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ショートショート【不思議な傘】

腰痛夫 作

昔、昭和と呼ばれていた時代。

歩くことが大好きな男がいた。

彼の名前はシンといった。


電車に乗るし、バスにだって乗る。

ただ、誰よりもたくさん歩いた。

旅に出ると、まるでロールプレイングゲームの主人公のように、あちらこちらをしっかりと見てまわった。

五感を研ぎ澄ませ、じっくりと歩いて、その土地の雰囲気を堪能するのだ。


シンは感性が人一倍豊かで、絵でも鑑賞するかのように季節の景色を楽しんだ。

優れた感受性ゆえに人混みの中を歩くと、時には憎悪にも似たどす黒いものが心に入り込んでくることもあった。

そんな時は下を向いて歩くこともあったし早足にもなった。


多くの人は天気を気にする。

旅をするにも雨風は避けたいと思うものだ。

気温だって気になる。

しかしシンは他人が避ける悪天候を楽しんだ。

凍った路面も、高く積もった雪さえも楽しんだ。


シンは傘が好きだった。

雨が降りそうな時は丈夫な傘を持っていった。

強い雨風ならレインコートの方が身体を濡らさなくて済む。

それでも傘を好んで使った。


丈夫な傘は色々試していた。

骨の多い傘。

ひっくり返っても壊れない傘。

風が通り抜ける傘。

天気を選ばず歩きまわったり、杖代わりにも使うせいで、結局どんな傘でも長持ちしなかった。

何度も何度も傘を買い替えてきた。


ある時、旅の途中で強い雨風にあい、傘が壊れてしまい困っていると、偶然にも傘屋を見つけた。

踏み切りを渡り、角にある駄菓子屋を曲がると、その店はあった。

かつて戦争を経験したであろう世代のお爺さんが、店の奥からゆっくりと出てきた。

吊りあがった眉に垂れ目。十センチはあろうかという白く長いあごひげをたくわえている。

眉間にしわを寄せ、少し眠たそうにも見える茶色の瞳をシンに向けている。

聞けばもうすぐ店をたたむらしい。

最近は客足も遠のいて、売り上げはほとんどないようだ。

シンはちょっと大げさに、台風のような暴風でも壊れない傘が欲しいと言った。

お爺さんは「あはは」と声を上げて笑ってからこう言った。

「傘が壊れなかったら人が飛んでいくよ。台風の時は傘なんてさしたらあかん。ほら、雨風の強い日に壊れた傘が落ちとるやろ。あれはよくない。カッパ着るんやで」

シンはうんうんと頷いてから店内を見て歩いた。一番安いものは三百円からあった。

黄色の多骨傘を選んでお爺さんに渡した。すぐに使いたいと言うとお爺さんは値札を外して、壊れた傘を引き取ってくれた。お爺さんはシンにこう言った。

「その傘だけは中古でね、定価は二千円だけど五百円でいい。たった一回使っただけだから新品同様さ。最後のお客さんになる人がその傘を選ぶとは、不思議な運命を感じるよ」

そう言い、笑みを浮かべて店の奥に入っていった。

シンは少し気になったが聞かなかった。

傘を開けば分かる、なぜかそんな気がした。


風は穏やかになり雨も小降りになっている。

シンが店を出て傘を開くと、感覚がどこまでも研ぎ澄まされていくのを感じた。

予約してあった今夜の宿に向かって歩き出す。

道ですれ違う人々の感情を感じとることができた。心の声が聞こえてくることもあるし、嬉しい、悲しいなど、顔を見なくても何となく分かった。

人が放つ色も見えた。弱々しく白い光を放つ人。まるで燃えているような赤い光を放つ人。他にも青に紫、黄色に橙色とそれぞれに違った色の光を放っている。


ホテルに着く頃、雨は止んでいた。傘を閉じると研ぎ澄まされていた感覚は嘘のように消えていった。

傘を開いている時だけ感覚が研ぎ澄まされるらしい。今までこんな傘は見たことも聞いたこともない。


夜になり、シンは外で夕食にしようとホテルを出た。

シンと入れ替わるように、三十路くらいの背丈が低い痩せた男がホテルへ入っていった。

シンが傘を開くと、たった今すれ違った男の思考が鮮明に伝わってくる。


男は遺書をホテルの部屋に置いてから、近くにある踏み切りに入って死ぬつもりだった。

シンはしばらくしてホテルから出てきた男のあとをつけ始めた。

男は迷う様子もなく、警報が鳴り響き遮断機が下りた踏み切りの中へフラフラと入っていく。

迫りくる列車はまだ見えない。シンは素早く男の正面に回り込み、低い体勢からタックルでもするかのように突進し、男を抱え上げた。そしてそのまま踏切りの外まで走った。

近くに居た若い女性が非常ボタンの前まで移動したのが見えた。

女性はシンたちが踏切りの外に避難したことを確認して非常ボタンのそばから離れた。

列車は何事もなかったように轟音を立てながら勢いよく通り過ぎていく。

シンが抱えていた男を降ろすと、男は軽く咳きこんだあと、ボソッと一言だけ小さな声で「すみません」と謝り、歩いてきた道をゆっくりと引き返しはじめた。


「あの、もし迷惑じゃなかったら少しだけお話しませんか? ホテルも同じみたいですし」

シンは男と同じゆっくりとしたペースで歩いた。

ホテルに着くまで二人とも無言だった。

ロビーに座り話を聞くと、男の名前は洋平。二十歳の頃、母親が重い病にかかっていたらしい。先が長くない母のそばに居てほしいという父の願いを振り切るように洋平は家を出た。

それから八年が過ぎたある日、母の訃報を聞いて家に帰った。帰ったのはその時だけ。

それからさらに二年が経ち、洋平は遥か遠く離れた県の洋食レストランで働いていたが、不景気で経営が悪化し職を失った。二十歳からずっと働いてきたレストランの仕事を失うことは、洋平にとって大きかった。

経営が悪化し始めた頃から鬱を患い、最初は病院へ行き、薬も処方してもらっていた。

しかし半月以上前に薬は切れ、貰いに行くこともしなくなった。

病院に行く気力さえ残っていなかった。貯金も底を突き、死を意識して生活するようになった。


結局、洋平はシンに説得され実家に帰ることになった。

家出同然で飛び出し、母が亡くなるまで帰らなかった自分が、どの面下げて帰れるだろうかと洋平は言った。

それでも帰った方がいいとシンは言った。

朝になり、シンは実家に帰る洋平を見送った。外は雨が降っていたのに洋平は傘を持っていなかったので、例の傘を譲ることにした。


洋平は傘をさして歩き出した。

今度はちゃんと踏切りを渡り、角の駄菓子屋を曲がり、久しぶりの実家に帰ってきた。

父は洋平の姿を見て驚いた。そして何より驚いたのは、洋平が持っていた黄色い傘だった。

洋平がシンからもらった黄色い傘は、かつて母が、家を飛び出した二十歳の洋平を、駅まで追って行った時に使っていたものだった。

洋平が父に、仕事を失い精神も病み、貯金も底を突いたと話すと、父はこう返した。

「たとえ職を失っても、お前が無事に帰ってきてくれて、母さんはきっと喜んでいる。仕事はまた探せばいいじゃないか」

それから付け足すようにこう言った。

「その傘は以前から何か不思議な感じがすると思っていたが、もしかすると母さんが洋平を導いてくれたのかもしれんな」


チェックアウトして駅に向かう途中、なんとなく例の傘屋が気になったシン。少し遠回りになるが、店を一目見てから帰ることにした。

踏切りを渡り、角の駄菓子屋を曲がると、傘屋の二階の窓から上半身を乗り出し、陽の射す青い空を眩しそうに眺める洋平の姿が見えた。

洋平は傘屋の息子だった。

シンは悟った。あの不思議な傘のおかげで、洋平は自分と別れたあとも、ふたたび死に急ぐことなく帰れたのだと。

あの傘には息子を想う母親の強い念が不思議な力となって宿っている。

しかし洋平が帰った今、不思議な力は消えるのかもしれない。


シンは駅に向かって歩き出した。あとは帰るだけ。スマホで天気予報を確認する。

傘は要らなそうだ。

シンは立ち止まり、息子と同じ青い空を眺めた。

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