見出し画像

『Is it good?』 〜シンガポールで体験した人種問題〜

シンガポールを歩いていた。

マレー半島の先端にあるジョホール海峡をはさんで数キロ南のところにあるシンガポール共和国は、赤道に近い南国の島国である。
日の出から1時間ほどしか経っていないのに太陽の位置はもう高く感じる。
朝の8時半で、すでに蒸し暑かった。

目の前のバス通りをたくさんの車が過ぎてゆく。複数のバスが来る停留所は、職場や学校に向かう人たちの乗り降りで混み合っている。
通りに面して並んでいる古いビルの1階に食堂が1つ入っていて、5、6組の客が朝食をとっている姿が見える。マレー語でナシ・レマ(nasi lemak)と呼ばれる、ココナッツ・ミルクで炊いた飯の上に目玉焼きをのせ、エビの発酵品で作った辛子味噌のようなものと細切りのキュウリを添えたイスラム式の朝飯を出す店がこの国のマレーシア系の国民に人気があり、この食堂もそのひとつだった。

ここはゲイラン(Geylang)と呼ばれている街だ。
通りを含むこの一帯では、ムスリム(イスラム教信者)の男たちを多く見かける。ソンコ(songkok)という、日本料理の板前の調理帽を黒くしたような彼ら独特のものを頭に被っているので、すぐにそうだとわかる。
ここは、シンガポール建国の当初から隣国マレーシアをルーツに持つ国民が生活している地域で、現在ではマレーシア系のシンガポール国籍保有者だけでなく、はるばるバングラデシュから来た労働者たちの数も多い。

シンガポールの総人口は569万人だが、そのうち165万もの人々が諸外国から仕事のために来ている長期居住者で、地元の人は404万人である。
この国ではルーツや出身で国民を分類し、中国系・マレーシア系・インド系など —「系」で呼び分ける。国民の75パーセントが中国系、次にマレーシア系、インド系の順に多い。
多「系」国家のため、シンガポール政府は仏教、ヒンドゥー教など4つの宗教を国の宗教に指定している。イスラム教もそのうちの1つだ。
隣国であるマレーシアやインドネシアおよび、出稼ぎ労働で来ている滞在者の多いバングラデシュはイスラム教の国である。

東京23区とほぼ同じ広さしかないシンガポールだが、その「系」によって人々の集まる場所に違いがあり、したがって、狭い国のなかでも所々で街の色が変わる。

中でもゲイランは、イスラム文化およびマレーシア色の強い街だった。



そこで、小さなトラブルを起こしてしまった。

何か写真に撮るものはないかとコンパクト・カメラを片手に持ち、ビニール製の日よけ屋根の連なるバス通りのせまい歩道を時折立ち止まりながら進んでいると、少し先に、背中いちめんを覆うほどの大きさの黒いリュック・サックを背負ってフラフラとした足取りで歩いている男の後ろ姿が見えた。背中の荷物がかなり重いのだろうか。
すぐに追いついてしまい、そのまま追い越そうと男の右横を過ぎようとした、ちょうどその時、彼は立ち止まって尻もちをつくような形に崩れ落ち、後ろに倒れた。
≪⁉⁉≫
突然のことで驚いたが、すぐに彼に近づき、両脇に手を差し入れ抱きかかえるようして上体を起こしてその場に座らせてやった。
幸い、大きなリュック・サックが緩衝材となり、後頭部を地面にぶつけることはなかったようだ。他にケガも見当たらない。

だが、意識がはっきりしていないようだった。呼びかけにも応えない。
黒いジーパンとTシャツにゴム・サンダル。顔は色が黒く目鼻立ちがくっきりとして彫りが深い。20代のマレーシア系の男に見えた。そして全体に薄汚れている印象があった。

あたりを見回すと、扉がなく間口の開け放たれたコイン・ランドリーがあった。

このまま立ち上がらせても歩き出せはしないだろうと判断し、まず背負っているリュック・サックを背中から外してやった。それをコイン・ランドリーの入口に並んでいたパイプ椅子の上に置いて、次に、彼を抱きかかえて連れていき、そこに座らせた。

《 Did you drink alcohol?  》
こちらの問いかけに言葉は返ってこなかったが、顔をこちらに向け、片手を挙げ「大丈夫だ」というような意思を示したので、少し安心した。
おそらく、かなり酒を飲んだのではないかと感じた。
歓楽街としてもこの一帯は有名で、以前ここを歩いた時も、カラオケ・パブから朝方になってようやく出てくる客の姿や、通りにあるクズかごに沢山のビールの空き缶が捨てられているのを目にすることがあったからだ。

ケガは無いようだし、ただの泥酔者に思えたので、彼をそこに置いて立ち去ることにした。これ以上、関わる必要はないだろう……



もしかすると、この男は住む家が定まっていないのか、とも思った。
所持品でパンパンに膨らんだリュック・サックの横ポケットから折り畳み傘がはみ出していたので元に押し込んでやり、その男と別れて再び歩き出そうとした時、並んでいるパイプ椅子のいちばん店奥がわに座っていた人物がこちらに向かって話し掛けてきた。

《 !!…(たぶん中国語)…!!》

いきなり中国語らしき言葉を浴びせられ戸惑った。ただ実際のところ、この国では東洋人の場合、まず中国語で話し掛けられることも多い。
意味は理解できなかったが、語気や口調、それに表情と仕草で、何を伝えたいのかが分かった。
《こんな酔っ払いのホームレスに手を貸して何になるんだ! 放っておけばいいんだ! お前のような奴が結局、こういう連中をダメにするんだ……甘やかすんじゃない!》

Tシャツに長めの半ズボン姿の、東洋の顔立ちの中年の男性だった。自分の洗濯物の仕上がりを待っているのだろう。
地元の中国系シンガポール人のように思われた。険しい表情で明らかに怒りを表す大声で話しかけてきながら、泥酔の男を指さしたり、こちらの方にも指を向けて憤懣を表明してくる。


だし抜けにそんな態度をとられたので、こちらも平常心を失い、思わず言い返してしまった。
《となりを歩いていた人間が突然倒れたら、誰であろうと咄嗟に助けてしまうものだろ! 第一、助けたことで、俺がアンタに迷惑かけたのか?!》
日本語で言うしかなかった。

この国のほとんどの人々が英語を理解している。中国系シンガポール人と思われるこの中年男もおそらくは英語を話すだろう。「売り言葉に買い言葉」という表現があるが、中国語でも英語でも構わないが、どちらの言葉も買ってやれる語学力を、こちらは持ち合わせていなかった。

日本語が通じたとは思わないけれど、言い分はおそらく伝わった気がする。
けれど彼は、もうこちらのほうを見なかった。「君にこんなことを言ってもムダだったか……」とでも言いたげな、諦めとも落胆ともつかない表情を浮かべ、首をゆっくりと横に振っていた。
不毛な言い争いを続けるつもりはなかった。相手のほうも、さらに何か言うつもりは無いようだった。

間違ったことをしたとは思わない、だがこの男も間違ってはいないのかもしれない…
そう思った。


ここを離れ、また歩き出すことにした。
パイプ椅子に座っている泥酔男に軽く挨拶をし、歩道に出た。

コイン・ランドリーの真正面のバス通りに、荷台に屋根と幌のついた運搬用のトラックが停まっていた。荷台のハッチは開いており、1人の男がそこから足を投げ出して座っている。

目が合った。
そして、こちらに向かって言葉をかけてきた。
≪…gmjlkdmmnwibmlpifmhdglloacvyedk……hcxysj…………≫

コイン・ランドリーの出来事の一部始終を見ていたのであろう。そのことについて何か話し掛けてきたのだと思うが、意味をまったく理解できない。マレー語?インドネシア語?それともベンガル(バングラデシュ)語なのか?
せめて英語なら少しはわかったはずだが、彼も英語が得意ではないのかもしれない。

好意的なメッセージだったのだと思う。
≪あんなオッサンの言うことは気にするな。あなたは間違ってなかったと思うよ≫
そう言われたのだと勝手に思い込むことにして、その男に会釈した。

すると、
≪From where ?≫
と質問してきた。
≪From Japan≫
と答えた。
≪Is it good ?≫
と、さらに聞かれたので、
≪Good≫
と返した。

具体的に何が「good」かと聞きたかったのか。
日本は良い国か?…という意味か。あるいは日本人に生まれて君は良かったと思うか?…という質問だったのか。
どうでもいい。真意は不明でも「グッド」と答えておいてよかったと思う。

彼は微笑んだ。
そして車の荷台に乗り込んでいった。幌のかかっていない部分から中を覗くと、6、7人の男たちがすでに座っていた。このコイン・ランドリーの前が集合場所になっていて、時刻になったら今日の現場へと連れられて行くのだろう。おそらく彼らは外国から来た作業員だ。

トラックが動き出したので、彼らを見送った。
もう一度「グッド」と口にしてみた。そしてさらに、
《Good luck to you. 》と呟いてみた。


トラックはバス通りを走り去っていった。


(おわり)
〇こちらの記事も是非お読みください






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?