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「調理場という戦場」資質がないのだから、やりすぎぐらいが当たり前のはずだ

フランスで料理の修行をした、というのは今では割と珍しくないのかもしれない。この本は1973年に単身フランスへ行き、言語・人種・文化の壁にぶつかりながらも、耐え抜いて料理人として覚醒していく話を追体験できる。これは生きてるビジネス書だと思う。

料理人としての心構え、ではなく、どの業種にもあてはまる仕事への向き合い方、哲学を教えてくれる。近道をしない。初心を忘れず、おごらず、売上や名誉に流されることなく普遍的に働く。向き合うのはお客様だけ。

読んでいて、大人の文章なのに、少年が書いてるような純粋さがあり、心がすがすがしく洗われたような気持ちになった。

すべてにいらだっていたこの頃のパワーが「若さ」だったような気がします。このいらだちを、まっすぐいつまでも持ち続けていたいと、今も思う。

満たされていない時ほど怒りがわきおこり、それがパワーになっていた。僕もそうだったなと思う。なんでかわからないけど、もうれつに怒りが込み上げてくる。できない自分に対してなのか、認めてくれない周りに対してなのか。その怒りを開発にぶつけ、ひたすらモノをつくったり、修正したりしていた。

ぼくには資質がないのだから、やりすぎぐらいが当たり前のはずだ。「やりすぎを自分の常識にしなけりゃ、人と同じ水準は保てまい」というぼくの仕事への基本方針は、この時からはじまったように思います。
やりすぎるとはいっても、何も悲しいことはないはずです。料理をやり続けることは、ただ単に自分のためなのですから。

僕も自分が頭がいいと思ったことは一度もなく、みんな頭がいいな、すごいな、という劣等感はもっていた。頭ではわかっているつもりでも器用にこなせない自分を恥ずかしく思ったこともあった。

だからこそ、人より時間をかけてやらないと追いつけないと思った。朝から夜中までやって、家でもやってたけれど、まったくきつくなかった。

ひたすら十数年この仕事をやり続けると、頭ではなく、体で覚えてしまったことに気づく。若いうちに大量に仕事をしていてよかった。それがいまの自分を支えるベースになっている。足腰が強くなった。

そして、最も大切な「アイデアを実用化できる生産ラインを作ること」には、一〇〇ぐらいの力を必要とすると感じています。  アイデアは、実用化なしでは生きられない。

自分でプロダクトをつくってきてこれは本当にそう思う。アイデアを具現化するときに、いろんなことを考えだすと、単純だったものがどうしても複雑になってくる。実現できそうだな、と思ってたことが難しく感じてくるもの。

つまり、人生に近道はないということです。 まわり道をした人ほど多くのものを得て、滋養を含んだ人間性にたどりつく。これは、ぼくにとっての結論でもあります。技術者としても人間としても、そう思う。

コツやショートカットをみつけたがってしまうものだけど、自分でひとつひとつ試しながらやっていくしかない。

だれにとっても、いつでも大なり小なり壁はあります。そこで立ち止まるのか、1ミリづつでも削っていくのか。ずる賢くならず、子供に誇れるような仕事をしていこう。


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