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よそはよそ、うちはうち。


関西人なら子供の頃
オカンにこのセリフを言われたことは
一度や二度ではないはずだ。

〇〇ちゃんのお母さんはこうだった!
〇〇くんのおうちはこうだった!
などということは関西のオカンには通用しない。

「よそはよそ、うちはうち!」

この呪文のような一言で
問答無用のシャットダウンである。

だがしかし、大人になると
この関西のオカンマインドが
とても大切なことだと分かる。

よそはよそ、うちはうち。
これは家単位の表し方だが、
個人単位で表すとシンプルに
「人は人、自分は自分。」
「私は私、あなたはあなた。」
となる。

これは多様性だなんだと言われるこの時代こそ
大切なことなんだと思う。

そもそも、この言葉の本質は
誰かや何かと「比べるな!」である。

関西のオカンは
他の家のオカンと比べられることも
他の家の中と自分の家の中を比べられることも
許しはしないのだ。

誰かや何かと比べて、
そこに善悪や正解、正義を求めるな、
持っていないものを見て、
その羨ましさを誰かのせいにするな、
ということだ。

確かに、
大人になってもそういうのって変わらない。
ブランドものを持っている子が羨ましいとか
優しい彼氏や彼女のいる子が羨ましいとか、
羨まれるような会社に入った仕事に勤めたとか
結婚してるしてないとか、
いいお家に住んでいるとかなんだとか
そんなようなこと。

自分はどれを持っていて持っていなくて、
あの人は自分の持っていない何を持っているか。

そんなものを幸せの基準にするのか。否。
そうやって比べては投げて苦しんだことは
多かれ少なかれ誰にでもあることだろう。

時に誰かや何かと比べては
妬んだり苦しんだり責めたり泣いたり怒ったり…
そういう感情のすべてに対して、
否!と突きつけるものが
うちはうち、よそはよそマインドだ。


そして、多様性と言われ
言葉や感情、情報、あらゆるものが溢れかえり
毎日溺れそうになりながら現実を泳ぐ中で


「わたしはわたし、あなたはあなた。」


意見が一致しなくても、
心や人生がもう交わらなくても、
自分とはやり方が違っても、
そんなものはもう仕方がないのだ。

そしてその上で、
受け入れたり受け入れなかったりする。
それが、このマインドの本質だ。


何かを
受け"入れる"ことや
受け"入れない"ことを
自分で選び取ってゆく。


そして例え
誰かの言葉や感情や出来事を
「受け入れない」と決めても、
自分を責める必要は全くない、
受け入れないことも本来持つべき選択肢だ。
これが大切な部分だと思っている。

例えば何年も何十年も仲良くしていた友人や
長年連れ添った夫婦や恋人、家族、仕事仲間、
それまでどんな間柄であったとしても、
意見がどうしても合わなくなることはある。
それまでのように心が交わらなくなることがある。
受け入れられない出来事が起こることもある。
それが関係を続ける上で致命的なことだったら
それはそれでもう距離を取るなり
関係を断つなりするしかないのだ。

ずっと仲良くできれば、
ずっと添い遂げられれば、
それは素敵なことだけど、
そう出来なくても、何も悪くない。


諸行無常としか言えないことだろう。


人は変わろうとするとなかなか変われないくせに
時間の経過や環境、付き合う人間によって
あっという間に別人のように
変わってしまうこともあるような、
とても不可思議な生き物で、
それは自分とて同じなのだ。

だから、
「誰かや何かと比べない」という
よそはよそ、うちはうちのオカンマインドの
竹を割ったような"ドライさ"というものは
自分自身と自分自身の大切なものを
守るためにも必要なことなのだと、
大人になったわたしは思う。


それにオカンマインドはきっと、
ドライさだけでなく、少しのお節介さと
少しの暑苦しさとを持ち合わせていて、
それが鬱陶しい時もあるけれど、
それに救われる時もあるのだろうと思う。

もちろんだけど関西のオカンが
みんなそんなふうではない。笑


ドライさと優しさを持ち合わせ、
こうあれたらいいなという理想、

つまりこれは、
少なくともわたしにとっては、
理想のオカン…いや理想の女神像であり、
理想の人間像なのだろうと思う。



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それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。








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