見出し画像

廃墟とピアノ

とある秋の日、わたしはある人を訪ねる為に無機質なコンクリートで覆われた道路を歩いていた。先程まではいかにも都会だと言わんばかりのビルが乱立していたが、この道路にはいつの間にか木々の木漏れ日が差している。陽が遮られた木陰にいた私は、冬を思わせる冷たい風を感じていた。いや、冷たいと言っては語弊がある。どこか暖かく、柔らかい風でありながら肌を冷やす風といった方が正しいだろうか。道路の舗装も段々と崩れてきている。足元が徐々に不安定になった。石や砂が露出し始めた。思ったより勾配の激しい山道だと感じた。やっと目的地についた私は、私の訪ねた人と取り留めもない話をした。ついにはとうとう夜に入った後、やっとその人の家を辞することにした。また会おうという約束を取り付けて。さて、行きは木漏れ日を受けた山道が、今度は月の光を浴びている。一段と寒くなった風に小走りで歩こうとした、そんな時だった。誰かがピアノを打った音がした。いや、ピアノを打った、というより触ったような、そんな音である。どこから...?見渡すと、右手に崩れかかった一軒家が見える。私は奇妙な感覚に襲われた。朽ち果てたその家は、大きいながらどこか小さいような、だがそれゆえに大きいような...そんな感覚を私に呼び起こした。壁の隙間から流れる冷たい風が私を現実へと引き戻した。無機質なはずの壁は、苔や蔦が茂り、むしろ有機的に見えた。不思議と温かさを感じた。私は、そこに踏み入ってみたいという欲望を抑えることができなかった。人の気配はしなかったから、おそらく空き家だろう。少しくらい踏み入ったところで、なんのお咎めがあるものか。枯れた葉が茂る扉を押し開ける。ギイイイイという鈍い音がした。さて、あの音を出したピアノはどこにあるのか...足元には苔と何やらよくわからない植物が生い茂っていて、時たま私の足を引っ掛ける。何度も足を取られて転びそうになった。ふと見ると、何に使うのかわからない安そうな椅子の上に苔と植物の枝が散乱している。一種のジオラマのように思えた。腰掛けてみようかと思ったが、あの椅子は何か完成された一つの作品のような気がして触れるのは畏れ多かった。おや、こっちの部屋には使いかけのミシンが置いてある。古風なミシンだ。それを乗せる机の塗装は剥げ、木面が露出している。しかし、朽ち果てて動かないはずなのに、何故か動き出しそうな...馬鹿げているが、何かそんな生命力を感じたのだ。よりによってこの廃墟のようなところで。その時だった。またあの時聞いたピアノの音がする。天井の隙間から漏れる月の光に導かれるように、私はとある部屋の扉を押し開けた。あった。ピアノだ。桃色、水色、薄黄色などの譜本が周りに散乱していた。それに加え、崩れ落ちた天井の一部や何かガラスの欠片のようなものまで、めくるめく月の光を浴びていた。ピアノは弓なりに歪曲し、鍵盤の象牙も光沢を失い、蓋の漆も剝落していた。特に脚には意思でも持ったかのようにうねる一筋の蔓草もからみついていた。
「このピアノ、音なんて鳴るのか...?」
その刹那、私の疑問を払拭するかの如く、ピアノはまた音を発した。しかし私は驚かなかった。のみならず微笑が込み上げるのを感じた。天井から垂れる大粒の水滴が、ピアノを濡らしている。水滴が音を鳴らすなんて。ピアノは今も月の光に白じらと鍵盤をひろげていた。またしても私には触れることが憚られた。自然が創った情景に人が手を加えるなど馬鹿馬鹿しい。そう思い、散らばった譜本を踏まないように気をつけながら植物の生い茂る道を抜けて、私は往来へ戻った。私はもう一度あのピアノの方向へ振り向いた。誰かに知られる必要などない、あの、誰も知らぬ音を保っていたピアノの方向へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?