Essay_s#3 「心が前に動いている」
「心が前に動いている。もう大丈夫だ。」
◆◆◆
T君の担任となった年のこと。学年は、4年生。
前担任から引継いだこと。
●彼はクラスで浮きがちであること。
●いじめられていると本人が感じていること。
●彼の母親も彼のことをとても心配していること。
●そして、彼はかなりの肥満体形であること。
4月から毎日彼と過ごす中で、なるほどそういうことかと感じる場面によく出会った。授業中、教師の私からすると、「おっ、なかなか鋭い発言だな。」と思うような場面でも、まわりの子どもたちの反応はどこか冷めている。冷めているどころか、「でも、ちょっと違うと思います。」などと感情的に反論したりする。この年頃の子どもは、えてして「何を言っているか。」ではなく「誰が言っているか。」で判断する。集団の凝集性が高まっていないクラスでは、さらにその傾向に拍車がかかる。
そんな風に毎日が過ぎていく中で、彼自身にも大きな課題があることに気付く。
例えば。
グループの形にして一緒に給食を食べる。美味しい給食が雰囲気を柔らかくしてくれて、子ども同士の話も弾む。そんなとき、彼は決まって、自分の話ばかりする。「俺はね、…」「俺、前さ…」。自分の話をするとき、彼は最も楽しそうに笑い、最も饒舌になる。「ゲーム」の話だったり、「習い事」の話だったり、「テレビ」の話だったり。みんなで共通の話をしている最中に、そういう「自分語り」が突然出てくるので、そのたびグループの話の流れは淀んでしまう。
これまでの14年間の教員経験の中で、こういう子は案外多かったように思う。6年生を担任したときでも、このような会話しかできない子もいた。
T君自身、メタ認知の力が圧倒的に弱いというのはある。
でも、もっと単純な事実が目の前にある。
彼自身がまわりの友達に心を開いていないこと。
そして、まわりの友達も同様に彼を受け止める心が育っていないこと。
私が4月にこの学級を担任し、「課題」と感じたのはまさにここだった。
この「課題」はT君だけの話ではない。結局、集団の中でちょっとでも異質な子は排除しようとする雰囲気があるということ。どの子も大切な仲間であり、尊重する仲間であり、一緒に楽しく高め合っていこうとする仲間、というような感覚があまり感じられなかった。
その「課題」を解決していくことが、クラス作りの最優先事項だった。
だから、その一つの手段として、休み時間はとにかくみんなで体を動かして遊ぶようにした。肥満体型で運動が苦手なT君も、もちろん誘った。みんなで遊べば楽しいんだという感覚を彼に味あわせること。
まわりの子も、「なんだ、Tと遊ぶの楽しいじゃん。」いう気持ちを感じること。
そのために私が意識したのは、ただただ「彼」と「彼ら」をつなぐ作業に徹することだ。
彼が「自分語り」をする。空気が淀む前にすかさず私が「いやー、そうだよね。先生『も』それは好きだなあ。」とワンクッション入れる。
「彼ら」の、「ああ、確かにそうかも。Tの気持ち分かるかも。」という感覚をちょっとずつちょっとずつ育む。
彼自身、まわりの子とうまくコミュニケーションをとれずに4年生まで来た。その影響もあったのか、家庭ではその分母親には大切に育てられてきた。だから、T君にはわがままな性格も見え隠れした。
あるとき、T君は何かちょっとしたことで腹を立て、自分のペンケースから鉛筆を1本取り出して、いきなり真っ二つに折った。授業中に、みんなの前で。教室が、シーン…となった。
私は、みんなの前で、彼にまくし立てた。
「その鉛筆は一体誰が買ってくれたのだ。たかが鉛筆1本かもしれない。でも、それを買ってくれた君のお母さんは、学校でちょっと腹を立てて鉛筆を折ったことを知ったら、とても悲しむぞ。物にあたるなんて、絶対にやってはいけないことだ。嫌なことがあったら、先生に言葉で言え。帰ったら、必ずお母さんに謝れ。」
教職に就いて3年目、当時の私は経験の浅い若造だった。
でも、この場面では、躊躇してはダメだと直感した。
「彼ら」に「先生ってT君には甘いよな」と思われてしまってはこれまでの私の振る舞いや言葉が、空々しいものになってしまうと恐れた。
だから、みんなの前で、私の思いをT君にぶつけた。
T君のことは全力で受け止め肯定する。
でも、駄目はことは他の子と同じ基準で躊躇なく叱る。
時間はかかる。
けれど、それしかない。
そんなことを4月から続けてきて、夏頃なのか秋頃なのかは、忘れた。
クラスの雰囲気が、ちょっとずつ変わってきた。
「彼」と「彼ら」と。
どちらが先に変わってきたのか。それは、「彼ら」の方だった。
「T、今日帰ったら遊べる?」そんなやり取りがよく聞こえるようになった。
「自分語り」ばかりだった彼から、給食中に友達の話が聞かれるようになった。
細かいトラブルは、もちろん幾度となくあった。よく遊ぶようになった分、放課後のトラブルまで翌日の学校に持ってこられるのは、正直しんどかった。でも、私にできることは、4月から何も変わらなかった。
秋になり、冬になり、みんな可愛く笑うようになっていった。
◆◆◆
もうすぐ進級を控えた、4年生の2月。
この学校では、毎年「卒業生を祝う会」という行事が行われていた。
1~5年生は、学年ごとに、卒業する6年生をお祝いする歌やメッセージなどを、工夫して発表する。体育館に全学年が集まる、なかなか盛大な行事だった。
我が4年生は、全員が応援団に扮して6年生にエールを送るというシナリオになった。そこで、応援団長を選ぶことになった。
私は、4年生がこの「応援団」をすることに決まったとき、T君に応援団長を務めてもらうイメージがすぐに湧いてきた。体の大きさそのままに、彼はとても大きな声を出せるのを知っていた。一緒に学年を組んでいた先生も、「T君がいいんじゃない?」と言ってくれた。T君にもっと自信をもたせたい、という思いもあった。
すると、応援団長決めの学級会で、クラスの子たちから「Tがいいと思う」という意見が出された。それはもちろん、嫌な役回りを、嫌な子にやらせるといった類のものとは正反対のものだった。みんな、この一年でT君のよさを知り、心から応援団長の役をTにやってほしいと願ったのだった。
もともと引っ込み思案なところがあるT君は、すんなり受け入れなかった。その日の学級会はそれ以上進めず、私は、T君を説得するようにした。彼の母親にも電話をして協力を仰いだ。そんな努力が実り、最終的にT君は応援団長の役を引き受けてくれたのだった。
そして当日。発表の場である体育館に向かう前の教室。緊張で真っ青になっているT君。でも、まわりの子はみんなT君のことを気にかけ「大丈夫。」「心配しなくていいよ。」「Tならできるよ。」と声をかけている。私は、一年前の姿を思い出し、その柔らかく温かな雰囲気に涙が出そうになった。
私にできることは何かないか。
まだ若かった私。私にできることは一つしかないと、思いっきり息を吸い込み、それを始めた。
「ふれええええええええぇ、ふれえええええええええぇ、○○○!」
彼がこれから、大人数の前で声を振り上げて応援団長の役を務めるのだからと、私は、彼に負けないくらいの大声でエールを送ろうと思った。
若かった。けれど、なかなか粋ないいことしたじゃないかと、今思う。
後日、T君の母親から手紙をいただいた。
そこには、「緊張しているTに対して先生が大きな声でエールを送ってくれたことを本人はとても喜んで、家で話をしてくれました。」と書かれていた。
「心が前に動いている。もう大丈夫だ。」
母親からの手紙の中に、もう一つ、とても嬉しいことが書かれていた。
我が子の勇姿を見ようと、4年生の発表の様子を見ようと、T君の母親が体育館に来てくれていた。そのことは知っていた。
その本番のとき、T君が1年生のときの担任の先生が近くにいて、4年生の発表を一緒に見たということだった。そして、そのときのT君の姿を見て、かつて担任だった先生が、母親に伝えたのが冒頭の言葉。かつての担任も、彼のその後が気がかりだったようだ。
T君があんなにも堂々と大役をこなしている。
発表前後でまわりの子たちがT君のことを気にかけ、声を掛けている。
T君もそれを嬉しそうに受け止めている。
私も、間違いなく同感だった。
「T君の心も、T君のまわりの子たちの心も、大きく、柔らかく、成長している。もう大丈夫だ。」と。
◆◆◆
彼の家からは、その後何年も、担任ではなくなって、彼が小学校から卒業した後になっても、毎年1月には近況報告の年賀状が我が家に届いた。ある年、彼が高校生になったときの年賀状には「先生が僕にエールを送ってくれたこと、忘れません」と書かれていた。
自分のしたことが、こんな風にまわりまわって、いろいろな人の笑顔になる。ああ、いい仕事だな、とそのとき改めて思った。大変な仕事だったけどね。
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