。勇は思った。あの長剣の戦士はできる。あの戦士を入れて五人ならチャンスはある。風子もそう思ったに違いない。五人はミノタウロスの周りを囲むような位置に立った。ミノタウロスは周囲をグルっと見渡してから風子の正面を向いた。一番背中を向けてはいけない相手を分かっているようだ。

 長剣の戦士がミノタウロスの横から間合いを詰める。ミノタウロスは長剣の戦士に突進した。斧を振りかざして素早い猛攻を見せる。長剣の戦士は勢いに押されながらも巧みな足さばきで避けたり、盾で受けたりしながら攻撃をなんとかしのぐ。風子が横から剣を振りかざし衝撃波を何度も放つが、ミノタウロスはまったく意に介さない様子で猛攻を続ける。一剛と勇が二人でそれぞれ斜め後方から一気に間合いを詰めると、ミノタウロスはまるで背中にも目があるかのように、急に振り返り巨大な鋼の斧を振り回した。勇はバックステップで避け、一剛は鉄の盾でガードするが、あまりの怪力に身体が宙に浮きあがった。あかりがミノタウロスの膝を槍で突いた。ミノタウロスの顔が一瞬歪んだが、ミノタウロスは片手であかりの槍を奪い取ってしまった。ミノタウロスは奪った槍を長剣の戦士目掛けて投げつけた。長剣の戦士は盾で槍を弾き、ミノタウロスの脚に斬りかかった。それを斧で受けたミノタウロスの顔面目掛けて、風子が衝撃波を放つ。衝撃波はミノタウロスの目をまともに捉え、呻き声を上げた。

「グ ア ア アーー!」

 片手で目を押さえながら、もう片方の手で斧を振り回した。風子は突っ込み、斧を跳びあがって避けながらミノタウロスの首を水平に斬りつけた。長剣の戦士は風子が斬った反対側の首に斬りつける。ミノタウロスは血しぶきをあげ両膝をつき、そのままうつ伏せに床に倒れた。

 風子が長剣の戦士に声を掛けた。

「おかげで倒すことが出来た。ありがとう。仲間の魔法使いのことは残念だったね」

 長剣の戦士は風子に剣を向け鋭い眼光で睨みつけた。仲間の槍の戦士は動く様子はなく、斧の戦士はすでに広間から居なくなっていた。仲間の居ない状況でも関係ない様子で剣を構え、風子との間合いを詰める。風子は聞いた。

「お前さんの目的はなんだい? 私と戦うことに意味があるとでも?」

「俺の狙いは最初からお前だ。そこの外から来た侵入者もついでに片付けてやる」

「わからないね。あんたとは初対面だと思うが、私に恨みでもあるのかい?」

「恨みなどない。二階で一番強いと噂の白銀の戦士と戦いたいだけだ」

「ふん、戦闘狂か。それは迷惑なこった。感謝の気持ちを返して欲しいね」

 あかりが長剣の戦士に槍の刃先を向けて言った。

「四対一でもやるつもり?」

 あかりがそう言うと、長剣の戦士はどこから出したのか、隠し持っていたナイフをあかりに投げつけた。ナイフはあかりの胸辺りに突き刺さり、あかりはその場にうずくまった。長剣の戦士は風子の方を向いて言った。

「これで三対一だな」

「おどれ!」

 一剛が怒りをあらわにして長剣の戦士に向かっていく。次の瞬間、走る一剛の前の床にバンッ! と衝撃波が当たる。頭に血が上った一剛に、風子がしっかりとした口調で言った。

「抑えるんだよ。これは不利な状況で活路を見い出す奴の作戦さ。それに今なら青色の薬を飲ませるか、傷口にかければあかりは回復する」

 一剛はそれを聞いて落ち着いた。一剛は長剣の戦士を警戒しながらあかりに近づく。勇はその間に入り長剣の戦士をあかりに近づけないようにした。長剣の戦士は作戦が狂ったと言わんばかりにチッ! と舌打ちをした。

「あかりっ! ナイフを抜くから青い小瓶の薬を飲み干せ! あかりっ!」

 あかりはすでに意識が無くなっていた。一剛はあかりのダウンジャケットのポケットから小瓶に入った青い薬を取り出し、ダウンジャケットのファスナーを下げてからナイフを抜き取った。そしてすぐに瓶の栓を開けて傷口にかけた。ナイフを抜き取り噴き出した血は、青い液体をかけて数秒で止まった。みるみるうちに傷口が塞がり、あかりは意識を取り戻した。

「ごう・・・・・・。」

「よかった。青い薬効いたな」

「青い薬使ったの? ごめん。青は一個しかない貴重なものだったのに」

「何言うとんねん。今使わんといつ使うんや」

 風子は長剣の戦士との間合いを詰めながら勇たちに声を掛けた。

「悪いけど足手まといになるから手は出さないでおくれ。一対一の方が私も実力を発揮できる」

 長剣の戦士はニヤッと笑って言った。

「よく分かっているねえ」

 そう言って剣を構えた。勇たちは固唾を呑んで見守った。風子がそう言うなら任せた方が賢明だろう。風子は疾風の連撃で剣を振るう。脚、銅、頭と散らした攻撃にも長剣の戦士は軽やかに避ける。風子が間合いを詰めると長剣の男は隠し持っていたナイフを風子の顔目掛けて投げつけた。風子は盾で弾きながら一気に間合いを詰めて剣を振り下ろした。長剣の戦士は盾で受け止め斜め上から風子を斬りつける。風子は間一髪剣で受け止め、二人はそのままつばぜり合いになった。若干押される風子。なんとか押し負けないように耐えていたが、長剣の戦士は風子の剣ごと上に振り上げ、引きながら銅を斬りつけた。鋼の長剣は風子の鎧をとらえたが、ガンッ! と音が響いただけで風子は平然としていた。長剣の戦士は驚いた様子で口を開く。

「白銀の防具。中々のものだな。叩き割るつもりで打ち込んだんだが」

「魔力が宿ってるからね。私に勝ったらくれてやるよ。鋼の装備は重たいんだろ?」

 その時、床に倒れ、すでに死んでいたはずのミノタウロスから禍々しいオーラが放たれた。二人は戦いをやめ、一旦距離を取った。ミノタウロスはゆっくりと身体を起こす、目は赤い光を放ち身体の色は黒く変化していった。もはや人でも牛でも獣人でもない、この気配は不死者。勇はそう感じとっていた。何者かに操られているに違いない。しかも以前よりもオーラが強くなっている。ミノタウロスはゆっくりと長剣の戦士に近づいていく。長剣の戦士は身構えてから口を開く。

「死にぞこないが。今度は完全に首を落とす必要があるな」

 ミノタウロスは長剣の戦士の声を無視するように、鋼の斧を握り、黙って距離を詰めてくる。長剣の戦士はミノタウロスの周りを回り始めた。今度は誰も長剣の戦士に加勢しようとしない。ミノタウロスは斧を片手で持ち、反対の手を長剣の戦士の方へと向けた。ミノタウロスの手が一瞬は青色に光った後、猛烈な吹雪が長剣の戦士を襲った。長剣の戦士は回避が間に合わず盾で顔をガードした。しかし狙いは足で、長剣の戦士の足元は凍り付き身動きがとれなくなった。何とか動く上半身で剣を使い氷を砕こうとする。なんとか片足を自由にした所で、ミノタウロスが目前に迫っていた。巨大な鋼の斧を両手で握って振りかぶり、長剣の戦士の足下目掛けて振り回した。

「ウ ア ア ア アーー!」

 片足の足首から下を失った長剣の戦士に更なる追撃が加わる。長剣の戦士は両足を失いうつ伏せに床に倒れた。さらに上から頭を踏みつける。風子は後退りしている。勇が叫んだ。

「隠し通路まで走ろう! 風子さん! 一番奥の牢屋に隠し通路があるんだ! 行こう!」

 勇の掛け声とともに四人は走り出した。不死身になり強力な魔法まで使われたら四人がかりでも勝ち目は薄い。勇はそう思って必死に逃げた。ミノタウロスは虚を突かれたのかすぐには追ってこなかったが、勇たちが牢獄の通路に入るのを見て雄叫びを上げて追い始めた。

「グ オ オ オ オ オーー!」

 不死者になった漆黒のミノタウロスは四人を追いかけながら背後から氷の魔法を放ってくる。魔法の効果範囲に入れば走ることも出来なくなる。勇たちは死にもの狂いで逃げた。牢獄の突き当り右の部屋に四人が駆けこんだ時には、すでにすぐ背後に迫っていた。勇と一剛は大急ぎで内側から牢獄の扉を閉めた。勇はベッドを横に立て、氷の魔法から身を守ることを思いついたが、ベッドを見て思わず声を上げた。

「うわっ!」

 背後を気にしながら慌てて部屋に駆け込み気付いていなかったが、ベッドの上には最初入ってきた時には居なかった人? が座っていた。いや、パニックで人なのかも判断できない。他の三人も気づいたが、それどころではない。ミノタウロスは鉄格子に体当たりし、鉄棒くらいの太さの鉄格子は大きくグニャっと曲がった。あと数回体当たりすれば入ってこれそうだ。その時ミノタウロスが扉に気づいた。扉を開き侵入してくる。その時、ベッドに座っていた、全身を赤褐色の銅の装備で固め、口周りからあごにかけて長い髭を生やした背丈の低い筋肉質の年老いた男が声を掛けてきた。

「お前さんたち何か食いもの持ってないか?」

 凶暴な漆黒のミノタウロスが目の前に迫っていることなど、まるで気にならない様子でチョコンとベッドに腰掛けている。彫りの深い顔に実直な雰囲気が伝わる目、少し横に広がった大きな鼻、銅の兜からは雪のように白い髪が見えていた。膝の上には大きな斧が乗っている。一剛の持っている斧よりこぶし二つ分くらい長い。刃の部分は異常に分厚く両手でも扱うのは、かなりの力を要しそうだ。斧はそれ自体から今にも燃えるような赤いオーラを放っていた。以前、勇が一剛に最初に会った時、まるでファンタジー世界のドワーフみたいだと思ったが、目の前の屈強そうな老人は、まさにドワーフそのものだった。

 ミノタウロスが斧を振りかぶり、一剛は盾を構える。その瞬間、ベッドの上のドワーフは座ったまま「フン!」と言って斧を投げつけた。斧はミノタウロスの腹部に当たり炎が巻き上がる。ミノタウロスは鉄格子に背中を叩きつけられた。ドワーフは物凄い瞬発力でドン! っと床を蹴って前に飛び出し、斧が床に落ちる前に取り、ミノタウロスの脳天目がけて斧を振り下ろした。振り下ろした瞬間に斧は炎を放ち火属性の追加ダメージを与えた。勇たちは鉄格子にもたれ掛かり床に尻をつき頭を下げる姿を見て、すでにミノタウロスが絶命していることを理解した。ドワーフは再びベッドに腰掛け膝の上に斧を乗せた。

「あ、ありがとうございます」

 勇はドワーフにお礼を言った。一剛とあかりも驚きを隠しきれない表情で、お礼を言った。風子がドワーフに話しかける。

「凄い威力。その斧は?」

「ん? これか? 火の魔力が宿った魔法の斧さ」

 ドワーフは落ち着いた穏やかな口調で答えた。話し方と表情、そして目から、安心感さえ伝わってきた。あかりが話しかける。

「私たちはここに来たばっかりなんですけど、あなたはずっとここに住んでるんですか?」

「うむ、相当な古株だ」

「最近ここに来た氷の魔女について何か知りませんか? 私たちの仲間なんです」

「氷の魔女? そう言えば最近、四階のワーウルフどもが凍っていたことがあったが、もしかするとその魔女の仕業かもしれんの」

「そうですか。じゃあウイッチはさらに下の階層を目指したかもしれないののね」

「ほう、ウイッチって言うのか、お前たちの仲間の魔女は」

「はい。ウイッチを追ってここに来ました」

 勇がベッドの上にリュックを下ろし、中から鈍器のように長いフランスパンを二つ取り出した。

「よかったらどうぞ」

「むむっ! これはパンか! うまそうだの!」

 ドワーフはそう言ってパンを手にし、袋を破いてパンを取り出し、がぶりと食らいついた。モグモグ大きく口を動かし嬉しそうに食べている。

「こんなうまいもの久しぶりに食ったわい。ワーウルフの肉よりうまいの」

 すかさずあかりが聞いた。

「え? そのワーウルフっておいしいんですか?」

「いんや。固くてまずい。お勧めはできんぞ」

 ドワーフはあっという間に長いフランスパンを平らげ、もう一個のフランスパンをジッと見つめている。

「もう一個もどうぞ」

「本当か?」

 ドワーフは嬉しそうに手に取り、大事そうに手に取った。

「そうそう。この下がわしの隠し部屋になっておっての。四階からでも入れるが、扉が無くて壁の仕掛けを操作しないと入れないから、まず誰も気づかない。せっかくだから部屋に寄ってけ。お前たちに役立つものもあるかもしれん」

 ドワーフはそう言って梯子を降りて行った。勇たちも後に続く。下に降りると、大人二人が何とかすれ違える狭い通路に出た。そこから道なりに進むと銅で作った丈夫そうな扉があり、ドワーフが鍵を開けて中に入ると、学生の一人暮らしのような狭い部屋があり、そこにキッチンとトイレ、そして風呂らしきものもあった。キッチンの火を焚いた跡がある台の天井には、排気ダクトのような開口部があった。三階のどこかに繋がっているのか、あるいはもっと上だろうか? トイレだけは一応のれんが下がり、中が見えにくくなっていた。奥にもう一部屋あって、部屋の中に入ると暖房でも効いているかのように暖かかった。六畳ほどの広さの部屋には、ベッドの下以外の床に赤いじゅうたんが敷かれ、木のベッドと小さな木のテーブル、それに木の座椅子があった。座椅子には毛皮が敷かれていた。部屋の天井の真ん中辺りからは鎖がぶら下がっており、鎖の先に手を半分だけ握ったような形の小さな金物が付いていて、その金物に水晶玉のような球が取り付けられていた。その球は白い光を放ち部屋の中をほど良く照らしている。テーブルの下には直径三十センチ、高さが十センチくらいの円柱状の石があり、その上の中央のくぼみに赤い熱を発する玉が置いてあった。その球を興味深そうに見つめる勇たちを見てドワーフが口を開く。

「狭い所だが適当に座ってくれ。その球は火の魔力が宿っているのさ。風呂にも一個入れてある。水を入れればお湯になるぞ。ちなみにここの水は飲めるぞ。何でも自由に使ってくれ。わしは寝る」

 ドワーフはそう言ったかと思うと、ベッドの下から毛皮を数枚引っ張り出して勇たちの前に置き、それからベッドに横になり、数秒でいびきをかき始めた。

「はや!」

 一剛が驚いた様子で言うと、みんな笑った。風子が装備を外し始めながら言った。

「じゃあ私はトイレとお風呂を借りようかしらね」

「え~私も!」

 あかりも便乗した。一剛が感心したように言う。

「魔法の玉でお湯を沸かしたり暖房がわりにするとはごっつい玉やな。さすがに温度調節はできひんやろうけど。照明まで玉やもんな」

「タマタマ言うとらんとお風呂にお湯張ってきいや」

 あかりが言った。

「俺は入らへんわ。昨日入ったしな」

「これだからものぐさのオッサンは」

「あら、仲がいいわね」

 風子がニヤリと笑って言った。勇はじゅうたんの上に毛皮を敷いて横になっていたが、疲れが溜まっていたのかいつの間にか眠っていた。

「勇さん! 勇さん! ねえ起きて!」

 あかりの声で眠りから目覚めると、横には寝起き顔の一剛が座ったまま両腕を羽のように伸ばし、背中を反らして身体を伸ばしていた。一剛も今目が覚めたようだ。すでにドワーフも起きていて、風子も白銀の装備を装着していた。ドワーフはあぐらをかきながら両手を膝の上に乗せ、一回背筋を伸ばしてから勇たちを見渡し口を開いた。

「さて、自己紹介がまだだったの。わしの名はブロンズ。もう百年以上前からここで暮らしておる。すでに自分が何歳かも分からなくなっておる。五十歳くらいの時に、この迷宮にあった不老不死の霊薬を呑んでな」

「え? 不老不死の霊薬って本当にあったんですね」

「確かにあったが、不老不死といっても老化はするし死ぬ。まあそれでも老化は遅れ寿命は延びるがな。結論から言うと、わしが不老不死の霊薬を呑んだのは災いをもたらす者を見張るためだ。お前たちの仲間に憑りついている奴をな」

「ブロンズさん、氷の魔女のこと知ってるんですね?」

「ああ。正確には半分知ってて半分知らない。お前たちの言う氷の魔女はウイッチとかいう女のことだろ?」

「はい。そうです」

「氷の魔女はクリスタルと言う名のわしら仲間だった。人間であれほど魔法に長けた者は見たことがなかった。彼女は氷を操る魔法使いで、他に刀を使う戦士と回復や補助の魔法、それに薬学にも精通した仲間がいた。わしらは四人でこの迷宮の主だった災いをもたらす者と呼ばれた人間を倒し、クリスタルはその魂をある箱の 中に封印した。その時はそれが一番だと言うクリスタルをみんな信じて任せたのだ。しかしそれは封印というより災いをもたらす者の魂を守り、復活のチャンスを与えるものだった。災いをもたらす者は不老不死の霊薬の在りかを教える代わりに、もう一度生きるチャンスを与えてほしいと取引を持ちかけていたのだ。クリスタルは不老不死の霊薬を手に入れ、迷宮に残っていたわしにもわけてくれた。その時すべてを打ち明けてくれたよ。

 災いをもたらす者を封印した箱は開ければ、開けた瞬間に憑りつかれコントロールされてしまう。だから誰も開けないように決戦場に番人をつけて保管してあったのだが、どうやらそのウイッチという女が開けてしまったようだな。災いをもたらす者は封印されていても影響力がある。おそらく奴の術中にはまったのだろう。可哀そうにな」

「クリスタルさんは外の世界に帰っていったんですか?」

「いや、わしも後から知ったが不老不死の霊薬にはとんでもない副作用があってな」

「副作用?」

「飲めば老化が遅れ寿命がかなり延びるが、迷宮の外に出れば、その瞬間に死ぬ。外の世界に帰った瞬間に寿命が尽きてしまうのさ」

「そんな・・・・・・」

「外の世界に帰った二人の仲間もクリスタルが亡くなったことを確認している。クリスタルは死んでから自分の選択を後悔し決戦場に残った。災いをもたらす者を二度と復活させないために。そこにお前たちがやって来て、攻撃魔法の才能があるウイッチに力を貸した。しかし復活を狙う災いをもたらす者の力で操られ封印を解いてしまったのだ。ウイッチの中には支配しようとする災いをもたらす者と、守ろうとするクリスタルの二つの魂と意識が出入りしているのだ。

「・・・・・・ブロンズさんはなんでそれが分かるの?」

「たまにクリスタルの意識が入ってくる。彼女が教えてくれているのだ。再び災いをもたらす者を封印できるのはクリスタルしかいない。ウイッチを助けるためには、クリスタルの魂とともに奴と戦い封印するしかない」

「災いをもたらす者は今どこへ?」

「最下層の五階だ。奴の信者が新しい器(肉体)に奴を受け入れる準備をしている。奴が本来の力を取り戻すためにな。復活したらかなり厄介だ。その前になんとかしたい」

 勇たちはずっと聞き入っていた。ウイッチが操った強力な氷魔法は、クリスタルがウイッチや俺たちを守るためにウイッチの身体を借りて使ったものだったのだ。そして災いをもたらす者という本当の敵も分かった。勇はスッキリとした気持ちになっていた。勇はあかりの方を見て静かに口を開いた。

「五階へ行こう!」

 あかりは頷いた。

「よっしゃ。なんかややこしいけど目的はハッキリしたな。行こか」

 一剛が言った。風子がそれに続く。

「じゃあ私も最後まで付き合うよ! そのクリスタルさんのためにもね!」

 ブロンズが穏やかな笑みを見せながら、うんうんと頭を振った。

「よし! わしの伝えたいことは伝えた。後はお前たちのその貧弱な装備をなんとかせんとな。使えそうなのは風子の装備だけじゃないか」

 ブロンズは「よいしょ」と言って立ち上がり、あかりの方を向いて言った。

「お前、背が高いの。その鎖を真下に強く引っ張れ」

「え?」

 あかりは高い位置にある照明の玉がぶら下がる鎖を力強く下に引いた。突如、ゴ ゴ ゴ ゴ ゴという音が響き、 ベッドの下の床が五十センチほど下がった。下がった床の隣に大きな空洞が現れる。ブロンズはその中に降り、空洞の中から隠し持っていた武器や防具を出してきてじゅうたんの上に並べた。銅の防具全身一式が全員分あった。風子はすでに白銀の装備があるので、あとの三人は盾以外の銅の防具を装備した。武器はどれも魔力が宿っているようだ。それぞれに違う色のオーラを放っている。あかりは赤色のオーラを放つ炎の力が宿る槍を手にした。あかりが使っていたもののように先が分かれてはおらず真っすぐ伸びていて、穂の長さが六十センチもある。ブロンズの話では火竜槍(かりゅうそう)と呼ばれ、突いた時に火属性の追加ダメージを与えられるようだ。一剛はオレンジのオーラを放つ両手で使う巨大な斧だ。威力に特化しており、装備したものの筋力を増強する力があるようだ。勇は紫に赤と黒の混じった妖しいオーラを放つ刀を手にした。それを手にした勇にブロンズが言った。

「勇よ、その武器は妖刀と呼ばれていてな、刀に魂が宿っている。恐ろしいくらいの殺傷力を秘めているが呪われているのだ。過去にそれを手にした戦士が何人もその刀の呪いで死んだ。だがその刀をあっさり手にする事ができるお前は、その刀に選ばれたのかもしれん。まあとにかく気をつけることだ」

 勇は黙って頷き、心の中に高ぶってくる何かを押さえるため目を閉じた。その様子を横で見ていたあかりが声を掛ける。

「勇さん、刀使った事あるの?」

「ない・・・・・・」

「・・・・・・へえ~。初めて使う刀が呪われた刀なんだ」

「・・・・・・」

 ブロンズが「ガハハハッ」と笑ってから急に真顔に戻って言った。

「実践に勝る練習はないぞ。では行くか。三階の牢獄に戻って四階への階段を探していたら時間がかかるから、わしの部屋の隠し扉から四階の通路へ出よう。それにわしはもう三階の道は忘れてるしの」

 ブロンズはそう言って、キッチンの壁に耳を当てて外の様子をうかがってから、壁にある隠しスイッチを押した。周囲と区別のつかない壁の一部を手の平で強く押しているだけだが、壁がゴ ゴ ゴ ゴと音を立て、 引き戸のように人一人通れる分だけ開いた。通路に出るとブロンズは素早く壁の隠しスイッチを押して壁を塞いだ。

死闘!インペリアルドラゴン(地下四階)

 ブロンズの部屋の隠し扉から無事に四階の通路に出た勇たちは辺りを見渡す。左右に通路が長く伸びていて、その先は暗くて見えなかった。ブロンズが口を開く。

「ここ四階はワーウルフの巣だ。俊敏な動きに加えて鋭い牙と爪に気をつけねばならん。力もかなり強いでの。ワーウルフは武器は持ってないが、まともに殴りつけられれば防具の上からでも響くぞ。わしでも束になってこられると苦戦する。一応、五階への道は何となく覚えているが、ここの主はミノタウロスより数段強いぞ。覚悟しておけ」

 あかりは心配そうに聞いた。

「主ってどんな奴ですか?」

「火を吹くドラゴンだ」

「・・・・・・」

 五人はしばらく無言で歩き続けた。何度か分岐路を通り過ぎた。ブロンズの記憶は曖昧で、同じ場所に何度も 戻ってきた。ブロンズが先頭に立って迷いながらしばらく進んでいくうちに開けた場所に出た。天井は通路よりも一メートルほど高く、体育館二つ分くらいあるかなり広い縦長の大広間だ。入り口から突き当りの大きな扉に向かって赤いじゅうたんが敷かれていた。

 奥の方は、じゅうたんが敷いてある両脇に一定間隔で、長剣を構え鎧を装備した丈が二メートル以上ある石像が様々なポーズで配置されている。広間の両側の壁には、所々に貴族の贅沢な生活風景を描いた巨大な絵画が飾られていた。貴族の絵に混ざって、異世界の怪物や空想の世界を描いたようなものもあった。進んでいくと両側の壁にそれぞれ二つずつ扉があったが、ブロンズは構わず赤いじゅうたんの上を真っすぐ進んだ。ブロンズが口を開く。

「正面の金の扉の先に泉のある部屋があって、その先に五階への階段があるはずだ。だが、わしが以前来た時とは変わったな。ここにじゅうたんや絵はあったが石像はなかった」

 全部で八体居る最初の石像の前を通り過ぎた時、勇が立ち止まった。あかりが声を掛ける。

「どうしたの?勇さん」

「刀が震えだしてね」

 勇の手に持つ刀は小刻みに震え、刀が放つ紫色に黒と赤の混じった妖しいオーラは一層濃さを増している。

「え? 刀が? ほんとだ・・・・・・」

「刀が教えてくれるんだよ。この石像たちは生きてるって」

「え? まさか!」

 勇は刀を抜いた。一体の石像が剣を振り上げ勇に襲ってきた。それを合図に他の石像も一斉にドン! ドン! と重たそうな足音を立てながら動き出す。勇は石像の横を素早く走り抜けながら石像の脚を斬っていった。石像の脚は包丁でキュウリでも切っているかのようにスパっと切れていく。片足になった八体の石像は床に倒れ壊れた。妖刀のあまりの切れ味に勇は恐怖を覚えたが、すぐに探索の目的を思い出し心を落ち着かせた。

 突然バタン! と広間の両側の扉が開き、ワーウルフたちが入ってきた。重たい石像が走り回る音に反応したようだ。狼の頭に人間の身体。身体は人間のようではあったが、全身が毛むくじゃらで見た目は狼に近かった。巨大な二足歩行の狼といった姿の獣人が次から次へと広間に進入してくる。別の扉も開いて増え続け、その数は二十に達しようかとしている。ハアッ! ハア! という激しい息遣いが恐怖を湧きたてる。勇たちは武器を構え、ワーウルフの攻撃に備えた。身体のバネがありすぎるのか跳ねるように走って跳びかかってくる。

 ブロンズに出会う前の四人だったなら全滅の危機だったかもしれない。しかし今は違った。全身を銅の装備で固め、魔力の宿った武器を装備している勇たちは、ワーウルフの攻撃を過度に恐れることなく一体ずつ確実に倒していった。勇はワーウルフを斬りつけながら、今なら漆黒のミノタウロスもブロンズの手を借りなくても倒せると思った。勇たちの魔力を宿した武器が恐怖を植え付けたのか、大勢湧いたワーウルフたちは、一体、また一体と尻尾を巻いて逃げていった。最後の一体が逃げて行ったのを確認して、勇たちは再びじゅうたんの上を歩き始めた。広間突き当りの黄金に輝く巨大な金の扉には、火を吹くドラゴンと逃げ惑う人々の姿が彫られている。

 ブロンズは大きな両開き扉の片方の取っ手を片手で握り、力強く一気に開け放った。体育館の半分くらいの広さと、天井の高さは通路の倍はあった。部屋の中央にお洒落な洋風の庭園と、その中に蒼く透き通る美しい泉があり、その場所にだけ天井から光が差し込んでいた。庭園の上の天井の石は蒼く輝き魔力が宿っているようだ。庭園の土は運び込まれたというより、昔からそこにあったかのように違和感がない。その上に根付く緑の草木がそう感じさせるのかもしれない。比較的背丈の低い木々が簡単な迷路を描くように配置され、その一つ一つが丁寧に手入れされている。泉と庭園がある場所までは広間と同じ赤いじゅうたんが敷かれていた。勇たちはじゅうたんの上を歩いて真っすぐ庭園へと進む。

 泉のほとりには洋ナシのような形をした果実をつける木が生えていて、その下で、木の幹に寄りかかるように白いクロークを羽織った銀髪の美女が座っていた。綺麗な脚を伸ばし、先の方で交差するように片方の素足を、もう片方の足首の上に乗せていた。両手は太ももの上に乗せ、その手には木の果実が握られている。

 女は勇たちの方を見ている。勇は女の視線がブロンズに一番長く滞在していることに気づいた。女は勇たちのことなど意に介さないかのように手に持った果実に目を向けた。あかりがブロンズの方を向いて口を開く。

「あの人は?」

「はて? 誰かの? わしが昔来た時は、泉と果実のなる木はあったが、こんな綺麗な庭園はなかった。火を吹くドラゴンと戦った記憶しかないぞ」

 風子が後ろで呟くように言った。

「人でなければ創造神だね」

「創造神? 何ですかそれ?」

 あかりが初めて聞く言葉のように聞いた。

「ここでは念のこもった言葉が具現化するけど、自分の姿を自在に変えるほどの者も存在する。怪物たちの中でも最高ランクの、神話の世界に登場するような者たちさ。この凶暴な怪物たちが巣食う迷宮で、人間の女が、しかも下層で暮らしているとでも思ったかい?」

「え? てことは・・・・・・」

 勇と一剛にも緊張が走る。泉のほとりの美女は、風子の声が聞こえたのか、静かに立ち上がり勇たちに近づいてきた。勇たちは身構える。女は勇の持つ刀を見て笑みを浮かべ言った。

「ふふふ。呪われても知らないわよ。」

 勇の持つ妖刀は沈黙を守っている。まるで今はその時ではないとでも言うように、ただ静かに妖しいオーラを放っている。女は手に持った果実を勇たちの足元に放り投げた。果実は床にぶつかりコロコロと転がる。女は勇たちを見たまま、助走も無しに後方に大きく弧を描きながら、まるで背中から羽でも生えているかのように二十メートルは跳躍し、泉のほとりに着地した。

 女が着地したと同時くらいに、勇たちの目の前に転がった果実から芽が出て、芽はあれよあれよという間に枝分かれしながら急激に成長した。天井まで到達すると、今度は茎が太さを増し始める。無数に伸びた茎の先には、ナイフのような歯が並ぶ巨大な口のような花が咲いた。巨大な植物は目にも止まらぬ速さで、鞭のようなツルを勇の身体に絡みつけて一気に巨大な口へと運んだ。腕ごと絞めつけられた勇は身動きが取れず、息も止まりそうなほど苦しくなった。一剛がツルの根元辺りを巨大な両手斧で一刀両断する。勇はツルと一緒に床に落下し、なんとかツルをほどいて抜け出した。今度はあかりの真上から巨大な花の口が襲いかかる。一口で食べる勢いでバクン! と口を閉じた。あかりはその瞬間、槍を胸の前で横向きにした。巨大な口に内側から火龍槍が刺さり、更に穂先から発せられた炎がダメージを与える。あかりは素早く槍を抜き取り口の中から飛び出ると、暴れる巨大な口を力強く突いた。巨大な口は炎に包まれ横たわった。そうこうしている内に、勇は植物の襲いくる巨大な口の猛攻を巧みに避けながら斬り落としていく。装備が軽く、素早い動きの風子も負けておらず、隙を見ながらツルをドンドン斬り落としていく。ブロンズが最後の花を叩き割ると、植物は動かなくなり、しなびて力なく床に倒れていった。その様子を泉のほとりから見ていたであろう女がゆっくりと近づいてきて優しい表情で口を開いた。

「私たちの主の新しい器はすでに見つかっているわ。だからあなたたちの仲間は入魂の儀式が済めば解放される。魂の状態は弱いから彼女の肉体を一時的に借りていただけなの」

 ブロンズが一歩前に出て言った。

「だろうな。だがそれで解決ではない。奴はかつてこう言ったよ。最下層に住む神話に登場する怪物たちを地上に放ち、世に混沌をもたらすと。それを知っているからクリスタルは今も成仏できないし、わしも外の世界に出て魂を解放させることもできん。だがわしにとっても、クリスタルにとっても、そして外の世界から迷い込んだ勇者たちにとっても、最後の戦いはすぐそこだ」

「どうしても抗いたいみたいね・・・・・・。じゃあ、ここがあなたの墓場になるわよ」

 女がそう言うと、女の立っている空間が歪み始めた。女の姿は消え、代わりに漆黒の闇に染まるこぶし大の球体が出現した。漆黒の球体は、宇宙が誕生した時に起こったとされる爆発的膨張の如く、一気に部屋中に広がり、辺りは漆黒の闇に包まれた。

 次の瞬間パッ! と闇は晴れ、もとの明るさに戻った。そして先ほどまで女が立っていた場所には、赤いオーラを放つ巨大な白銀のドラゴンが現れた。鋼の槍のような爪が生えた四本の足で学校の教室くらいはある巨体をしっかりと支えている。頭には弧を描いた巨大な角が二本生え、角の先は鋭利に尖っていた。背中にはあまりに巨大で美しい銀の翼が生えている。ブロンズが叫んだ。

「気をつけろ! インペリアルドラゴンだ! ドラゴンの中でも、最も狡猾で強いドラゴンだぞ!」

 勇は覚悟を決めた。ウイッチを助けるために潜った地下迷宮で、まさか、神話上の怪物たちを従え、世の中を混沌に陥れる者と対峙することになるとは思ってもいなかった。

 自分たちの肩に世の中の命運がかかっているのかもしれない。風子が口を開く。

「人事を尽くしてなんとやらか。私もやれるだけのことはするよ! 野郎ども気合い入れな!」

「オ オ オ オ オ オ オ オーー!」

 一剛が赤い闘気を放ちながら雄叫びを上げた。全員の物理攻撃力が大きく上昇する。あかりと風子は魔法の詠唱を始めた。

「命を育む母なる大地、地の底まで続く大地の層よ、身を包む鎧となって、我らを守りたまえ」

「宇宙(そら)に輝く星の光よ、魔を絶つ守護の盾となって、我が前に姿を現せ」

 あかりと風子の詠唱が終わると、五人の立つ中心くらいにオレンジと紫色の眩い光の球体が出現した。こぶしほどの大きさの光は、一気に半径二メートルくらいの大きさまで膨れ上がって消えた。五人の物理防御力と魔法防御力が大幅に高まった。

 勇は無意識に刀を抜いていた。妖刀が放つ紫に黒と赤の混ざった妖しいオーラが身体を包み込む。勇は鞘を捨て、刀を下げた状態でドラゴン目がけて矢のように駆けていく。ドラゴンはわずかに巨体をねじらせ、背中に隠していた尻尾を振り回す。勇は跳び上がりながらかわし、ドラゴンの脳天目がけて斬りつけた。それと同時くらいにあかりが火龍槍を手にドラゴンの斜め前方から迫る。ドラゴンは身体を少し反らすようにして勇の攻撃をかわし、東から西へ頭を動かしながら口から紅蓮の炎を吹いた。

 勇は反射的に顔を両腕でガードしたが、あまりの高熱と勢いに「グア ア アーー!」と叫び声を上げた。あかりはとっさに伏せてかわす。一剛が両手斧でドラゴンの尾に斧を叩きつける。ドラゴンは難なくかわし前足で一剛を殴りつけた。一剛は、川に平らな石を水平に投げた時のように、石の床を何度も跳ねながら最後は受け身もとれないまま横向きで壁に叩きつけられた。それと入れ替わるようにブロンズがドラゴンに突進する。ドラゴンは背中の巨大な銀翼を力強く羽ばたかせ、突風のような強烈な追い風で迎え撃った。ブロンズの前進は止まり、その場にとどまることで精一杯の様子だ。近くにいたあかりは飛ばされ床に叩きつけられた。ドラゴンは急にピタッと銀翼を羽ばたかせるのをやめ、ブロンズに猛烈な勢いで紅蓮の炎を吹きつけた。ブロンズは鋼の盾と斧の刃で顔をガードしその場をなんとか凌ごうとしている。次の瞬間ドラゴンが、ドンッ! と強く床を踏み込んで間合いを詰め、鋼の槍のような鋭い爪の生えた前足でブロンズの腹部を殴りつけた。ブロンズは壁の方まで飛ばされ倒れたが、起き上がってはこなかった。風子が駆け寄る。

「まともにくらっちまったね]

 風子はブロンズをかばうように剣を構えた。ドラゴンは頭を下に向け、ド ド ド ド ド ド と激しく床を踏み鳴らしながら風子目がけて突進してくる。その後から勇とあかりが追いかける。ドラゴンは頭を四方八方に猛烈な勢いで振り回し、鋭利な角が風子を襲いかかる。風子は巧みな足さばきで猛攻をかわしながらブロンズに攻撃が向かないように必死に剣で防戦する。

 ドラゴンは急にぐるっと身体を回転させながら大型肉食恐竜のような太くて長い尾を振り回し風子の剣に命中させた。重さより速さに特化した鞭のような一撃で、風子の剣は手から離れ宙を舞う。白銀の剣は十数メートル離れた床に落ちた。ドラゴンは背後から迫っていた勇とあかりに紅蓮の炎を吹きつけた。一剛はその様子を見て、斧を杖がわりにゆっくりと立ち上がる。一剛の目線の先にはあかりがいた。風子は剣を取りに走った。あかりは抜群の機動力で炎をかいくぐりドラゴンとの距離を詰める。勇はドラゴンの横をすり抜けドラゴンの背後の壁に向かって斜め前方から走り込む。ドラゴンはそれを追いかけるように顔を動かす。勇は壁をまるで忍者のように斜めに駆け上がり、勢いがなくなる寸前に両足を屈伸させ壁から跳んでドラゴンの目に刀を突き立てようとした。しかし、ドラゴンが反射的に顔を引いたことで顔まであと一メートルは足りない。その時、風子は勇目がけて白銀の剣を振った。疾風の速さで衝撃波が勇の背中に伝わる。衝撃波で押された勇の身体は完全に間合いに入った。勇は渾身の力でドラゴンの目に妖刀を突き立てる。目に突き刺さった妖刀から発せられた禍々しい呪いのオーラが打ち上げ花火のように散り、ドラゴンの脳を破壊する。

「グ オ オ オ オ オ オ オ オ ーーン!」

部屋中に断末魔の叫びを響かせインペリアルドラゴンの巨体は崩れ落ちた。いつの間にか意識を取り戻したブロンズが、床に仰向けで倒れたままその様子を見てニヤッとする。ブロンズは身体を起こし、少しフラフラしながらあぐらをかいて言った。

「よくやった。正直クリスタル抜きで倒せるとは思っていなかった。これで最下層へ向かえるな。泉のほとりに果実のなっている木があるだろう。さっきは奴の力で怪物に姿を変えたが、あの果実には治癒の効果がある。食べてから下へ降りよう」

 勇たちは泉のほとりに座り、薄いレモン色の皮をまとった洋ナシのような形の果実にかぶりついた。勇は二口目で顔がヒリヒリと痛む火傷が薄れていくのを感じた。勇たちは泉のほとりで休憩したあと部屋の奥へと進んだ。部屋の右奥には、下に向かってどこまでも続く階段があった。ドラゴンが二匹並んで通れるくらいの幅がある。薄暗く先の見えない階段は、真っすぐと最下層へと伸びている。百メートルは降りただろうか。階段の先は暗闇に包まれ、進めば進むほど視界が悪くなっていく。

邪悪な炎(地下五階)

 なんとか階段を降り、勇たちはついに最下層に到達した。かろうじて数メートル先までは足下や壁が確認できるものの、あまりの暗さに天井は見えなかった。しばらく歩いて目が慣れてくると、五階の通路はそれまでの階層より幅が数倍はあり、天井も異常なほど高いことに気づいた。

 何度か道は分岐して、勇たちはほとんど直感だけを頼りに歩き続ける。ブロンズは大昔に一度だけ通ったが、すでに忘れていた。途中で中から強い光が漏れる大きな扉の前を何度か通り過ぎた。ブロンズは入らない方がいいとだけ言い、勇たちはその助言に従った。

 ブロンズは歩きながら口を開く。

「寄り道はせんぞ。この階層のどこかにある災いをもたらす者が居る部屋だけを目指す。この階層は部屋に入らない限り敵に遭遇することは稀だ。しかし一体一体が尋常な強さではないから出会えば死闘は免れない。インペリアルドラゴンのようにな」

 勇は遭遇しないことを心の底から祈った。かなりの時間歩き続けている。脚に疲れが出始めた頃、あかりが前を向いたまま急に立ち止まった。

「ねえ、あれ何?」

 勇たちも立ち止まり、正面の通路先をジッと見つめる。勇の胸くらいの高さで、小さな光が揺らいでいるように見えた。しばらく様子を見ていると、それは草色のフード付きローブを羽織った三十代くらいの男だった。その手には火の灯ったランタンを持っていて、こちらに近づいてくる。男は勇たちに気づくと足を止め口を開いた。

「ほう、こんな場所まで人間が降りてくるとは珍しい。外の世界から来た冒険者かな? あの女は何をしているのやら」

 ブロンズが男をギロッと睨みながら口を開く。

「氷の魔女を見たか?」

「氷の魔女? 奇遇だな。私も探していた所さ。どれだけ腕が立つのか知らないが、この階層で魔法使いがたった一人で生き残れるとは到底思えないがな。お前たちは氷の魔女に何の用だ?」

「私の仲間よ!」

 あかりが少し怒ったように答える。男はあかりを足先から頭の天辺まで舐めるように見た後、火の灯ったランタンを静かに床に置いた。ランタンが床に当たるカタッという音がした瞬間、男の姿は消え、火の灯ったランタンだけが残った。

 次の瞬間、ガンッ! という音がして、音の聞こえた方向を目で追うと、壁際に男とあかりの姿があった。男は右手であかりの身体を抱き抱え、左手であかりの頭を抱えるように持って、力ずくで頭を横に傾けている。あかりの装備していた銅の兜は床に落ちていた。あまりの動きの速さに唖然とする勇たちを尻目に、むき出しになったあかりの首に噛みつこうとした。

 バンッ! と狙いを定めた風子の衝撃波が男の顔に命中する。白銀の剣の衝撃波をまともに顔面に受けた男は、片手で顔を押さえながら大きく横に飛び退いた。口からは長く鋭い犬歯が二本伸びている。風子が剣を構えて言った。

「まさかヴァンパイアまで居るとはね。白銀の剣を持っていたのはラッキーだったよ」

 風子はじわりじわりとヴァンパイアとの間合いを詰める。ヴァンパイアが右手を上げると、右手は紫と赤の妖しい光を放ち始める。光は収縮し片手斧へと形を変えた。あかりがさっきのお返しとでもいうように火龍槍で上下左右と連続して、ヴァンパイアの胴体を狙った怒涛の突きを見せる。ヴァンパイアはあかりの突きをいなすようにしなやかにかわした。ヴァンパイアは大きく後ろに跳んで勇たちとの距離を取った。

「付き合ってられないよ」

 ヴァンパイアはそう言い残すと、勇たちに背中を向けて通路の奥へ去っていった。一剛がその遠くなる背中を見ながら言った。

「なんで逃げたんやろな」

 ブロンズが答える。

「風子の白銀の装備だろうな。ヴァンパイアどもは昔から銀を嫌う。特に純度の高い銀は触れるだけで身体が焼けるとか。確かめられなかったのは残念だの」

「じゃあ風子さんはヴァンパイアキラーだね」

 嬉しそうな顔をして言うあかりに風子が返した。

「なんだい呑気に。あんたはもうちょっとでヴァンパイアになるところだったんだよ」

「そしたら、ごうも噛んでヴァンパイアにするわ」

「おいおい、堪忍したれや」

 一剛は苦笑いしながら返した。勇たちはウイッチを探しながら探索を再開した。

 しばらく歩いているうちに一剛が叫んだ。

「何ぞいるぞ!」

 みんなの視線が通路の先に向けられた。赤色の巨体に鋼の槍のような鋭い爪の生えた四本の足。頭には巨大な角が圧倒的な存在感を出しているドラゴンだ。近くまで来てブロンズが不思議そうな表情でドラゴンを見上げる。

「おかしいな。固まっているぞ。凍っておるわい」

 凍ったドラゴンが立っているすぐそばに、フード付きの黒いクロークを羽織い、手に青色のロッドを持った女が一人、背中を壁にもたれかけて座っている。ロッドの一番上は、手を上に向けて半分ほど握ったような形になっており、四本の爪がアクアマリンに似た宝石の玉を固定していた。

「ウイッチ!!」

 あかりが叫ぶ。女は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がり、あかりに駆け寄った。二人は抱き合って無事を喜んだ。

「あかりちゃん・・・・・・」

「ウイッチ、無事でよかった。これウイッチがやったの?」

 あかりはそう言って氷漬けのドラゴンを指差した。

「半分私かな。昔、氷の魔女って呼ばれていた人が私に力を貸しているの」

「クリスタルさんね」

「知ってるの?」

「まあね。ウイッチも大変だったと思うけど、私たちもここに来るまで色々あったのよ」

 勇が二人に近寄る。

「ウイッチさん。よかった元気そうで」

「勇さん、来てくれたんですね。あの、他の人は?」

「ああ、あかりさんの旦那さんの一剛さんと、あちらは以前からこの迷宮を探索していた風子さん。それに、かつてクリスタルさんと一緒に災いをもたらす者を倒したブロンズさん。」

 ウイッチを迎えてパーティは六人となり、勇とあかりはウイッチに、風子やブロンズとの出会いやここまでの出来事を聞かせた。ウイッチも災いをもたらす者に操られ最下層まで来たこと。災いをもたらす者が狂信者たちの用意した魂の器と入魂の儀式で復活を果たしたことを語った。そして自分は用済みになり殺されかけたが、氷の魔女クリスタルの力でなんとかここまで逃げてきたことも語った。

 ブロンズがウイッチに言った。

「さてどうする? ウイッチ、そしてお前たち。ここから先は、わしとクリスタルの問題だ。強制はできん。外の世界に帰るか? あるいはわしとともに災いをもたらす者と戦うか」

 ウイッチが答える。

「クリスタルさんはずっと戦ってきたの。それこそ魂が凍り付くくらいの年月、ずっと孤独に戦ってきたの。それに私が居ないと氷の魔法を使えない。災いをもたらす者の居る場所も知ってる。だから私も最後まで付き合うわ」

 あかりが口を開く。

「私はあれよ。そもそも私が決戦場の本を見つけなければ、あいつが復活することもなかったしね。責任がある」

 ブロンズが返す。

「いや、どの道奴は復活したさ。封印された状態でも影響力はあったしな」

 風子が口を開く。

「私はここまで来たらとことん付き合うよ。災いをもたらす者の顔も拝みたいしね」

 勇が最後に口を開いた。

「俺はウイッチさんを助けるためにここまで来た。そのウイッチさんがまだ帰れないというなら俺も付き合うまでだよ」

 六人はウイッチを先頭に歩き出した。勇は半島を自転車で一周する予定だった旅で、初めてウイッチに出会った時のことや、しらほね小学校の図書室から行った決戦場のこと。そして今回の地下迷宮で体験した様々な苦難を思い出していた。

 しばしの沈黙を破り、一剛が少し難しい表情をして言った。

「災いをもたらす者を倒せたとして、封印できるのか?」

 ウイッチが答える。

「クリスタルさんは、もう封印するつもりはないみたいです。次は完全に終わりにするって」

「さよか・・・・・・」

 どれほど歩いただろうか。数え切れないほどの分岐路を過ぎて、ひたすら薄暗い通路を進んだ。四層までとは別物で、規格外に複雑に入り組む広大な迷路は、ウイッチの道案内がなければ辿り着けないどころか、永遠に迷宮内を彷徨うことになっていたかもしれない。勇はウイッチの記憶力に心底驚かされた。そしておそらく、決戦場で強力な氷の魔法を使った時のように、クリスタルが力を貸しているおかげなのだろうと思った。

 それまでより更に広い通路に入ったところでウイッチが立ち止まる。通路は先に向かって真っすぐ緩やかな登り勾配になっていて、両側の壁には古代の歴史を紐解く遺跡や洞窟の壁画のように人の姿が描かれている。人と一緒に描かれていたのは動物ではなく、勇たちが命がけで倒してきたドラゴンや巨人、そして神話に登場するような怪物たちだった。勇たちは壁画を眺めながらゆっくり進み続け、ようやく、突き当りに大きな観音開きの銅の扉が見えてきた。扉には杖を高く掲げた魔法使いと、その前に数匹のドラゴンと多くの人間たちがひれ伏す絵が彫られている。

 ブロンズが迷う様子もなく扉の取っ手を持って、力強く開け放った。六人が部屋の中に入ると、体育館くらいの広さと高さのある、奥に向かって長く伸びる広間だった。薄暗い広間は入り口から広間の奥に向かって赤いじゅうたんが敷かれている。広間の一番奥の方は少し高くなっていて、その高くなっている舞台の四隅には銀で作られた像があった。前の二つはミノタウロスとドラゴン。三階と四階で死闘を繰り広げた相手だ。後ろのの二体は長い首を二本持つドラゴンと、クロークらしきものを羽織った若そうな人間の男の姿をした像が見えた。近づいていくうちに、口から二本の鋭い犬歯が見え、それがヴァンパイアだと分かった。舞台中央の一番奥には黄金の玉座が見える。玉座の背もたれから台座まで黒い毛皮が掛けてあった。ブロンズの隠し部屋で見たものと同じだ。今だから分かるがワーウルフの毛皮に違いない。玉座にも、その周りにも人影は見えない。突然、風子が広間の中央辺りの天井を指差して叫んだ。

「何か居るよ!」

 風子の指差した先を見上げると、一匹の大きなコウモリがぶら下がっている。コウモリは勇たちの姿を確認したかのように、大きな翼を羽ばたかせ、旋回しながら玉座の前に降り立った。コウモリは次第に姿を変え始める。背中の羽は形を変え、人の腕になり、脚も人の脚に変化した。身体は紫色の光に包まれ、頬からあごにかけて長い髭をたくわえた小さな老人が姿を現した。痩せこけた百五十センチほどの身体にはフードの付いた漆黒のクロークを羽織っている。肩くらいまである白髪は、前髪も横もすべて後ろでまとめて結んでいた。右腕には幅の広いシルバーバングルが装着されている。右手には赤い宝石が埋め込まれた木の杖を握っていた。勇たちはゆっくりと老人に近づいた。あの時の老人だ! 三階へ降りる前の部屋に居たあの老人だ。なぜここに? 驚いた表情を見せる勇たちに対し、老人は静かに口を開く。

「ふふふ。初めて会ったという顔ではないな。この身体は私の信者たちが用意した。高齢だが賢さは中々のものだ」

 老人はそう言い、ブロンズの方をギロッと見た。ブロンズが老人を睨みつける。老人は話を続けた。

「信者どもは肝心なことを見落としていた。この身体は不老不死の霊薬を飲んでいる。不老不死の霊薬を飲めば、寿命と引き換えに二度と外の世界に戻れない身体になることを知らなかったのだ。愚かだろ? まとめて焼き尽くしてやったよ。愚かな信者のせいで自分が創り出した迷宮の外に出られなくなった。外の世界に怪物どもを放っても、愚かな人間どもの苦しむ姿を見れないのは残念だ」

 ブロンズが一歩前に出て斧を構えて言った。

「災いをもたらす者よ、ここで終わりにしてやるわい。貴様も、そしてわしとクリスタルの苦悩もな!」

 勇たちはそれに呼応するように武器を手に身構える。老人がギョロっと勇たちを睨んで言葉を返した。

「愚かな冒険者たちよ。私の前に立ったことを灰になって後悔するがいい」

 老人の身体は燃えさかるような赤いオーラに包まれた。この小さな老人がドラゴンや巨人をひれ伏させるほどの力を持っているというのだろうか? 勇はブロンズの方を見た。ブロンズがそれに気づき、老人から視線を離さぬまま口を開く。

「いいか! 見た目に騙されるな! 奴が操る炎術はインペリアルドラゴンを超えるぞ! 奴は詠唱無しで魔法を使える」

 そしてウイッチの方にチラッと目をやり、こう続けた。

「ウイッチ! わしらの勝機はお前しか作れない。頼んだぞ!」

 ウイッチは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに戦う者の目になった。風子とあかりが魔法の詠唱を始める。

「宇宙(そら)に輝く星の光よ、魔を絶つ守護の盾となって、我が前に姿を現せ」

「命を育む母なる大地。我が子を守る衣となって、その身を光で包み込め!」

 勇たちの立つ真ん中辺りに現れた紫とオレンジの光の球体は一気に膨れ上がり、勇たちの身体は光の膜に包まれた。全員の魔法防御力と物理攻撃力が大きく上昇した。

 これが正真正銘、最後の戦いだ。そう思うと勇の妖刀を握る手にも力が入った。それに応えるように妖刀は、紫に赤と黒の混じった妖しいオーラを一段と強く発した。勇は鞘を床に置いた。

 一剛は斧を両手で高く掲げて雄叫びを上げた。一剛の身体は燃えるような闘気を放った。

「ウ オ オ オ オ オ オ オ ーー!」

 全員の物理攻撃力が大きく上昇する。風子が老人の後ろに回り込もうと走り出す。走り出した瞬間、老人の目が赤く光った。灼熱の衝撃波が風子を襲う。風子は防ぐ間もなく床に叩きつけられ転がった。勇と一剛が風子と反対側に走り出す。老人が胸の前で腕を交差させて中腰に構えた。老人の燃えさかるような赤いオーラが四方八方に波打ちながら膨れ上がり一気に凝縮する。老人が両腕を一気に開放するよう振り上げた。ブロンズが叫ぶ。

「衝撃波が来るぞ! 防御態勢を取れ!」

 そう言い終わったのと同時に六人に灼熱の衝撃波が走った。風子以外は体勢を低くし腕で顔をガードした。全員が後方へ飛ばされ石の床に倒れた。風子は防御態勢も取れないまま衝撃波を受け動く様子はない。一番後方に居たウイッチが魔法の詠唱を始めた。老人は杖を高く掲げ、杖の上に直径五メートルはある燃えさかる巨大な火球を創り出した。

「陽の光を浴びない凍てつく大地。吹き荒れる氷の結晶よ! 氷の刃となって敵を切り刻め!」

 ウイッチのからだは雪のように真っ白な闘気に包まれた。ウイッチが天高く両手を振り上げると、部屋の半分から上は、雪をともなった暴風が吹き荒れ始めた。両手の動きに合わせて、猛烈な吹雪が駆け巡る。ウイッチは杖を頭上で大きくグルっと回し、そのまま勢いをつけて老人に放った。

 老人は風子への攻撃をウイッチへと切り替えた。巨大な火球は炎の竜巻に姿を変えてウイッチに襲いかかる。炎の竜巻と氷の嵐は空中で衝突し、押し合いながら次第にお互いをかき消してしまった。老人は倒れて動かない風子に杖を向けた。勇が老人との距離を一気に詰め、一剛もその後に続く。老人は気づいて後ろを振り向き目を赤く光らせる。勇は衝撃波で飛ばされ一剛に衝突する。一剛は勇を受け止めながらなんとか持ちこたえた。

「勇さん! いけるか?」

 老人が風子の方を向きなおすと、風子は立ち上がり剣を振りかぶり狙いを定めていた。風子が剣を振り、剣から放たれた衝撃波が老人を襲う。しかしバンッ! という音とともに老人の身体を覆う薄いオレンジ色の球体に弾かれた。

 勇は老人が放つ衝撃波を至近距離で受け、ガクッと方膝をついた。おそらく風子が狙っていたのは老人の目。目にダメージを与えれば衝撃波は打てなくなっていたはず。だが奴を守る何かに弾かれた。奴が詠唱無しで魔法を使えたとしても、イメージを具現化した時に目に見えるはず。天井にぶら下がっていたコウモリの状態で防御魔法を使っていたのか? 勇は何か違和感を覚えながら、ゆっくりと立ち上がった。一剛がすぐ後ろから勇に声を掛ける。

「どや? いけるか?」

「なんとか・・・・・・。弾かれてましたね、風子さんの衝撃波」

「せやな、あれじゃ下手に突っ込めへん」

 あかりが老人に向かって歩き出した。反対側から風子も老人との距離を詰めていく。それを見て勇と一剛も距離を詰め始めた。ブロンズは鋼の盾で顔を守りながら老人に向かって突進していく。ウイッチは勇たちの後方で魔法の詠唱を始めた。

「凍てつく大地に散った勇猛なる戦士の魂よ、永久凍土の器に宿り、その力を示せ。アイスゴーレム!」

 ウイッチの身体は雪のように真っ白な闘気に包まれた。老人が再び胸の前で腕を交差させて中腰に構えた。老人の燃えさかるような赤いオーラが四方八方に波打ちながら膨れ上がり、ブロンズが到達する前に一気に凝縮した。交差させた両腕を勢いよく振り上げる。周囲に灼熱の衝撃波が走った。至近距離に居たブロンズは直撃を盾で受けたが、紙のように宙を舞ってから床に落下した。残りの者たちも防御態勢を取りつつも、そのあまりの衝撃に後方へ飛ばされ床に転がる。

 ウイッチは微動だにせず真っすぐ前を見つめていた。ウイッチを衝撃波から守ったのは、永久凍土の身体に流氷のような青い氷の鎧をまとった巨人だった。氷の巨人はウイッチに操られ、手を伸ばせば天井に届くのではないかという巨体を揺らしながら老人に向かって歩き出す。氷の巨人の手には自分の身体の半分くらいはある岩石のような氷の塊が握られていた。老人はそれを迎え撃つように杖を高く掲げ、杖の上に燃えさかる巨大な火球を二つ創り出した。

 氷の巨人は地響きを立てながら老人に向かって走り出す。勇たちは床に倒れたまま、突然の氷の巨人の出現に呆気にとられていた。老人は迫りくる氷の巨人に対し、杖を高く掲げたまま微動だにせず睨みつけている。氷の巨人は突然、急ブレーキをかけるように動きを止めたかと思うと、老人の立つ天井に向けて巨大な氷の塊を勢いよく頬り投げた。勇はその瞬間、ウイッチがあえて老人に衝撃波を打たせてみんなを老人から遠ざけさせたことに気づいた。一番近くに居たのが鋼の盾で身を守った、身体も一番丈夫なブロンズだったことも計算していたに違いない。勇はそう思った。

 氷の巨人が勢いよく頬り投げた巨大な氷の塊は、天井に衝突し砕け散り、天井の石は表面が広範囲で破壊された。氷と石の破片は鋭利な矢となって老人に降り注いだ。老人の杖の上に浮かぶ燃えさかる巨大な火球の一つが、燃え盛る炎の竜巻へと姿を変える。竜巻は瞬時に膨張するように成長しながら、振り注ぐ氷と石の矢を迎え撃つ。そのほとんどは激しい炎の渦にかき消され、炎をくぐり抜けた石は老人を守る魔法の壁に弾かれた。しかし炎で焼けた尖った石が一つ、壁を突き抜け、杖を掲げる老人の右腕を直撃した。老人の右腕に装着されていた幅の広いシルバーバングルが割れて床に落ちる。「クゥ!」という声を漏らし苦悶の表情を見せながら、杖を左手に持ち替えた。右腕を痛めたようだ。

 氷の巨人が老人に向かって突進し、片腕を振り上げ身体ごと覆いかぶさるように鉄槌を落とす。老人は杖を振り、残った巨大な火球を氷の巨人に放った。氷の巨人の身体は水分を失った砂場の城のように、あまりに簡単に崩れ去っていった。

 ウイッチが叫ぶ。

「あいつがシルバーバングルが失ったわ! これであいつを守るものはない!」

 老人は物理防御の魔法が使えず、代わりにあのアイテムで身を守っていたようだった。ウイッチ、いや、クリスタルがそのことを知っていたのだろうと勇は思った。ウイッチの叫びに呼応するように全員が立ち上がり武器を構えた。

 勇は氷の巨人が破壊した天井に、今にも落ちそうになっている岩石を見つけた。二メートル四方はある岩石は、人の腕くらいの厚みがあり斜めにぶら下がり、かろうじて角が一か所引っかかっている。その下には老人の姿があった。勇が風子の方をジッと見つめた。風子は老人の方を見ている。勇は一か八か叫んだ。

「風子さん!」

 風子が驚いて勇の方に振り向いた。勇は指は指さず目の動きで合図を送る。風子はすぐに気づき、天井に向け狙いを定めて剣を振った。風子が剣を振ったのと老人が気づいたのは同時くらいで、老人は走り出す。ウイッチが魔法の詠唱を始めた。

 風子の剣が創り出した衝撃波が、今にも落ちそうになっていた岩石に命中する。音を立てて崩れ落ちた岩石を老人は間一髪のタイミングで避けた。老人は更に勇たちから距離を取り、態勢を整えようとしている。

「陽の光を浴びない凍てつく大地。吹き荒れる氷の結晶よ! 氷の刃となって敵を切り刻め!」

 ウイッチの身体は雪のように真っ白な闘気に包まれた。ウイッチが天高く両手を振り上げると、部屋の半分から上は、雪をともなった暴風が吹き荒れ始めた。勇はウイッチの身体に重なるように見える黒いローブを羽織った女の姿を感じとった。細身の長身で頭には黒い三角帽子をかぶっている。ブロンズが叫んだ。

「クリスタル!」

 クリスタルは一瞬、ブロンズの方へ目を向けたように見えた。老人が左手で杖を高く掲げ、杖の上に巨大な火球を一つ創り出した。今度は一つだったが先ほどの火球より明らかに大きい。火球からは炎がほとばしっている。ウイッチは杖を頭上高く掲げると、そのまま真っすぐ老人に向けて放った。老人も高く掲げた杖を真っすぐ振り下ろした。

 巨大な火球は燃え盛る灼熱の竜巻へと形を変え、吹雪をともなう暴風と衝突した。炎と氷の力は拮抗して、お互いを削るように少しずつ小さくなっていき消えさった。

 ブロンズが老人目がけて走り出す。一剛と勇も後に続いた。老人は近づくブロンズに目を見開き赤く光らせた。ブロンズは盾で顔を守ったが、衝撃波で後方に飛ばされ床に叩きつけられた。続けて一剛が突進し両手斧を振り回した。老人の目がまた赤く光った瞬間、別の角度から風子が剣を振り衝撃波を放った。衝撃波は老人の顔を捉え、一瞬動きを止める。一剛の斧は老人の膝を砕き老人はたまらず倒れ込む。勇がうつ伏せに倒れた老人の背中に妖刀を突き立てた。

 ブロンズが足を引きずりながら近づいてきて言った。

「ついにやったか?」

 勇は背中から刀を抜き取ってから老人の亡骸を見つめた。ウイッチが雪のような白いオーラをまとい、ブロンズの横に歩み寄る。その姿からは、ウイッチの身体に重なるように立つクリスタルが感じとれる。ウイッチが口を開いた。

「まだよブロンズ」

 ウイッチはそう言ってうつ伏せに倒れる老人の前に立ち、振り返ってあかりの方を見た」

「あかりちゃん。蘇生の魔法を」

「え? どうして」

「二階に居た魔法使いのお爺さんの魂を戻すわ。すぐそこに来てるから」

「わ、分かった」

 あかりは床にそっと槍を置いた。そして胸の前で両手を組んで天井の方をジッと見つめた。勇はあかりの目に映っているもの、いや、一体になろうとしている世界が、この世のものではないことが理解できた。あかりは今、広大な宇宙と一つになろうとしているのだ。

 あかりの詠唱が始まる。

「魂の器が傷ついた旅人よ、器を癒そう! さまよえる旅人の魂よ、再び器に宿れ!」

 薄暗い部屋の中は老人が居る場所だけ、まるで雲間から陽の光が差したかのように明るくなった。癒しの光が老人を包み込む。老人の身体の傷は嘘のように癒え、魂と生きる力が戻った。老人がゆっくりと起き上がり、あかりを見つめて口を開いた。

「すまん。助かった・・・・・・」

 あかりが優しく微笑んだ。ほっとしたのも束の間、勇の妖刀から勇の手に軽い電気のようなものが走った。

「いてっ!」

 あかりが何か話しかけたような気がしたが聞きとれず、勇は広大な宇宙に一人ポツンとたたずんでいるような感覚に陥った。みんなの姿は見えるが声は聞こえない。これは一体? 勇の手にもう一度電気のようなものが走る。

 勇の感覚は生まれた頃、いや、もっと前のこの世には居なかった頃の感覚が宿った。勇がみんなの方に目をやると、たった今蘇ったばかりの老人のすぐ横に、漆黒の球体が宙を舞っている。漆黒の球体からは無数の細い手のようなものが老人に向かって伸びている。勇は強い視線を感じた。視線の先にはクリスタルが立っていた。クリスタルの声が頭の中に入ってくる。

「その妖刀は魂を絶つことのできる唯一の武器なの。私たちの最後の手段よ。あなたが斬らないなら私があいつを封印するわ。でもそれではいつかまた復活して災いをもたらす。あなたが選択して」

 勇に迷いはなかった。疾風のごとく駆け抜けて、災いをもたらす者の漆黒の魂を一刀両断した。漆黒の魂は風に舞う砂のように散り、消えていった。

 ウイッチがやりきったという表情をして口を開く。

「やっと終わったね。みんなこれからどうするの?」

「帰るに決まってるじゃない」

 あかりが少し呆れ気味で答える。不老不死の霊薬を飲んで外の世界に出れない二人が居ることを思い出したのか、少しだけ気まずい表情を見せた。風子が口を開く。

「私ももういいかな。外の世界に戻ってゆっくりしたいよ。ああ、そういえば、災いをもたらす者が居なくなったから迷宮に住む怪物や人間はみんな外の世界に出れるようになったのかね? それだとまずいね」

 ブロンズが答えた。

「知らない者が多いと思うが、迷宮の住人を外の世界に出れなくしているのはクリスタルの意志と魔力が生み出した結界の力によるものだ。邪悪な心を持つものは決して通れぬ結界はこの先もずっと消えることはないだろう。災いをもたらす者には、その気になれば結界を破るほどの力があったから脅威だった。その心配も無くなったがな」

 一剛は、疲労がたまった表情で、「はあ~」っと言いながら床に座り込み口を開く。

「ほんま色々しんどかったな。ミノタウロスやドラゴンと戦ったなんて誰も信じひんやろな」

 勇が頷き口を開く。

「災いをもたらす者が居なくなっても、また別の野望をもった誰かが現れるんですかね?」

 ブロンズがニヤッとして言った。

「心配だろ? だからたまには遊びに来い。わしと爺さんは、まだしばらくは生きてるし、クリスタルも帰るべき場所に旅立つからな。武器はわしの部屋に大事にしまっといてやるぞ。それともし来るときは例のパン持って来いよ。あれうまかったでの」

「もう来ませんて・・・・・・」

 勇が苦笑いし、顔を引きつらせて答えたのを見て、ブロンズもみんなも爆笑した。

 ブロンズと老人に別れを告げ、勇たちはそれぞれ外の世界に帰っていき、普段の生活に戻った。

 外の世界では今まさに、広大な宇宙に散らばる星々の影響受け、人々の価値観が変わろうとしている。人間はこの無限に広がる宇宙の中では、それはもう、とても小さな小さな存在だ。しかし、その一つ一つの意志が小さな光を生みだして集まり、やがて人々を照らす大きな光となる。暗闇に輝く満天の星を眺めるように、上を向いて歩いていこう。どんな暗闇の中でも。

 今回の作品は、前作(不死者の決戦場)の文字数を大きく超える大変長い物語となりました。この先も、腰痛夫は生きている限り様々な作品を作っていきたいと思っています。物語を通して、この混沌とした世の中を生き抜く勇気が、ほんの少しでも読者の皆様に与えられたなら嬉しいです。この長い物語を最後まで読んで頂いた読者様には感謝の気持ちでいっぱいです。最後までのお付き合い、本当にありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?