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死者の声を想像すること

2011年3月11日、14時46分。わたしはその時、宮城県の小学校にいた。

机の上にランドセルを用意しながら、教室で帰りの会を待っていた。

誰かが「地震!」と叫んだ直後、下から突き上げるような揺れに襲われた。


「机の下に潜りなさい!」と担任の声が響いた。赴任してまだ間もない先生の張り詰めた声を聞くのは、あの時が初めてだった。

ずうん、ずうんと床が揺さぶられ、身体が机の下から投げ出されるのを必死にこらえる。

揺れ始めて1分くらい経った頃に、ぱっと蛍光灯が消えた。同級生の中にはパニックを起こして泣き叫ぶ子もいた。

揺れは長かった。こんなにも長く揺れるものなのかと思った。収まりかけた揺れが、再び強くなっていった。窓ガラスがガタンガタンと音を立てる。

数人のランドセルが机から落ちる。ランドセルが直撃したのだろうか、どこからか「痛い、助けて」と声が響いた。

「あと30秒」わたしは必死で自分に言い聞かせた。机の下にしゃがんでいたので、足が痺れていた。


幸い、教室には大きな被害がなかった。

「整列して前の人についていきなさい」と言われたが、足がすくんで動けない子もいた。

外は粉雪が舞っていて、校庭はねちょねちょにぬかるんでいた。

上靴のまま校庭に向かい、しゃがんで寒さにじっと耐える。地面が絶えず揺れているような感覚に襲われ、身体のバランスを取るのも一苦労だった。

教頭先生がアナウンスを入れている間にも、校舎からぎしぎしと揺れる音が聞こえた。その度に、低学年の列の方から叫び声が聞こえた。

笑っている人も、泣いている人もいた。

保護者引き渡しが決まり、校舎に荷物を取りに戻った。ランドセルを背負った瞬間、再び校舎が鈍い音を立ててきしみ始めた。机の脚をつかみながら、早く校舎を出ないと死んでしまう、と思った。このとき初めて、地震が怖いと感じた。


保護者と連絡がつかなかったため、同級生の母親に家まで送ってもらうことになった。

帰り道はところどころ陥没していて、電信柱が時折ぎしぎしと音を立てていた。

近くの貯水場が壊れていたらしく、大量の水が道路にあふれていた。流されてしまうのではないか、という勢いだった。

自宅は何事もないように見えたが、それでもひとりで入るのは怖かった。寒さをこらえながら、団地の周りをうろうろとしていた。団地の道も大きく陥没していた。電信柱が揺れるたび、わたしは足がすくんで動けなくなった。


ほうぼうを巡っている間に弟と合流し、弟の友達の家に一時避難することになった。

親の安否は…と思っていたら、話を聞きつけた母親が迎えにきてくれた。母親の職場でしばらく過ごすことになった。

車に乗って初めて、とんでもない災害なのだと気がついた。

「…沿岸地域に大津波警報が発令されています…」

「…○○川に数百体の遺体が浮かんでいるとの情報が入りました…」

ラジオから入ってくる無数の速報は、それまでに耳にしたことのないものだった。

「…『早くあがって!!』『早くこっちへ来い!!』と声がして、ハッとすると、目の前から茶色いかたまりがこっちへ向かってきていました。
お母さんが私と弟の腕をつかみ、急いで階段をかけ上りました。三階の階段をのぼった時、やっと何が起きているのか、わかりました。
下を見ると今まで歩いてきた道は茶色の海になっていて、建物のかけらと車がギシギシと音をたててぶつかっていて、道路向かいの家は一階の部分が見えなくなっていました。妹の保育園も壊れていたので、妹も流されてしまったと思い、言葉がでませんでした。お母さんも泣いていました。流されてきた人や車の中から「助けてー」とさけんでいる人もいました。」
(廣瀬遥「早くあがって!!」——森健『つなみ 被災地の子どもたちの作文集』文藝春秋、2012年)

「一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしににげている人が見えました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出れなくて、たすけをもとめている人が見えました。何分かたって、その車はしずんでって、もうしずんだって時に、ギリギリでわかい人がたすけにいって、三人はたすかったけど、一人はさむさで死んでしまいました。」(廣瀬迅人「妹にやっと会えた」——同上)

「ひなんしてる人の話し声でねむれませんでした。よしんがこわくてねむれませんでした。よるねるときさむかったです。つなみにはゴミがいっぱいでした。
…つなみの色は黒っぽいつなみでした。くさかったです。」
(中村まい「つなみは黒くてくさかった」——同上)

母親の仕事が一段落して、自宅に戻ってくるころには日付が変わっていた。

自宅に入るのは危険だったため、車中泊をすることになる。車のガソリンがなくなるのを防ぐために定期的にエンジンを切っていたので、とても寒かった。

「…今もスタジオで揺れを観測しています。落ち着いて行動してください。」

余震は何度も車を揺らした。不安と揺れで、私は吐き気を催した。けれど、吐くものがないほど空腹だった。

弟は車でぐっすり眠っていた。父の安否はわからなかった。

みぞれが止んで、日が昇るころには空は晴れていた。明星がはっきりと輝いていた。


幸いにも自宅はほとんど無傷だった。近所で灯油をもらい、押入れにしまっていた石油ストーブで暖をとった。ストーブの上で作ったコーンポタージュは美味しかったけれど、胃が食べ物を受け付けなくなっていた。

河北新報がお昼前に届いた。そこには現実のものとは思えない、真っ黒な津波の写真が載っていた。あまりに黒いので、すぐには海だと認識できなかった。家の屋根が海に浮かんでいた。

たくさんのひとがこの水の下で死んでいる、と思うと寒気がした。


余震がくるたびにわたしは腰が抜けてしまい、何回か吐いてしまった。水が止まりかけていたので、雪を集めて溶かしてトイレの水に使った。なかなか流れない。

この日、たくさんの消防車と救急車が県南に向かっているのを見た。自宅の近くからちょうど高速道路を俯瞰することができ、そこで100台近くの隊列がけたたましく走っているのを見た。原発がどうなっているかなんて、まだ知る由もなかった。


イオンへの買い出しやガソリンの買い足しだけで数日が終わった。非常食で乗り切る生活はとても新鮮で、ろうそくで過ごす夜もいいなあと子どもながらに思っていた。それでも、絶え間なく続く余震でゆっくりと眠ることはできなかった。

何日かして電気が復旧し、それから一週間くらいで水道も復旧した。テレビで初めて見る津波の破壊的な映像と繰り返される同じCMは、脳裏に強く焼き付けられていった。

私はあの日、内陸部の小学校で被災しました。その時のことをいつか記録に残して震災を知らない世代の子たちに伝えようと思っていて、この9年目というタイミングを選んで、できるだけありのままに書かせていただきました。

私は震災当時、津波を生で見たわけではありません。何度か被災地に足を運び、現地の人々の声を少し聞いた。できたのはそれくらいです。だから、被災地の本当の姿を知っているわけではないし、語ることもほとんどできません。現地の人たちと特別な結びつきがあるわけでもない。それでも、自分の知っている範囲で、経験した範囲で、書けることを書こう、と思うのは、薄れていく自分の記憶をここにとどめておきたいから。そして、この文章に触れた人に、死んでいった人たちのことを想像するきっかけを与えたいからだと考えています。

想像ラジオ、という作品があります。いとうせいこうさんの著作です。

深夜2時46分に始まったDJアークによる謎のラジオは、死者と生者が融合する特別な時間。「想像すれば聞こえるはずだ」。想ー像ーラジオー、というジングルが印象的なこの作品は、東日本大震災をモチーフに書かれたものです。

震災で身近なひとが亡くなったわけではない私は、自分が「被災者」として経験を語ることに常に葛藤を抱えてきました。人の死について、勝手に語ることは許されるのかと。そこで捨象されてしまうものはないか、と。

けれどもこの作品は、「死者の声を想像する」という営み、思いを馳せるという営みは、死と向き合ううえで不可避なのではないか、ということを教えてくれます。例えば私が、あの日の河北新報に貼られたどす黒い海の写真から、その水の下に沈む人々を恐る恐る想像したように。

震災から9年が経ち、自分だけでなく被災した人たちからも被災していない人たちからも、あの日の記憶が消えていくのを、ひしひしと感じています。いいえ、「忘れる」のはむしろよいことです。あの日のことを「想像する」という行為そのものができなくなっていくのを、私はどうにも無念に思うのです。なぜそう思うかはわかりませんが、私が引っ越してもうすぐ1年が経つ東京という大都会は、「死者の声を想像する」行為にはどこか向いていないような気がしたのです。時間的にも、空間的にも、です。濁りのない心で思いをじっと巡らすには、どうにも妨害電波が多くて仕方がない。だからこの文章は、故郷に帰って書き上げたものです。

死んでいった人の声を勝手に騙るのは躊躇わなければならない。けれども、犠牲者の声を「想像する」という行為には、何年経とうと少なからぬ意味があると私は考えています。それはきっと大災害や大事件で亡くなった方々だけではなく、日常を送る中でこの世を去っていった方々の声を想像することにも、当てはまるのではないか。

死者の声を想像するためには、妨害電波のない環境と、きっかけが必要です。それは祈念日という形をとってもいいし、小規模なイベントでもいい。「大都会は妨害電波が多い」と言いましたが、たとえ街の喧騒の中にいても、ちょっと時間をとって深呼吸すれば、聞こえてくる声があるかもしれません。

そして私は私なりにできることを。自分の被災経験を語ることが、犠牲者に思いを馳せるきっかけになるようにと願っています。

先に引用した森健「つなみ——被災地の子どもたちの作文集」には、子どもたちの怖れ、戸惑い、不安、そして安堵と希望の言葉が紡がれています。震災に強い思い入れがないと、こういう文集に触れる機会というのも滅多にないものです。子どもたちが紡ぐ言葉の奥底にある動揺や、それをどうにか振り払ったり真正面から受け止めたりしようとしているさまざまな姿を、自由に想像していただければ、と思います。

感染症の拡大に伴い、追悼式典や献花など震災関連のイベントが縮小・中止に追い込まれています。また、内閣府は震災発生から10年を節目に、政府主催の追悼式典を取りやめることを表明しています。

私は上京してから、想像していたよりもはるかに震災の悲惨さについて知らない人、覚えていない人がいることを知り、同時に自分も彼ら彼女らに語りうる物語を持っていないことに気づきました。

そんな中で私にできることは、死者の声を想像しながら、節目ごとに、自分の取るに足らない経験や後付けの知識を発信することくらいなのかもしれないな、と感じるこの頃です。

関西でフィールドワークの修行中です。応援いただけたらとても嬉しいです。