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不幸なわたしが好き
精神科で処方される精神薬を飲むことに抵抗がある。といっても、「精神薬なんか飲んだら廃人になってしまう!」というような考えが理由ではない。
ひきこもり、落ちぼれて、生産性がなく、死にたくなっている不幸なわたしが好きだから精神薬を飲まないのだ。
わたしはこの状態を「寝そべり族」と自称している。中国の(大卒)若者の間で「タンピン(寝そべり)族」というのが流行っているそうだ。これがわたしを触発した。タンピン(寝そべり)族とは……
近年中国では過当な受験戦争など競争社会としての在り方が過熱しています。それに嫌気が差して、労働や結婚、消費といったお金や努力を要することを忌避し、自分が日々だらだらするだけの日々を送るために、最低限のお金を稼ぐ労働だけをして生きるという若者が出てきました。このような生き方をしている人々が、寝そべり族といわれています。
この考え方、生き方の源流は老荘思想にあるだろう。
「無為自然」を善とした老子の教え。為すこと無く、自然(世の流れ)に身を任せて生きることを善とした教え。
わたしはタンピン族および老荘思想に深く共感する。
頑張って働いてお金を得て何になるのだろう?
結婚することはいいことなのか?
子どもを産むことは子どもにとって良いことなのか?
この世の良くないことはすべて、人の持つエネルギッシュさに起因している。ルーマニア出身の思想家であるシオランは、「行為の否定」である「怠惰」を高貴な悪徳と説いたが、その論理の中で、行為があるから殺人などの悪行が起こるのだと言った。人類みな怠惰であればユートピアさえ創れるのではないか?
わたしは老荘思想やシオランの思想を援用し、現状を肯定しようとしているが、とどのつまり、わたしは社会不適合者なのだろう。
「頑張りたくない」と思うのは間違いなのか?
怠惰であるのは間違いなのか?
精神薬を飲んでまで社会に適合する必要などあるのだろうか?
ここで本音を吐き出そう。
「不幸なわたしが好き」なのは、怠惰の対極である「行為」の末の結果が怖いからなのだ。
努力(行為)して結果が出なければ、その原因はすべて「わたし」に帰される。それは、「わたし」という存在の無能力さの証明であり、わたしはそれを恐れている。
「結果は個人の能力だけでは決まらずに、環境やそのときの運によって決まる」というすべてを知ったような人もいるだろうが、思考が凝り固まったわたしにはそのような”正論”は届かない。
”行為をすれば結果が随伴し、結果によってわたしが評価される”
このことが怖いのだ。
わたしの無能力さが露呈することを恐れているのだ。
わたしはプライドが高い。ちっぽけなプライドをこの世で最も価値のあるものとして捉えている。
だから、精神病だから、本気を出していないから、わたしは「見かけ上」ダメ人間なんだ。
本気を出せば、わたしはスゴイ人間になれると妄想して、日々をベットの上で寝そべりながら過ごす、これがわたし。
今日は何をしよう。
こんなことを考えても、わたしにある選択肢は「寝そべること」だけだというのに……。
こんな不幸なわたしが大好きなのです。
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