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樹が年輪を刻んで生きるように。


世の中には「おじさん/おばさん構文」だとか
「カジュアルおばさん」だとかいう言葉たちが
のさばってるけれど、みんないずれそうなるのにな


という3行日記を書くつもりだった。
いつも通りその後の写真のキャプションに
この3行日記に書き加えたいことを
短い文章で書いて更新するつもりだった…


けれど短い文章に収まらなかった。笑


だから少しだけ、書きたいと思う。


誰もがおじさんおばさんになり、
おじいさんおばあさんになる。
人間は必ず老いるし、必ず死ぬ。
それだけはどの人間にも平等に訪れること。


自分が歳を重ねてゆく中で、
老いることや老けてゆくことを
受け入れられないのは
自分を受け入れないことや
人生を受け入れないこと
のようにわたしは感じるようになった。

例えば外見ひとつ、
最新の美容医療の力を使い抗うことができたとして
どうなるだろうか。
いつまで抗い続けることができるだろう。

周りにそうした美容医療で
シワや弛みを取ったり、
体型を維持したりする方は何人もいたし
それは本人が決めることだから
わたしがどうこう言うことでもなんでもない。
(失敗症例などを見ると心配になるけれど)

けれど、少なくとも今の自分自身は、
外見上の若さを保つことが
イコール美しいことだと思っていない。
自分が考える若さや若々しさ、美しさって、
シワやシミや弛みがないことでもないし、
見栄えの良いスタイルを保つことでもなければ、
実年齢より10歳20歳若く見えることでもない。


そもそも、
いつまでも老いないということは
あり得ないことだから。


外見の老いも脳の老いも身体の老いもすべて、
これまで生きてきたその年月を表している。

必ず、必ずみんな、全てが衰えてゆく。

そんな人生の中で、
歳を重ねることをただネガティヴに捉えて
生きていくなんて悲しいと思うようになった。

樹の年輪は美しい。
人間にも目に見える部分、
そして見えない部分にも、
年輪のようなものが刻まれていると思う。

皮膚のシワやシミも弛みも
物忘れがひどくなり物覚えが悪くなることも、
思うように動かなくなる身体も頭も、
老いてゆく人の全てが、
樹が年輪を刻んで生きているのと同じことだと
そんなふうに思って生きていけると良いと
今は思っている。

受け入れたくない時だって
これから先きっと沢山あるけれど、
その都度自分に向き合って、
受け入れていけたらいい。

これまでに見てきた、
何十年何百年と生きてきた桜は
どんな姿でも美しかった。
人も、老いた姿でも、
それまで生きてきたことが見て取れることは
美しいと思っていたい。


だってさ、
簡単なことではないよね、
生きることって。
しんどいもん。

もちろんね、白髪や皺やシミや弛みや、
太った痩せた、そんな外見の衰えって
毎日自分で目に見えることだから、
嫌になる気持ちってすごくよく分かる。

だけどそれを、
「あーあ、老けたなぁ」って思うんじゃなくて、

「頑張ってきたもんね」って
「生きてきた証だね」って
「良い年輪が付いてきたんじゃないの?」って

真っ先に肯定してあげられる自分でいたいんだ。


自分のことを否定して生きてきた人生だから
これから先は、どんなことも
どんな自分も、肯定してあげたいと思う。



それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。


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