万年筆

海を描きたくて、万年筆を買った。
しらじらしく冷たいそれをポケットの中で転がしながら、夜と朝の境目を歩く。
"ぼう、…ぼう"

氷の色をした36.5℃が冬を編む紺色に分け入って、消える。
その断末魔は微かすぎて
月明りの啜り泣きにすら、かき消された。

海は遠い。夜明け前は特に。
ここまでは急いで来たが、これより先はそうもいかない。
寝息をたてる心臓を起こさぬよう
しずかに
しずかに歩かねばならない。
道中、若い男女とすれ違う。
黙って、騒がしく
寿命の迫る夜を蹴立てるのを横目に見ながら
万年筆をくるりと回した。
「単純な話さ、非常にね」
くたびれた金糸雀が嘴をかちかちと鳴らす。

開いた喉の隙間をついに潮風が満たすころには
月は疾うに歩き去っていた。
ほそく
ながく
息を吐くと
…私は足元を見た。
そこには、黒光りするうつし世があるだけだった。
「悲しい、とても悲しい話だ」
かつて肺の形をしていた霧状の私だけが、
波音に柔らかく千切られて、宇宙へと溶けていく。
ふと
ポケットから万年筆を取り出し、投げる。
驚いた金糸雀が弱々しい羽音を立てて飛び去った。

道具がぶつかる音はもはや
どこにも。

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