ゼロ年代と、それ以前のシンギュラリティ── #3 大槻ケンヂ 『人として軸がブレている』
特別、筋肉少女帯や大槻ケンヂを聴いていたわけではないけれど、
僕をサブカルへ誘ったのは、ブックオフの100円棚で見かけた、このエッセイだったかもしれない。
なぜか興味をひかれた、 "大槻ケンヂ"の文字
この本の紹介を前に、少し自身の読書遍歴から語りたい。
高校を卒業した18歳の春、僕は浪人生だった。
予備校に通う浪人生ではなく、自宅や自主的に勉強するいわゆる宅浪生。
予備校に通っていないため、時間はその分多くあって、何か趣味を始めたいと考えた。
最初に思いついたのが、読書。それまで読書は殆どやっていなかったが、高3の頃に図書委員は務めていた(経緯は、委員を決める際のじゃんけん負け)。
当然乗り気ではなかったが、図書の先生と親しくなる機会があり、話の中で「あなたは本を読んだほうがいい」と言われたことがあった。
こんな勧めもあって、この際、宅浪生で時間もあるため、色々な本を読んでみようと思い立つ。
そのときは、バイトをやっていなかったため新品の本を買うお金を持ち合わせていなかった。かといって、市の図書館に行っても興味をひくタイトルも見当たらない。
そこで、ブックオフに行ってみた。一番安価な100円棚のコーナーの本ならば、ある程度の冊数を買うことができる。
とりあえず、名前を知っている作家を手にとってみることにした。
その中の1人が、大槻ケンヂだった。
大槻ケンヂの名は知っている。ビジュアルも思い浮かんだ。見た目の割に白髪で、顔にヒビのあるメイクをしている、ちょっと変わった見た目のミュージシャン。
作家活動も何となくだが存じていたため、特にタイトルが気になった、このエッセイを読んでみることにした。
人として、軸が何本もあった彼の魅力
改めて振り返ると、僕は自嘲的でハイテンションな人物に思い入れが深くなる節がある。
『四畳半神話大系』の私、『N・H・Kにようこそ!』の佐藤、『さよなら絶望先生』の糸色望など(後者の二作は、大槻ケンヂが音楽に携わっている)。
そんな上記の作品と同様に、「青春を後ろ向きに駆け抜けろ!」な大槻ケンヂの言葉には、当時の僕を勇気づける魔法がかかっていた。
自身の事や音楽業界の裏話など、猥雑で未知の世界を語る彼の話に、すっかり夢中になった(話のネタの半分も分からなかったけれど)。
雑誌「ムー」に登場する幻獣ムベンベを追ったり、HIDEとのニルヴァーナセッション、性欲衰退で精神医学書を読む話など。
ミュージシャンでありながら、音楽の話が少ない。いや、音楽の話の方が少ない。
アルバム制作に精が出ず、プロレスやムー、UFOやオカルトを語り続ける。読者からするとミュージシャンとして軸がぶれている、と感じてしまう。
だが、大槻ケンヂは「人として軸がブレている」と堂々と胸を張って公言している。
怠惰でのらりくらりな、自分をさらけ出せる大人の格好良さがそこにあった。
大槻ケンヂの話は、例えるなら、旅行好きなおじさんが久しぶりに帰ってきて、現地の話を子どもたちにしてくれる感覚に近い。
よく分からない話もあれど、それでよかった。
むしろ、それがよかった。
もし、このエッセイがカルチャーの解説や説教な啓蒙的な本だったらどうだっただろう。
サブカル全体に対し、良いイメージは抱いていなかった気がする。実際、それまではサブカルを愛する類の人の印象はあまり良くなかった。
初めて積極的にふれたサブカルへの導き手が、大槻ケンヂだったのは幸運だったと思う。
大槻ケンヂの話は、浪人生だった僕には、手に入れられなかった空白の一年に、未来を埋め合わせてくれた。
思い出に眠っている作品たち
ゼロ年代と、それ以前のシンギュラリティ── を連載するにあたり「自分が影響を受けたものはなんだったろうか」色々と振り返っている。
このエッセイが占める自身の感性のウェイトはそこまで大きくなく、ふと思い出して今の執筆に至る。
ただ、こう書き出してみると、いかにこのエッセイが感性の価値基盤を築いたか気付かされた。
人生の節目にはなった出会いは思い出せるだけでもいくつかある。しかし、自分の中にはこうした思い出の奥底に眠っている作品の方が、多く存在しているような気がする。
久しぶりに、昔ブックオフで買った100円本を本棚から掘り起こしてみようと思う。
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