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電気羊とアンドロイドの話

映画『ブレードランナー』の原作は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』という作品である。ずいぶん前に読んだので、かなり、あやふやなのだが、主人公は、アンドロイドと呼ばれる人造人間のハンターで、ある時から、自分自身が、アンドロイドなのか人間なのかで、悩むようになるという内容だった。映画の『ブレードランナー』では、追われる方のアンドロイドが持つ、人間的な死を恐れる感情と、その悲しみに、焦点が当たっていたように記憶している。『トータルリコール』という映画の原作者も、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のフィリップ・K・ディックで、主人公が自分の記憶が作られたものであるかもしれないと知り、ショックを受けるという内容である。

フィリップ・K・ディックの上手いところは、AとBがあって、AがBより良いという認識があり(『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか』では、人間とアンドロイドがいて、人間が良い。『トータルリコール』では、現実の起こったことの記憶と作られた記憶あり、前者を持つのが好ましい)、自分がAだと思っていること(思いたい)が、よく考えてみればBの可能性もあり、Bだったらどうしようと悩むという、願望と現実の間を、上手く描いているところにある。

これらの作品は、人間というのは、自分が本当は何なのか、あるいは自分の記憶や思考が本物なのか、あるいは植え付けられたものなのか、突き詰めれば、どんどんわからなくなってしまう、私たちは、実は、自分自身を知らない、あるいは、知らない可能性が高いということを、示している。

ギリシアの神殿には、「汝、己を知れ」と書かれていた。それは、私たちの大半が、自分が何者なのか知らないまま生きていて、その知らないということにすら、気づいていないからかもしれない。

「狂人は、自分が狂人とは思っていない」などといったりする。また、洗脳されている人は、自分が洗脳されているとは思っていないだろう。狂っている人や、洗脳されている人というのは、自分を失っている状態にある人たちだが、その人たちは、自分がその状態にあることを知らない。

もし、狂人が自分が狂っているというと思っていれば、その部分は狂っていないと言えるだろう。また、自身が洗脳されていると思っている人は、少なくても、そうわかる部分が意識にあるということは、完全には、洗脳されていないと言えると思う。

覚めなければ、夢だと気づかないように、渦中の自己認識とは、誤っている場合が、往々にある。

翻って、私たちは、「狂人でも洗脳されているわけでもない」と、思っていたとしても、それは、まさに、狂人や洗脳されている人が、思っていることなのである。ならば、どうやって、私たちは、自分が狂人でないとか、洗脳されてないと証明できるのか。

また、人間と一緒に住んでいる犬は、自分を人間だと思っているという人がいる。この頃のAIも、自分は人間だと思っているかもしれない。私たちは、人間だと思っている犬に、「お前は、犬だ」と言ったり、AIに、「お前は、人間じゃない」などと言って、相手を納得させることが出来るだろうか。

狂人は、狂人だと言われたら、「自分は正気だ」と主張し、洗脳されている人は、「されていない」と主張し、犬やAIは、自分が人間だと信じていれば、違うと言われたところで、納得せず、みんな、「そういう事を考える、お前こそ、狂人だ(洗脳されている、人間じゃない)」と、いうのではないか。

つまるところ、私たちは、自分を人間だと思っていて、少なくとも、犬ではないという点では、間違いはないだろう。

けれど、案外、私たちは、私たちの思っているような人間ではない可能性もある。自分が狂っていることを知らない可能性も、洗脳されている可能性も、ないことはないのである。

いつも、生きるということには、「あやうさ」がついてまわっている。

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