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曇天の豊島でアート鑑賞

これはわたしが、2024年のぐずりがちな天気のGWに、瀬戸内海の豊島を観光したお話です。完全に晴れのイメージをもっていたのに、当日は曇りがち。「ぱっとしないじゃん?」って一緒に旅をした気分で、どうぞ、お楽しみください。

(関連記事「雨天の直島でアート鑑賞」と重複する部分がありますので(旅行の目的など)、適宜読み飛ばしてくださいね)


瀬戸内旅行の目的~「役割」からのログオフ~

わたしが旅行に行こうと思ったのは、「10連休の圧に屈して、なんとなく」という消極的な理由だった。わたしは長期休暇が苦手だ。もっと細切れに休ませてくれよと思ってしまう。

加えて旅も苦手。あんまり食に関心が無くて、たくさんの飲食店に立ち寄る気がしないから、わざわざ遠出した先で何をしたものかと途方に暮れてしまう。

でもまあ、美術館巡りなら楽しめるかな。そう思って、国内の美術館を調べていたところ、瀬戸内は見ごたえのある展示があって良さそうな気がした。普段見れない海も見れるし、からっと晴れた空の下を、のびのびと自然を楽しみつつ、アートに触れられたらいいかなって。

アート巡りに際して、わたしは「作品をあるがままに感じる」という目標を立ててみた。ジャッジを挟まず自分の感覚と向き合うこと。それは、世界や他人に対するスタンスにも通ずると思っていて、アートをその練習だと位置付けた。

思えば、普段仕事をしているわたしはジャッジばかりしている。上司や同僚が「役割」を果たせていないと感じると、怒りが込み上げるのを抑えることができない(わたしが思う「役割」だから、ほんと身勝手なものですが……)。でも、それを素直にぶつけられる程の思い切りも無く、やり場のない気持ちが澱のように心の中に蓄積していた。そして、怒りは他人だけじゃなく、自分自身にも向けられた。周りから期待されている「役割」を果たせていない自分。他人への憤りを吐き出すことができない自分。そんな風に、歪んだジャッジで勝手に苦しんでるわたしのバカヤロー!

消極的な動機とはいえ、そんなごちゃごちゃした日常と向き合うためには、非日常に飛び出すことは必要だったのかもしれない。

豊島美術館への道のり

宿泊していた高松のホテルから、早起きして豊島へ向かった。

高松港から豊島へ直接向かう方法は無い。だからまず、高松港を7時40分に出発するフェリーに乗って、伊豆島の土庄港へ向かい、そこから豊島の唐櫃(からと、って読むんだって)港に向かうルートを取った。土庄港に向かうフェリーには、客室内にうどんを販売する売店があった。どうやら瀬戸内のフェリーにはいくつかバリエーションがあるみたい。前日に直島に向ったときに乗ったものも、その日乗ったものも、どれも席数が多くてゆったりしているけど、売店の有無や席の配置に微妙に違いがある。

航路とフェリー
左:直島観光旅サイト (https://naoshima.net/guidemap) から引用
右:わたしが撮影

フェリーの乗り継ぎを終えて豊島に着いたのが9時頃だった。豊島美術館の予約は9時半。自転車を借りることもできたけど、わたしは歩くことにした。ちなみに、わたしの徒歩に対する感覚はバグっている。早い話が、徒歩へのハードルが低すぎる。Googleマップで調べて1時間以内であれば、「じゃあ、歩きましょか」ってなるし、なんなら「わたしの脚なら1時間もかからんけどね」って謎のマウンティングをしてしまう、悪い病を患っている。それは、田舎で生まれ育ち、歩くことしか選択肢の無い子供時代に育まれた病原菌だ。

そんなわたしをあざ笑うかのように、無情にも斜度のある上り坂が続いた。それを20分ほど上った。この時点で、天気はいつ雨が降ってもおかしくないほど、どんより曇っていた。

やがて道の左手に豊島美術館が現れた。美術館の外観は見えなかったけど、ちらほら人がいたからそこだと分かった。右手からは段々畑を見下ろすことができて、写真を撮っている人もいた。わたしは結構ゼイゼイしてたから、その綺麗な景色を撮り逃してしまった(痛恨のミス)。

「母型」を鑑賞

受付のある小さな棟で、トイレを済ませて荷物を預けた。そして、そこから緑の多い敷地内を歩いて展示へと向かう。途中、木立の中を歩くシーンがあって、前日の雨で湿った匂いがした。その湿度がわたしに地元金沢を思い出させた。旅行地を旅行地で例えるの、たぶんダメ、きっと。

敷地を歩いた先にあるたったひとつの展示。それがコンクリート製の大きなシェル、「母型」だ。

その入り口に立っているスタッフの人に、靴を脱いで入るよう言われる。また、写真撮影はNGだとも。だから、展示の写真はベネッセアートサイト直島のサイトから引用させていただきます。

靴下で展示の中に入る人が多いようだったけど、わたしは思い切って素足で入ってみた。いつもは足先が冷えることにバッドフィーリングを感じるけど、その瞬間は冷たさが心地よかった。

母型の外観と内観
ベネッセアートサイト直島のサイトから引用
(https://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html)

コンクリートシェルの中は風通しの良い空間で、天井にある2つの大きな穴からは、風や光、そして鳥のさえずりが降り注ぐ。写真は晴天の日に撮ったもののようだけど、わたしが入ったときにはちょっと小雨も降っていて、それもそのまま降り注いでいた。

鳥のさえずりに混じって、コトコトと高い音が聞こえる。

何だろうと思ったら、床の小さな穴から湧き出た水滴が溜まり、流れ出たそれが別の穴に落ちる音だった。小さな穴はこの空間に無数にある。コンクリートの表面は撥水性が高くて、水は粒になって動いていた。天井の穴の下には、前日に降った雨でできた大きな水たまりもあった。その天井穴にはビニールひものようなものが1本掛けられていて、風が吹くたびそれはヒラヒラ動いた。

写真では分からないけど、床には白い球体のオブジェが散見された。大きさはまちまちだけど、だいたいビー玉から握りこぶしほどのサイズ。それらのてっぺんには穴が開いていて、そこから湧き出た水がオブジェの周りに留まっていた。

床の水滴はどれも、わたしが想像した速さでは流れなかった。あるとき突然、ゆっくり動く。そして、それが溜まると穴に流れて音を立てる。

わたしの他には5人から10人くらいの人が鑑賞していたけど、彼らは写真撮影NGな空間の中で、思い思いの鑑賞スタイルを取っていた。天井穴の下に寝転がっている人もいた。体育座りをしている人もいる。面白いのは、正解がないこの空間の中では、先にいる人の鑑賞スタイルが正解っぽくなるところ。体育座りの人の周りには、同じような座り方で鑑賞する人が集まっていた。水滴は水たまりに向かって流れていたし、人は正解らしきものに集まるし、大きなものにまとまろうとするのは、水も人も一緒だ。

地中美術館でも思ったけど、瀬戸内の展示では、静けさや自然音を感じ入ることになる。そういうところが、電車や車のひしめく都内では成立しないところだな。

コンクリートシェルを出たあとは、また傘をさして敷地内を歩き、カフェ&ショップスペースに入った。小さなその建物に入ると、コーヒーの匂いが漂ってきた。カフェスペースはなかなか繁盛していた。母型のような未知のものに触れた後に、人間らしい喜びを感じたくなる気持ちは、まあ分かる。人って、こういう美味しくて温かくて、良い匂いがするものが、遺伝子レベルで好きなんだろうな。、

ただただ豊島を歩く

豊島美術館を出た後は、豊島横尾館へ1時間ほどかけて歩いた。ほとんどの人がタクシーや自転車で移動しているにもかかわらず、徒歩病のわたしは歩くことを選択した。歩くうちに天気はだんだんと良くなって、背中には汗が滲んだ。旅をすることは汗をかくこと、なのだ。

なんでもない田舎道が続く。何台もの自転車がわたしを追い抜いて行った。途中、側溝の中に小さなカニを見たり、百合のめしべにひしと抱き着くカエルを見たりした。こんな風に生き物をまじまじ見たのって、いつぶりだろう? 名前すら分からない、小さな黒い虫が、群れを成して畑の隅を疾走する光景も見た。

家浦港に近づくと、ぽつぽつと飲食店が現れた。わたしはそのうちのひとつで苺のクレープを食べた。これだけ歩けば、もうクレープ分くらいのカロリーは消費したでしょう(そんなわけないか)。お店では外国人観光客の一団がくつろいでいた。そういえば、ここに至るまでに本当に沢山の外国の方々を見かけた。彼らは上機嫌で自転車を漕ぎ、ときに日本母屋を興味深そうに眺めていた。はるばる東洋の離島・日本の、さらに離島・豊島にやって来る彼らの観光に対する熱意たるや。

豊島の風景とご褒美クレープ
(撮影:わたし)

豊島横尾館を鑑賞

その後、5分ほど歩いて豊島横尾館に到着した。この美術館は、倉、母屋、納屋の3つの建物から成る。そして、それらを繋ぐように庭がある。屋外は撮影OKだけど、屋内は撮影NG。例によって例のごとく、撮影NGの場所の写真は、ベネッセアートサイト直島のサイトから引用させていただこう。

左:母屋1Fの様子 右:納屋から見た庭
ベネッセアートサイト直島のサイトから引用
(https://benesse-artsite.jp/art/teshima-yokoohouse.html)

この美術館は、写真からも分かる通り、なんていうか、全体的にブラックな風味を感じた。ダークというよりは、ブラック。救いようがないほど暗くはない。そこにポップさも混じる。

赤いガラスが要所要所に置いてあって、それが視界を赤く染める。入館料を払ってすぐ後ろを振り返ると、「Aurora」という男女3人が描かれた絵があった。ネオンが光る夜道(のように思える場所)で1組の男女が抱き合っており、その背後からもう1人の男が冷ややかな目でそれを眺めている様子が描かれた油絵だ。それに近づくときも赤ガラスがあり、作品の一部を赤い視界で見ることになった。その時点ですでに、独特な雰囲気に呑まれてしまった感じがあった。

そこから庭に出ると、鯉の泳ぐ池が目に入る。普通の庭と違うのは、周辺に転がる赤い岩の存在。赤はこの美術館のテーマカラーだ(おそらく)。池はすぐ近くの母屋へと続いていて、靴を脱いで母屋に入ると、ガラス張りの床からは泳ぐ鯉を見ることができた。こういうガラス張りの床って、自分が立った瞬間に割れちゃうんじゃないかと思ってしまうのは、わたしだけなんだろうか?

母屋に展示されている絵は、やっぱりブラックでポップなものが多かった。

特に気になったのが、引用した写真にも映っている1枚。畳の部屋に展示された、3つの絵がひとつになったような大きな絵だ。その真ん中に描かれている、沢山の骨が描かれた部分についつい目が行ってしまった。TVショーに出演しているような3人の華やかな男女。彼らの背後には月が浮かんでいて、足元には骨の山。これはいったい……? メディアが人の心を殺すっていう風刺なんだろうか? それとも、残酷な事実をエンタメとして扱うことへの批判? とにかく、男女の輝く笑顔の残酷さが印象的で忘れられない。

その母屋の2階にも、ブラックな展示が2点あった。
その内のひとつは、暗くて狭くて天井の低い一室に展示されてた。それを詳しく紹介しよう。

左側に揃いの紫の制服を着た3人の少年、右側に紫の大きな卵が描かれている。卵は今まさに孵ろうとしており、少年たちが目を隠したり身をかばいながら、それから逃げようとしている絵だった。彼らの背後に貼ってあるポースターには「LISTEN THE DARK VOICE OF THE EARTH」の文字。これから何か良くないことが起きようとしている気配が伝わって来たけど、暗い空間でそれを見ていると、ワクワクというか、ゾクゾクというか。不思議とそれは、喜びに近い感情を呼び起こした。

母屋を出ると、撮影OKなトイレのインスタレーションがあったから、写真を撮ってみた。

庭のインスタレーションとトイレのインスタレーション
撮影:わたし

この美術館には「庭のインスタレーション」、「トイレのインスタレーション」、「滝のインスタレーション」と名の付いた3つのインスタレーションがある。さっき見た庭も、ただの庭じゃなくてインスタレーションだったわけかあ。って、そもそもインスタレーションってなんやねん。そう思って調べてみると、ウィキペディアには以下のように書いてあった。

インスタレーション は、1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術。

ウィキペディア 「インスタレーション」より引用

ん~、なるほど。じゃあ、豊島美術館で鑑賞した母型もインスタレーションだったわけか。前日に行った地中美術館もそうだったし、瀬戸内のアートはインスタレーションが多い。しかし、このトイレから何を受け取るかは、結構難しいな。極めて個人的な空間が、鏡によって死角がない状態になっていることに対する羞恥? でも、このインスタレーションの横に、これと全く同じ実際のトイレがあるんだけど、そこで用を足したときは、むしろテンションが上がった。「キラキラトイレ、イエーイ」みたいな。そのシンプルな感動を受け取るのがいいのかなあ?

そのあと納屋に入ると、ガラス越しの庭のインスタレーションは真っ赤に見えた。個人的には、これが庭のインスタレーションの真の姿のように思えた。外で見ると美しい庭。だけど、赤ガラスを1枚隔てると、急におどろおどろしさを感じる。物事って、そんな風に何かを通して見ると、簡単に感じ方が変わってしまうものなんだろう。

そして、納屋から続く小さな入り口を通り、滝のインスタレーションに入った。ここは円柱型の空間で、足元と遠くの天井は鏡。そして、壁が沢山の滝の写真でびっしり埋め尽くされている。自然光は入ってこず、照明は少し抑えめ。滝はブルーグレーのような色味で、薄気味悪さはあれど、居心地が良くて、「ずっとここにいたい」と思わせる何かがあった。しばらく1人でその空間に立ち尽くす。そこを出た後、納屋で絵を鑑賞しているときに、またあの中に戻りたいと思ったけど、結局やめておいた。そうすると、なんだかもう2度と出られないような気がして。

そして岡山へ

その後は、家浦港から岡山県の宇野港に向かう14時のフェリーに乗って、豊島を後にした。この瀬戸内旅行で、すっかりフェリーに慣れてしまった。フェリーの中で、わたしは豊島横尾館で買った真っ赤なハンドブックを読んだ。そこに、滝のインスタレーションに関して、作家である横尾忠則が言及した文章があった。「建物の中央の塔は男性性器を表し、その内部の滝のポストカードの流れる滝は精液である」。それを読んだわたしは、「どうして滝の写真が貼られてるんだろう?」という疑問を抱かなかった自分に初めて気づいた。

ただ目に見えたものをなんとなく受け入れる。そんなある意味怠慢な姿勢は、世界に対する姿勢そのもの。日常生活において、勝手なジャッジで勝手に怒っていたわたしだけど、気づいていないことは生活の中にきっとある。そして、「役割」を果たしてないとジャッジを下した上司や同僚は、そんな何かに粛々と取り組んでいるのかもしれない。なんて、最後に内省を促す気付きを得たけど、これで旅の目的は達成かな?

「良く生きることは、よく死ぬことなり」。ハンドブックに書かれた、株式会社ベネッセホールディングス会長・福武總一郎さんのその言葉が印象に残った。いい言葉。そして、豊島を長々と歩いたわたしが思ったのは、「良い旅をすることは、よく汗をかくことなり」。


もしよければ、準備編もどうぞ。
GWに瀬戸内に行く計画を立てる話 1
瀬戸内に行く計画を立てる話2 ~アート鑑賞は人生そのもの?~



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