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いま死にたいと思うこと

いま死にたいと思うことはべらぼうに多い。
書いているいま(書き出しは01:55分だ)も強烈に死にたいが、悲しみと怒りに震える誠の心と巫山戯ることができる程度には正気だ。わたしはいつだって希死念慮を胸に抱いて生きている。
このまま何か事故が起こって死ねたらいいなとも思うし、このままベランダから飛び降りればいいやとも思っている。死にたいのに死ぬことにすらアクションを起こす腰が重いのだから、精神疾患を患うと何一つままならないと身をもって感じる。

こんな夜更けに睡眠薬も効かず、数日前から拒食も発症していてわりと詰んでいるが、原因としては感情を大幅に揺らされる出来事があったのでそれだと理解しているのでまだ大丈夫。……多分。
理由も分からず「心にほんのり飼ってる希死念慮」ではない規模の「今すぐ殺してくれ」という死の波が押し寄せてくるときがいちばん厄介で、これはどんなご自愛メゾットを組んで対抗しようにも布団の中で咽び泣きながら食べたものを厠で吐き、そもそもの食欲が失せ、脱水症状を起こした身体に無理矢理水分を摂らせたり内科に這いずって行って点滴を打つことにより命を繋ぐことしかできない。別に命を繋ぎたくは無いのだが、家人や血族に発見されるとそのまま運ばれてしまうのが難点だ。道端で行き倒れて死にたいと願うが、それは発見した人が可哀想なので自粛する必要もあるのではないかと考えている。
死ことまで誰かに迷惑をかけたくないし生きていてもゴミ。わたしになんの価値があるのだろう。そもそも価値があるなんて言う前提が間違っているとも思うし、生きているだけで価値があるという言葉は人生において陽キャとカテゴライズされる人々のエゴだと思っている。

そういった陽キャだからこそ、障害者手帳を不用意に読み上げていてもただの確認にしかならないと思っているのかなと感じる。どうして役所の窓口には陽キャしかいないのだろう、あちらからしたら障害者には配慮など必要ないと思いがんがんに個人情報をダダ漏れにしているのかも知れない。こちらを貶めたいのか意図が分からない……などと要らん記憶まで頭の中で掘り返してしまうのだから夜中の希死念慮はよろしくない。いまは別に役所にいる訳でもなんでもないのに、そんな嫌なことばかりが頭の中を走り抜けるのだ。
下手したら幼少期の事も思い起こして鬱状態が悪化するくらいに思考が散逸するので、出来るだけ速やかに安定剤と眠剤を飲んで寝てしまいたい。しかしながらそうもいかずにらんらんと目が冴えてしまいいつの間にか朝日がカーテンの向こうに忍び寄る。そして結果として「あ、死にたい」という思いが強くなってどうしようもなくなるのがルーチン。

この文章もそんな夜中から寝たり起きたり仕事をしたりの合間に何日か掛けて書き上げているものだが、その間死んでいないのはラジオやYouTube、サブスク動画サイトのお陰である。
深夜ラジオはわたしをひとりではないと励ましてくれるような雰囲気があるし、YouTubeはラジオ配信をしている配信者や興味のあったゲームの配信をしている人が沢山いるので観るものに困らない。動画サイトはおすすめで出てくる話題作などを観るとそれなりに感動したり面白かったり、興味がでたりすることもあるので情緒面のリハビリとしても大変お世話になっている。要は衝動をうまいことやり過ごすだけの技術が必要で、自分にあった物を見つけようという話なのだろうけれど。



そんなもん言われなくてもやっとるし、やっとっても死にたさに首括る夜もあるんだよ。

綺麗事だけで生きられるなら精神科はこんな多岐に渡らないし、我々はこんなにしんどく生きることはない。そういうものを無視してあれをやればいい、こうしてみたらどうかと無責任に提案してくる健常者は少し黙っていてほしい。
障害者の気持ちがわからない、とかそういう話ではない。単純にお互い「想像できないこと」を勝手に分かった気にならないでくれということで、無理なものは無理なタイミングが存在するのを理解して欲しいだけなのだ。
もちろん分かっていてもはじめの一歩が動けないと自分で分かっていて、誰かが手を引いてくれることが本当に救いなこともある。
ただ同じように、本当に動けない時に手を引かれるとそのまま転んで立てなくなるのでやめて欲しい。それは甘えや鬱のポーズなどではなく、冗談抜きに緩やかに餓死を選ぶ一歩手前のラインを踏んでいる。わたしは、手を差し伸べてくる誰かを殺人犯にはしたくない。だから、そっとしていて欲しい。

ただ隣にいてくれるだけでいい日もある。
そんなことを少しだけ、心に留めてくれる人が増えますように。

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