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前世の君みたい



先日友人が、「前世の君みたい。」
と教えてくれた物語がある。

その本はリディア・デイヴィスという
フランスの作家が書いた短編集で
その物語は私小説のようなエッセイのような
そんな感じだった。


その友人に

「どのあたりがそう思ったの?」

と聞くと

「主人公と君の魂が似ている気がする。」

と言った。

(友人は私のことを名前で呼ぶときも、
あだ名で呼ぶときも、君と呼ぶときもある。)


読んでみたいなと言っていたら、
数年ぶりに再会する予定があって、
そのとき読んでと本を借してくれた。

読んでいるうちに、笑みがこぼれてしまう。

たしかにこれは私だろうと思う心情描写だったから。

そのころの私は四六時中考えてばかりいて、考えすぎる自分にうんざりしていた。他のこともしたが、それをしているあいだも考えていた。何かを感じていても、感じながら自分が感じていることについて考えていた。自分が考えていることについて考え、なぜそれを考えるのかまで考えずにいられなかった。

「ほとんど記憶のない女」より「大学教師」
著:リディア・デイヴィス


こういった具合で、まさに私だと思う。


私は考えるのが好きだ。

まず自分がこれについてどう感じるか考えて、次に接し方を考えて、それからその接し方が周りからどう見えるか考えて、パターンをいくつか考えて、それがちゃんと自分の素直な気持ちと相違がないか考えて、ときに飛躍した甘くきらめいた考えに飛んで、また現実に戻ってくる。


ほんの些細な、たとえばカフェでどの席に座ろうか見渡すときとか、歩いているときのスピードや姿勢や表情や目線とか、意味がよく分かってない言葉を聞いて意味を調べてどうやって使おうと思うときとか、

そんなひとつひとつを常に考えている。

こんなに考えているのに哲学者にさえなれないなんて、哲学者になる人はいったいどれほど考えているのだろうと思うと、哲学者は宇宙かもしれないと思う。



または、主人公が惹かれてあれもこれもと並べる情景がどれも、私にとっても魅力的だと思う。

私は西部のむずかしさを気に入っていた。まず季節の移りかわりを知ることのむずかしさを好きになり、ついでに目に入る風景に美を見出すことのむずかしさを好きになった。最初はまず、だだっ広いハイウェイが谷を突っ切っていたり、地肌がむき出し山の斜面に真新しい巨大な建物が点在していたりする西部特有の風景の醜さに目が慣れた。そのうちそれを美しいと感じるようになり、乾いた季節の殺風景でのっぺりとした山々の茶色や、わずかに湿気の残っている山襞のあわいにしがみつくように生える草や灌木や花々を好きになった。あっけからんと広い海を、それに向き合ったときの胸の空っぽになる感じを好きになった。すると、美しさに気づくのに苦労したぶん、こんどは離れがたくなってきた。

「ほとんど記憶のない女」より「大学教師」
著:リディア・デイヴィス


私は大学進学で沖縄から北海道に来たので

環境に馴染む難しさ、
いままで触れて来なかった美しさ、

それは大抵は冬の雪深さであったり、
四季で移り変わる景色や空気であったり、

に初めは見慣れずに苦労したのに、時間を重ねるにつれて私に馴染んで愛着になった。


西部と北海道では、まるで環境は違うけれど、

それを友人が「前世」だと表現したセンスがあまりにも洒落ていて、きゅんとする。


ちなみに、この引用は「〜たり、〜たり」などと例示を重ているのだけれど、この情景描写は私の文体と何となく似ているのも驚いた。
そこまで似ているのは、すこし怖い。

読みながら伝わってくれたら嬉しい。
私も同じように書くことが多いから。



あともうひとつ、
主人公が求めているものについて

いっときも休むことなく動きつづけ、一つのところを堂々めぐりし、何かについてに考え、その考えについても考えてしまう私の頭は、カウボーイの頭の中身に触れた瞬間、何かとても穏やかなものと出会うにちがいない。それはきっともっと余白が多くて、広々としたスペースにあふれている。

「ほとんど記憶のない女」より「大学教師」
著:リディア・デイヴィス


私にとってのカウボーイが、友人らだと思うのは過言ではない。


私はときどき、自分の潜在意識の深い部分を覗こうとしては、その得体の知れなさにもどかしくなることがある。

これが分かればもっと上手く生きられる気がするのに、重要な部分が分からない。
浅瀬の岩や珊瑚の形やそこに見え隠れする魚にばかり目移りしていて、水深があるところを潜る知識や教養や強さがないことだけ知っている。

(いま書いていてモアナを思い出した。)


でもこうして、友人がすっと、なんでもないように私に渡してくれる言葉や歌や物語が光芒のように心に差してくる。


前に書いた記事でも、ある友人は私の複雑な気持ちや考えを良い意味で単純にしてくれて、私にとって救いだった。

物語の主人公にとってのカウボーイのように。



それにしても、

「余白」

というものが考える人にとって大切であることに、私は最近気がついた。

考えることは絶え間ない。いつも散漫している私の頭は、心も立ち振る舞いも私の豊かさを誤魔化して、喜びや嬉しさに緩む顔を神妙にさせる。


だから最近は、私の2割はまっさらな余白だと思って過ごすようにしている。
私のところへ来た人やかけられた言葉を、その余白に書くようにしようと思っている。

自分を失わずに、私の周りを受け止められる余裕になるだろうなと思って。



また大切なものがひとつ増えた。
大切なものの半分は友人がくれるものだと思う。
歌や本や映画や、もっといろいろ。

私は人がおすすめしてくれたものをすぐに見て聞いてやってみて好きになるところがあるから、影響を受けやすいなと思う。
私の良いところで、柔らかく強かににはなれない弱さでもある。


でも、私の心の片割れが、本や歌のなかにいる。

友人が見つけてくれる私の片割れが、友人の心を温められるような、美しい人間でありたい。



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