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「苦役列車」読書感想文

先日(かなり前に書き溜めておいた記事を投稿しています)、西村賢太氏の訃報をテレビのニュースで耳にした。テレビ画面に映るその顔も名前も、彼の代表作である「苦役列車」も、聞き覚えがあるが、10年近く活字離れしている私は、芥川賞を受賞した際になんだか話題になっていたことしか知らない。

鬼籍に入ったばかりの人に対して興味を抱くというのは、スキャンダルに群がる野次馬のような気がして憚られたが、どこかで聞いた、「人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ」を思い出し、「どんな人物だったのだろう」と思いを馳せ、著書を読むことで弔えればと思い、訃報を聞いたその足でブックオフへ向かい、皮肉にも100円均一コーナーに陳列されていた「苦役列車」を大事に抱えて帰路につく。

あらすじ

これは私小説なので、主人公貫多はほとんど著者の若い頃なのだが、率直に言うと、私生活でもしこんなが奴いたら絶対関わりたくないレベルのクズだ。
父親が性犯罪で逮捕されて以降、貫多は15歳から一人暮らしを始め、日給五千円程度の日雇い労働で何とか食いつないでいる。そのわずかな給料も、瞬く間に酒と女に消え、家賃も払えず住まいも転々としている。19歳にして最底辺の暮らしをしている。

そんな貫多のわずかな社会との接点である日雇い労働で、同い年の日下部と出会う。日下部は貫多と違ってごく一般的な家庭環境で育ち、筋肉隆々、仕事の要領も良い。中卒の寛太と違って専門学校に通い、おまけに彼女もいる。大多数の同世代が送る月並みの所謂「青春」(=それは若い貫多の最も妬み憎み憧れるもの)を送っている日下部に、卑屈な貫多は嫉妬しないわけがない。しかし明朗快活な日下部はそんな貫多に気さくに話しかけ、彼らは次第に意気投合し、仕事の後は飲みに行くような仲となっていた。

久しく友のいない孤独な生活を送っていた貫多にとって日下部は、世間の大抵の同年代が当たり前にその恩恵を受けている「青春」の喜びをかみしめることのできる、貴重な友だった。しかし日下部とその彼女と3人で酒を飲みに行った際、ひとり泥酔した貫多が彼らに罵声を浴びせたのをきっかけに、2人の距離は遠ざかっていき、貫多はまたもや友も女もいない孤独な生活に戻っていくのだった。

感想

なんかこの本臭う。

奇しくも西村氏の4日前に他界した石原慎太郎氏は、本書の「解説」の中で以下のように述べている。

西村氏の全て作品は、ろくに風呂にも行かず顔も洗わず着替えもせずにいる男の籠った体臭をあからさまに撒き散らしていて、その心身性には辟易する読者もいるに違いないが、しかし有無言わさずこれが人間の最低限の真実なのだといいきっているのがえもいえぬ魅力なのだ。

出典:西村賢太. 苦役列車. 新潮文庫

石原氏の言う通り、のっけから、男臭く、陰気臭い、2ちゃんねる風に言うなら、「なんかこの本臭う」。初めの1ページ目で、金も友も女もなく、孤独で最底辺の生活を送る日雇い労働者の臭気に圧倒される。
この本を読んでいる感覚はまるで、有名デパートから漂う、あらゆる高級ブランドの香水が入り混じった、”金持ち”の権化みたいな匂いが充満する銀座駅の地下通路で、動物園のような臭いを漂わせて横たわっている浮浪者を横目に彼らがなるべく視界に入らないように足早に通り過ぎる時の感覚に似ている。世間から黙殺された社会の肥溜めに、貫多はぽつり存在している。

不遇な境遇がそうさせたのか、先天的にそうなのか分からないが、貫多は世間のあらゆる事象、人間、特に同世代の人間、今の言葉で言うと”リア充”への嫉妬と劣等感の塊であり、それを半ば開き直って、そしてもう自分ではどうすることもできなくなって、苦役のレールに身を任せている。
貫多は潔いほどクズであるが、完璧なクズではない。文句ばかり垂れて勝手に卑屈になり、世の中を諦観して何もしない矛盾、バカなくせしてプライドが高いところ、他人に対して攻撃的にもかかわらず、常に孤独を意識せざるを得ないところ、そういった自己矛盾は、貫多に限らず人間の誰しもが抱えており、それをありありと見せつけられている。まるで録音した自分の声を聞いている時のような、そんな恥ずかしさがある。

それでも読み進めたくなる不思議

そんな陰鬱で救いようのないストーリーであるにもかかわらず、読者はページをめくる手を止めない、むしろそれは早まっていく。西村氏の軽快かつ淡々とした書きぶり、そして「貫多はどこまで落ちぶれるのだろう」といった”怖いもの見たさ”を誘うような表現、それが、西村氏を芥川賞作家とならしめた所以なのだろう。
そんな西村氏の仕掛けた罠に嵌っていることに気づいた私は、「人間はみな臭くて醜いものなのだろう」と気づかされるのだ。

貫多、もはや西村氏の自己矛盾は、「苦役列車」とともに本書におさめられた「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」でさらにリアルに描かれている。

「苦役列車」で描かれているように、貫多は厭世的で世の中を諦観し見下しているが、そんな彼の本音が述べられている。

彼は文名を上げたかった。
達観することにより、いくら自分の心に諦めを強いたところで、また何をどう言い繕ってみたところで、やはり川端賞受賞の栄誉だけは何んとしてでも担いたかった。(中略)
無論、金にはならぬが、それよりも名を得た方がいいに決まっている。(中略)
小説書きとして、終わりたかった。

出典:西村賢太. 苦役列車. 新潮文庫

何かと時代や権力、そういったあらゆる俗物的なものに盾ついた彼だが、川端賞受賞のため、彼なりのジンクスを実行したりしている。19歳の貫多の青春への憧憬と妬みと同じように、小説家として名を残すことへの憧れと執着がうかがえ、しみじみした。

さいごに

個人的には、「苦役列車」よりも「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」の方が、西村氏の人となりというのがうかがえて楽しめた。まあストーリーと言っても、中年のおじさんがぎっくり腰に苦しみながら、川端賞受賞を祈っている日常、というだけなのだが。

最後の方で、古本屋で目当ての本を見つけ、川端賞受賞を確信して浮足立つも、突然自分の老後の不安に襲われて気分が沈む、という部分があったが、こういう、ちょっとしたことでなんだか自信がみなぎって気が大きくなったり、またちよっとしたきっかけでふと不安に襲われて、その不安が連鎖して巨大な不安の塊となって心を占拠して、暗い気持ちになって心なしか天気も体調も悪くなってくるような感覚、すごく共感するし、その描写がとてもよかった。
最後のこの表現が、哀愁漂っていてとても気に入った。私も年を取ったのだろうか。

ーワンカップのぶ厚い壜を握りしめつつ瞑目して項垂れる貫多は、一歩も動けぬまでになった腰の痛みも相俟って、いつまでもその場に立ち尽くしていた。

出典:西村賢太. 苦役列車. 新潮文庫

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