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「ふたりのあいだに在る写真」第3話

「あなたの好きなように、ただ、私を撮るだけでいいから…」— 
自分の姿を、1枚のプリントになった写真として見てみたい。そう願う彼女に、撮ってもらえないかと頼まれた5日前の夜 — あのときから、時間さえあれば、彼女のことばかりを考えるようになっている。
あの日、写真の撮影を頼まれ、少しのあいだ逡巡したが最後には、次の休みの日に撮ることにするよと、その場でぼくは返事をした。その約束の日がそこに迫っている。明日の14時に彼女 — りょうは、ぼくの部屋に来ることになった。


ぼくたちが知りあってから、およそ3か月の月日が経っている。
都心にある印刷会社でルート営業の仕事をしているぼくは、得意先から特別な名刺の印刷の注文を受け、自社の工場にはない「活版印刷」という技術を持っている、ある印刷所に仕事を依頼して、その名刺を作ることになった。不勉強だったぼくは、原稿を持ち込む前に、現場見学のためにこの印刷所を訪れることになる。そこで、活字を組む「植字工」として働いている彼女に初めて会った。
金属の活字を組み上げて、現代主流の印刷方式では出せない、味わいのある印刷物をいかにして仕上げるのかを彼女に見せてもらった。そして、印字する書体とインク・紙の相性についてなど、ぼくの知らなかったことを教わった。
たった1日の、それだけの時間だけで、ぼくは彼女に魅力を覚えた。いわゆる一目惚れだったと言っていい。熱心に仕事をする姿、会話の合間に少しだけ見せる笑顔、仕事中は束ねていたが、別れ際のあいさつの時にはほどいていた、まっすぐに伸びる長い黒髪。
もしよかったら、今度、どこかで、ゆっくり話をしませんか — 誘わずにはいられなかった。
彼女はそれを受け入れてくれた —「いいですね。じゃあ、連絡先をくれますか」。
このようにして、あの日、彼女との関係が始まった。


それから3週間が経ったころ、彼女の勤める印刷所をぼくは再び訪れた。河村印刷(有)には、現場の見学にはじまり、名刺の原稿の受け渡し、完成品の受け取りと、これまでに3度、足を運んでいたが、この日の訪問の目的は、素晴らしい名刺を作ってくれたお礼と、納品後の報告だった。
納品した名刺は、先方にたいへん好評だった。担当者も、そして依頼主「明光自動車販売 増子貴宏」氏も、仕上がりにとても満足していた。実際に使ってみると、渡したときの相手の反応がとても良かったのだそうだ。この名刺のことを知った他の営業社員も同じ物が欲しいと言ってきている、とのことだった。これらのことを事務室にいた社長の河村氏に告げると、彼は喜んでくれた。ありきたりな名刺でよいなら、ネット注文で100枚・1000円で作ることができるこの時代に、値段は高くても、上質な文字・デザイン・紙・印刷の価値をわかってくれる人たちがいることが、ぼくと社長には嬉しかった。


社長との話が終わり、事務室を出て、印刷所を後にしようとしていたところで、ぼくを呼び止める声が聞こえた。
りょうだった。
《こんにちは。こんな時間に、今日はどうしたんですか?》
いまは夕方の06時15分だ。ぼくは来訪の目的を説明した。―  名刺のお礼と報告を社長にしたくてね。午後の得意先回りが早く終わったので、上司に許可をもらって定時前に今日は社を出ることができた。だから、ここに来たんだ。この場所は家までの帰り途にある乗り換え駅から割と近いから…
《そうだったんですね。それはわざわざ、ありがとうございました》
ここに来たのは社長に話があったからで、りょうに会うためではない。河村印刷は、ぼくの仕事の関係先の1つとなった。だから、彼女と知り合ってから以降にここを訪問した時も、ここで彼女の姿を探して無理に話しかけるようなことはしなかった。むろん今日も、会おうとも会えるとも、思っていなかった。
でも、彼女の顔を見ることができて、嬉しかった。
いつもここで見る、作業着 ―  ジーパン・Tシャツにグレーのエプロン姿の彼女ではない。下はジーパンだが、襟付きの白い長袖のシャツに着替えている。仕事が終わり、帰るところなのだろうか。
《今日はもう終わりです。…あの…よかったら、これから寄っていきませんか? 晩御飯つくります。簡単なものなら、すぐにできますから》
そうだった…印刷所の近くに住んでいると、これまで交わした電話かメッセージのやり取りの中で彼女がいっていたのを思い出した。
知り合ってからこの3週間のあいだに2人だけで会ったのは、10日前の日曜の午後の1度だけだった。そのときは、ぼくが誘って、都心の「名画座」で、20年ほど前に作られた日本映画の再上映を観た。そのあとコーヒー・ショップに入り、観た映画のことや、お互いの好きな物についてなどを、取り留めもなく語り合った。
もし今から、彼女の家にいくことになれば、プライベートで会うのは2度目ということになる。


《ほんとに近くなんです。この先の商店街を抜けてすぐなんです。よかったら来てください》
わかった。ありがとう……それなら、これからスーパーか何かに寄っていこうか。ぼくが材料を買うよ。
《大丈夫です。うちにあるもので作りますから、まっすぐ帰りましょう》
ぼくたちは横に並んで歩き出した。
日中は暖かく、春の訪れを感じさせたが、日が沈んでしまい、いまは少し肌寒くなっていた。それでも風が無かったので、気持ちよく歩くことができた。このあたりは静かで、とても暮らしやすそうな感じがした。
《とても気に入ってます。アパートは一度引っ越しましたけど、学生時代からずっと、この街にいます》
いっしょに歩いていると、彼女がこの街を好きな理由が何となくわかってくるような気がした。
《あの角のお花屋さんの上です。ほんとに近いでしょう?》
ここまで歩いて来る途中、目の前に現れる店々 ―  八百屋・古本屋・クリーニング店・パン屋について、それぞれの評判を彼女は説明してくれた。その語り口は少し自慢げで、そして何だか、嬉しそうだった。
《このお花屋さんも良いんです。季節の花が売ってると、たまに、少しだけ買っていきます》
ぼくたちは花屋の角を曲がって、アパートの入口へ向かった。


《玄関、せまいからお先にどうぞ》
彼女はドアを開け、ぼくを先に通してくれた。
履物を脱ぐ場所のすぐ目の前が、まず1つ目の部屋になっている。中央に、自然色の木製のダイニング・テーブルが置かれ、その上には白い笠のペンダント・ライトが吊り下がっている。アパートの廊下に面している壁には換気のために腰窓が作ってあって、それに沿うようにして流し台・調理台・コンロが並んでいる。
《上着、ハンガー掛けとくので預かります。…お酒、飲まないんでしたよね…いま、お茶を出しますから。座って、少し待っててください。すぐに作っちゃいます》
彼女はテキパキと準備にとりかかった。まずは、あらかじめ鍋がのっていたコンロに火を点けた。それから、部屋のすみにある冷蔵庫から透明なボトル容器といっしょに弁当箱大のタッパーを取り出し、ぼくにお茶を出してくれたあと、ボウルのような器にタッパーから何かを調理台で盛り付けはじめた。それが終わると、火のかかっている鍋のとなりのもう1口のコンロで、冷凍庫から出した大きなパンケーキのようなもの数枚を、フライパンで一枚一枚、焼いていった。どんな料理を出してくれるのだろうか。
《バター・チキンです。インドの…。作ってあったんです。それにポテトサラダ。こっちのはロティ・プラタです。食べたことありますか?えっと、カレーのナンみたいなかんじです》
すごい。自分で作ったんだ。
《簡単ですよ。あっ、ロティ・プラタは冷凍のやつを買ってきました。いまアジア食品のスーパーで、けっこう売ってて、シンガポールのインド系の人たちの食べ物らしいです。ロティ・プラタもこんど自分で作ってみようと思ってます》


すべての皿を並べ、ダイニング・テーブルをあいだに、ぼくたちは向かい合って椅子に座った。カレー・スパイスの良い香りが漂っていた。
おいしそう。いただきます。 
《ロティ・プラタは千切って、 バター・チキンのソースをつけて食べてくださいね。ぜんぶ、 おかわりがありますから、たくさん食べてください》
ロティ・プラタというものを初めて食べた。料理はすべて美味しくて、きょう思いがけず会ったにも関わらず、わざわざ自宅で食事を出してくれたことに、あらためてぼくは感謝した。 
毎日こうして、晩の食事を自分で作って食べるのだろうか。
《基本的には家で仕事してるので、作って食べるかな…。でも、出版社との打ち合わせで都心に出たとき、それが夕方だったりすると、食べて帰ってきたりもします。あと週末は、友達と外でゴハン食べたりとか…》
自宅の近くの印刷所で働くことが彼女の本業ではない。りょうがフリーランスのデザイナーであるということを、ぼくは少し忘れていたようだ。


彼女はいま、2つの仕事を掛け持っている。
大学時代はタイポグラフィー(文字の配置と書体のデザイン)を専攻し、卒業後はデザイン会社に入り、制作の仕事に彼女は就いた。そこで6年ほど勤めたあと退職して、フリーランスのデザイナーになった。これまでに培ったレイアウトの技術を活かし、業界紙やパンフレット・ブックレットの制作を主に請け負っているという。
これらの経歴と並行し、ぼくらが出会ったあの印刷所で彼女はアルバイトをずっと続けている。タイポグラフィーの勉強のために大学時代から始めたはずが、活版印刷の活字の魅力に「ハマって」やめられなくなってしまったらしい。今はデザイナーとしての仕事を生活の中心にしているので、植字工のほうは平日のかなり限られた時間だけやっている、とのことだった。
《こんど、わたしが仕事で外にいるとき、都心のどこかで会いませんか?ランチしたり…、夕食でもいいです。ラーメン屋さんとか行ってみたいです。食べたいけど、わたし、1人では入れなくて…》
ぼくはうなずいて、今度はどこか外で食事をしようと約束した。


夕食の後片付けは2人でおこなった。
《いま、コーヒーいれますね。あっちのソファーで待っててください》
となりの部屋が、彼女の仕事場になっていた。ディスプレイ用モニターとノートPCがのった作業机と、丈夫そうな本棚が、一面の壁に置かれていた。文字デザインやレイアウトについての本やデジタル編集ソフトの技術書、芸術書や美術館の展覧会の図録が棚に並んでいる。ベランダの窓に近い隅に据えられた2人がけのソファーに腰掛けて、りょうがコーヒーをいれてくれるのを、ぼくはしばらく待っていた。
《お待たせ…。こっちの部屋は散らかってて、すみません。午前中、仕事して、そのまま河村さんの所にいったから…》
ソファーの前のロー・テーブルに、2つのマグカップとミルク・ピッチャーを置きながら、彼女は言った。そして、本棚の前にあった背の低いスツールをこちらのほうに持ってきて座り、ロー・テーブルを挟んで、ぼくたちは向かい合った。
《この花、かわいいと思いませんか?下のお花屋さんで買ったんですよ。この真っ白な花びらが、黄色い真ん中のめしべをフワッと包むようになってて…なんだか、中世の貴族の女性が着るゴージャスなドレスの首もとみたいでしょ?》
ロー・テーブルの上に置いてあった、ガラス製のタンブラーのようなものに挿してある花に触れながら、りょうが言った。
《 “カラー” って花なんです。最初はもっと、茎がスーっと長い状態で、3本くらいでまとめて飾ってたんですけど、日にちが経って元気がなくなってきたんで、1本だけ茎を短くして、こうやってお花ひとつだけで置いてみたんです》
ぼくの知らない、美しい花だった。
自分はもちろんのこと男性一般は、自宅の部屋に花を飾ることなど、あまりしないものだ。そのことを考えたら、ほんの3週間前に知り合ったばかりの女性の部屋に、いま自分がいるという事実に気づかされ、ぼくは急に動揺をおぼえた。


 —  りょうさんは、年下だけど、おれなんかよりずっと、しっかりしている感じがするね。
《あの…、そろそろ、りょうさん、ってやめてもらえますか。できれば、りょう、って呼んでください》
なぜか笑いながら、そう言った。「りょうさん」と呼ばれるのが以前から嫌なのだという。2010年代まで約40年間も少年漫画雑誌に連載が続いていた有名な人気ギャグ漫画の主人公の男が「両(りょう)さん」という呼び名で多くの人に親しまれており、それと同じだと、ずっと周りから言われてきたことが理由だそうだ。
《 りょう、って名前は好きなんです。漢字の「すずしい」って書いて、涼、なんです。だから、りょう、でお願いします》
わかった。これからは、そうさせてもらうよ。


それから30分ほど話をしていただろうか。
《コーヒー、またいれてきます》
2つのマグカップを持って彼女が立ち上がった。
―  ありがとう。でも、今日はこれで失礼しようと思う。
ロー・テーブルに残っていたミルク・ピッチャーをつまみ上げて、ぼくも立ち上がった。
《そうですか…。こちらこそ。突然お誘いして、すみませんでした》
ふたりで、となりの部屋の流し台のほうへ向かった。


シンクの中に2つのマグカップを彼女は置く。赤い丸印の付いた蛇口の栓をひねって湯を出す。ミルク・ピッチャーを受け取ろうとして、横にいたぼくのほうに彼女は体を向ける。
手に持っていたミルク・ピッチャーを手渡すと、ぼくはそのまま彼女の両肩に手を置いた。
目の前にいる彼女の2つの目が、こちらを見上げている。ぼくは少し膝を折り、上体をかがめて、彼女の背中に両手をまわし、抱きしめた。彼女の腕が、ぼくの脇腹から背中のあたりに触れてくるのを感じた。
《あの…、すみません》
ぼくは慌てて体を離す。
《ちょっと待ってください。これ、置きますね》
はにかんだ笑みを浮かべながら、手に持っているミルク・ピッチャーをシンクの中に彼女は置いた。そして再び向き合い、ぼくたちは初めてのキスをした。


これだけでは、ぼくは気持ちが抑えられない。
いちばん上のボタンがあいている、彼女の白いシャツの胸元に、ぼくは両手を持っていく。2番目のボタンに指をかけ、外そうとした。だが彼女は、動くぼくの右手首を掴んだ。
《…ごめんなさい。今日はやめてください。もう少し、待ってください…》
ぼくも謝った。ごめん…
流し台の前で、向かい合ったまま、十数秒が過ぎた。ぼくを見上げていた目が、やや下を向いた。泣いているように見えた。


クローゼットの中に掛けてもらっていたスーツの上着を受け取って、袖を通した。―  今日はほんとうにありがとう。ごちそうさまでした。
ドアのほう向いて、かがんで靴を履き、それから中へ向き直った。
《駅まで一緒に行きます》
もちろん、ぼくは断わった。とんでもない、ここでいいよ。
玄関ドアの前のスペースは一段低くなっているので、部屋の床に立っている目の前の彼女とぼくの頭の位置の差が縮まった。
《そうですか…じゃあ、気をつけて帰ってください。おやすみなさい…》
ぼくたちは、もう一度、キスをした。


いまから2か月と少し前の、彼女とぼくの、はじまりの夜だった。


(つづく)↓




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