地域との繋がりを写真に残すのも良いかもしれない。【僕の写真と叙情】
地域との関わりは何気ないもの
様々な微細な繋がりを辿って〝とある地域〟に漂着してから数年経つ。
その地域と出会ったことを思い出すと、我ながら〝漂着〟という表現がよく似合う。住んでいるわけでもないし、その地域がぼくにとってどんな場所なのか未だに定まっていない。本当に、漂っていたら辿り着いたぐらいなのだ。
たかが数年、されど数年。その地域に足を運び続けていると、なんだかんだその地域の人には良くしてもらうことがあり、その度に何かお返しをしなければと思い行動を起こす時もある。たとえば、その地域で大切にしている場所の保全活動みたいなものに参加したりとか。
世の中には〝地域交流〟とかその先にありそうな〝地域貢献〟とかって言葉があって、そういった活動に関わっている人を見ると純粋に行動力があって凄いと思う。
それらと比べる必要は無いものの、その地域に対するぼくのそれは貢献はおろか交流してるかすら分からない曖昧なものだ。
曖昧でも繋がりは続いている。ぼくにとって地域との関わり方はそのぐらい曖昧で何気ないものでも良いのではないかと最近は思っている。
焚火と凧揚げとご飯
地域との繋がりと言うと、今年の正月辺りは珍しくその地域に足を運んだ。
ある日、その地域に住む知人から「正月らしいことをするから時間が合うなら来ないか」と連絡がきたので行ってみることにしたのだ。
当日、自治会館のような場所に足を運ぶとすぐに地元野菜での料理作りが始まり、ぼくと同じように誘われ自治会館へ来た子ども達は凧揚げを、大人達は焚火をしながら談笑を楽しんでいた。
ぼくは料理作りを手伝いながら、知人から「カメラあるなら記録をお願いしてもいい?」と言われたのでスナップ気味にパラパラと撮影していた。
思えば、カメラマンでもないし「写真を撮影しますね!」とはつらつと言える心構えも無い。おまけに本来は人物撮影をしない。そんな言い訳を心の中で重ねた結果、集まりの光景を盗むように撮ってしまっていた。
その行為についての良し悪しはともかく、見返すと人の自然な表情や動きを撮影できた気がする。人物を撮影するならかっこよさとか可愛さとかを演出するのもいいのかもしれないけど、自然体ってこういうことなのだろうか?と思った。
料理の準備が一段落したのでぼくも焚火ゾーンへ。焚火ドラム缶に木材や枝を入れ、ただ燃やす。ドラム缶の中で木々が時折ぱちぱちと音を鳴らし、手のひらを少し近づけるとほんのり暖かい。
少し前に焚火をしているだけの動画が落ち着くみたいなことが話題になっていたけど、実にその通りだと思う。色々考えながらも自然にぼーっとできるというか、ぼーっとするのを楽しめよって言われているような気分になれる。
そんな流行に身を任せようとして、よく友人と焚火だけを目的にキャンプにでも行こうと話すことがあるが、未だにキャンプへ行ったことはない。
もうそろそろ実行してもいいのかもしれない。
子ども達が夢中になっていた凧あげでは、風が強かったこともあってかひらひらと空を泳ぐように凧があがっていた。
途中木に引っ掛かってしまうアクシデントに見舞われた一枚目の凧は天命を全うしてしまったけど。
ぼくはその引っ掛かった凧がその後どうなったのか知らないので気になる(おそらく終わった後に誰かが回収してくれたと思う)けど、子ども達は次なる凧を相棒に空に泳がせて楽しんでいた。
料理を食べながら、空に浮かぶ凧を見ては、焚火を楽しむ。やってることはそこまで大袈裟なことではないかもしれない。
でも、そういうちょっとした地域との繋がりだからこそ写真や文章として色々と記録に残したいと思える日だった。
ふわふわな写真たち
余談として、写真的な話で言えば、ぼくなりに地域との繋がりを撮影しながらふと思ったことがある。
普段の編集の雰囲気では地域との繋がりを形取った写真は合わないのではないかと。
ぼくの普段の写真編集と言うと、ゴリゴリにコントラスト強めで印刷したら破れそうな編集をしている。何故そこまでするのかと問われたら、ただ好きだから。
その雰囲気はどちらかと言えば良くも悪くも冷たい感じだと自分では思っているので、ぼくの体感だと冷たさを感じない地域の雰囲気とちょっと違うなぁと。
編集作業は自宅に帰ってから行うにせよ、身近な地域というローカルな関係性に合う編集も撮りながら考えつつ、帰宅後に写真をいじっていると結果的に普段よりも柔らかい〝ふわふわ〟とした写真になった。
今後、また何気なく地域との関わりを撮影することがあればこの〝ふわふわ写真〟で地域の良さも表現出来たらと思う。
今回はここまで。
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